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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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23.話が通じない人間がふたりもやってきた


 冬の冷たい雨が降る日のことだった。

 中嗣が戻ったら、まず湯浴みをして貰わないと。着替えも火鉢の側で温めておいて。その前に温かいお茶を出そうか。夕餉は皆で鍋を囲むのもいいな。鍋の準備を手伝って、玉翠には味付けをお願いしよう。

 時折写本をする手を止めては、窓の外を見て華月は同じことを考えていた。


 早く帰ると言っていたし、いない間に出来るだけ写本を終えておこう。と思うも、この日はどうしてか集中出来ない。雨音が集中力を削ぐようだ。


 集中せねばと筆に墨を含んだところで、華月は筆から手を離すと、首を捻った。


 屋根や外壁に激しく打ち付ける雨音が、その声までも掻き消してくれたなら。華月は変わらず二階で写本を続けていただろう。


 しかし、そうはならず。



 ◇◇◇


「あの男の妻を出せ」


 押し入り強盗が金を出せと要求するような言葉は、美しき男が同じ系統の美しき女を連れて店に入るなり玉翠に伝えたものだ。

 彼らの足元では、濡れた傘から流れた水滴が土間に模様を広げていて、反射的に頭を下げた玉翠はしばしこの様子を観察してしまった。


 この二人が来たら、まともに話さなくていい。

 というより、会話は成立しないだろう。


 と聞いていた玉翠は対応に悩む。

 まず顔を上げるべきか、否か。

 名乗りもしない相手に対して、礼儀は必要であろうか。

 しかもここは、写本屋で玉翠はその店主だ。

 それでもこの手の者に激怒されると厄介には違いない。


 玉翠は恐れ多くもという形をとって、なるべくゆっくりと顔を上げることにした。途中で咎められたなら、また頭を下げるだけである。


 しかし顔を上げ切ることは許された。


「あの男とはどなたのことにございましょうか」


 玉翠が淡々と問えば、目の前の美しき男は眉を吊り上げ、いかにも憎々しいという顔で口を開く。

 玉翠の何を持って、この男は美しき顔をそのように歪めることが出来たのだろう。


「中嗣という文官だ。知らぬとは言わせない」

「中嗣様のことでしたか。されどあの方に妻はないと聞いております」

「では何故あの男はこの写本屋に通っている?おかしいではないか」

「何故と申されましても。こちらの写本を気に入っていただけているのではないでしょうか?」

「それだけの理由で毎晩寝泊まりすることはあるまい」

「それは……」


 玉翠の説明の言葉を遮断して、男は言った。


「御託はいい。調べはついているのだ。いいから、その者を連れて参れ」


 玉翠は困った顔で後ろを振り返る。そろそろ彼が現れるはずだ。

 と思ったら、まさに期待通りだった。


 男女は店の奥から近付く人影を食い入るように見ていたが、ほとんど同時にその美しき顔に失望の色を滲ませた。彼らとしては期待していない男がそこにあったからだ。


「これは賑やかですなぁ。またしても兄妹揃って、仲の良いことで」


 羅生は玉翠を越えて、勝手にあの楽に履ける靴を拝借しては土間に出ると、堂々と男女の前に立ちふさがった。


「何故ここにいる?」

「はて。私がここにいて何か問題がございましょうか?」

「問題があるかどうかは関係ない。やはりあの男に頼まれて動いているのだな?どこにあいつの妻を隠した?」

「ははは。何か勘違いしておられるようで。家の権威を失いし今は、医官らしきことが出来ず。暇をして腕が鈍ってはいけませんからな。街で診療の真似事をしているのですぞ。その拠点にここはちょうど良きところでしてな」

「拠点だと?」

「宮中からほどほどの距離があり、落ち着きましょう。中嗣様も気に入りの場所だと聞いておりますぞ」

「あの男がこの店を気に入っているのは、ここに妻を匿っているからだろう?」

「はて。何を言っておられるのやら。妻などはまだ娶っておられぬはずですが?」


 早くそれが出来る男になって欲しいものですな。

 という続く羅生の呟きは、男女には届かなかった。雨音はいい具合に必要な言葉だけを男女に届ける。


「お前も隠す気ならば、容赦はせんぞ」

「ですから、何の話をしているのか分かりませんぞ。私は本当に中嗣様から妻がいる話を聞いてはおりません」

「妻でなくてもいい。ここに囲う女を連れて来い。確かにいるのだろう?」

「それもおかしいですな、玉翠殿」


 玉翠は深く頷いてみせた。


「えぇ。こちらには私と、写本師の二人しかおりません。あとは中嗣様と羅生様が時折お泊りになられるくらいでしょうか」

「ここは宿泊施設とでも言う気か?」

「あぁ。それは言い得て妙ですな、邑天殿。この写本屋は二人しか働き手がおらぬ割に部屋が多く、我々が泊まる部屋も沢山ありましてな。さらにはこちらにおられる玉翠殿の料理が絶品でして、中嗣様も私もこれを目当てにこの写本屋に泊めて頂いておると言っても良いでしょう。もちろん礼はしておるのですぞ」

