21.思い込みは真実を隠してしまうのだ
まだ日が暮れる前に宮中を出た中嗣は、写本屋の暖簾が下げられていることに気付いて、慌てて中に入った。
華月の調子が悪いときは、玉翠が側にあるため躊躇なく暖簾を下げるからだ。
ところが店に入れば、玉翠は台所にいることが分かったし、奥からは話し声がしている。寝込んでいないと分かりほっとしながら、並ぶ靴からまだ彼がいることも分かったので、中嗣はそっと家に上がり客間を目指した。
客間の戸は開かれていたが、中嗣は中の様子を見て目を疑い、考える間もなく戸の横の壁を強く叩いてしまう。
そうなっても仕方がないだろう。世話を頼んだ男が信頼を裏切るように、好いた娘を前から抱きしめていたのだから。
と誰かに叫びたい中嗣だったが、なるべく冷静に対応しようと心を諫めた。
元より強く怒るほどに、心は鎮まる質にある。
「どういうことか説明してくれるね?」
羅生はくつくつと笑うが、中嗣はこれをいつものように受け止め、いや、受け流す器にない。
説明を返さない羅生