「戯言を」


 不快だと顔を歪める男は邑天。現武大臣である邑昌の長男だ。

 さすれば付き添う女は、邑仙。同じく邑昌の次女であるが、今日の彼女はおとなしく、兄の後ろでくねくねと首を動かし視線を彷徨わせていた。その様が獲物を求める蛇のようで、玉翠は不快感を覚えていたが、それを表に出すような愚かな真似はしない。

 玉翠は、官への対応をよく知った男である。


「隠し立てをしてどうなるか、分かっているのか?」

「邑天殿に協力する気がありましてもな、本当に思い至る者がこの写本屋には存在せぬのですぞ。逆にこちらから問いたいぐらいでしてな」

「何を問う?」

「どのような娘を探しているかという点ですぞ。こちらにはなくとも、私は街には明るく、どこかで見聞きしたことがあるやもしれません。特徴を伝えてくだされば、私もその妻とやらを探すことに協力いたしましょうぞ」


 ようやく女が羅生に視線を置いた。

 男に媚を売るような化粧を施していながら、眼光は鋭く、男に媚びへつらう気などさらさらないのだろう。こちらの命じたままに動け、とその瞳は隠すことなく語っている。


「あなたの知る美しき方を教えてくださればいいのよ」

「美しきお方ですか?」

「えぇ。見目の良き方であるはずですもの。もちろんわたくしほどに美しい者などそういないでしょうから、わたくしには及ばぬも、それなりの美しさを持つ方ですわ。それから口が達者に違いないのよ。あの方が長く騙されているのだから、これは相当なものだわ」


 羅生は笑いを堪えることに苦労していたが、玉翠は逆に心の内で挑戦的なことを考えていた。

 このような女にうちの華月が負けるわけがないだろうと。羅生からすればこちらも笑い話だ。


「口が達者な者ならば一人……いえ、違いますな。貴殿のように見目麗しき者などはなかなか」

「言い過ぎたかもしれませんわ。わたくしよりはるかに劣っていても構いませんの。そもそもわたくしほどに美しい方など、この世にはおりませんでしょうし」

「ふむ。これはその者を見付けるのに苦労しますぞ。写本屋になきことだけは確かですがな」


 玉翠が実はムッとしていることなど、羅生は知るはずもない。

 言葉の代わりに聞かれたため息にどんな想いが込められているかなど、分からなくて当然だった。

 玉翠にとっては、誰よりも可愛い娘。その点に関しては、中嗣と話が合うところである。


 カチャリ。


 嫌な音がしたのに、羅生は笑った。玉翠は後方の階段を見やるも、華月の姿を感じずにほっとする。しかし雨音が、二階で華月が何をしているかをあやふやにしていて、それは不安だった。

 もしかすると華月は……心配になった玉翠は、羅生がこの場を早く収めることを願っている。彼もまた、その嫌な音に対して何の恐怖も感じていない。ただそっと番台の下にある必要なものを手に取った。


「戯れはもう良い。あの男に関わる女をすべてここに連れて参れ。これは命令だ」


 邑天は腰から刀を取ると、わざわざ両手で柄と鞘を持ち、羅生に見えるようにして刀を鞘から抜いた。

 露わとなった美しき刃文が、ここが写本屋の店先であることを忘れさせる。


「邑天殿に命じられる身になった覚えはありませんが。このようなところで刀を抜き、許されるお立場にもあるとお思いなのですな?」

「庶民の店で何をしようと問題はない」

「中嗣様も通う場所ですぞ?」

「あんな男はどうでもいい」

「そうでしょうかな?お父上様も黙っておられぬのでは?」

「父上も関係ない。私たちは次期皇帝の叔父上と叔母上になる身。逆らえる者はない」

「それを言いますと、お父上様も次期皇帝の祖父殿に当たりますが?」

「黙れ。お前の戯言に付き合う暇はないのだ。この場にお前の知る限りの女を連れて来い!」

「私の知る限りとなると途方もなき数になりそうですが」

「揚げ足を取るな!あの男に関わる女だけでいい」


 邑天が早口になっていく様子から、時間がないのだという焦りを如実に感じ取り、羅生は笑った。

 玉翠にはそっと目配せをして、その身を下がらせる。


 すぐに羅生は視線を戻し、邑天を睨み付けながら、玉翠に宣告した。


「玉翠殿。店が少々汚れますぞ。文句はあの方へ」


 この言葉を合図に玉翠はさらに後方に下がって、階段下へと移動した。しかし邑仙が蛇のような輝きのない瞳でじっと玉翠を見ているので、それ以上は動かない。




 ◇◇◇


 さて、二階の様子だ。

 二階では華月が頭に手ぬぐいを被り、そっと窓を開いて、通りの様子を確認していた。

 雨のせいか、人通りはほとんどなく、歩いている者も傘を差して俯いたまま足早に去っていく。

 こんな日に上を見る者はまずいないだろう。


 意を決した華月が、窓を乗り越えようと片足を上げたときだ。

 華月は慌てて身を引いて窓を閉めようとしたが、それを阻む荒々しい手が窓の木枠を押えると、今度は叫ぼうとして――



 その手はいつの間にか伸びてきて、華月の口を覆っていた。



 嘆かわしきは、雨音がこの程度の物音を一階に届けないことである。

 二階にも階下の会話の仔細までは聞こえないように。

 玉翠は階段の下にありながら、邑仙と見つめ合い動かない。



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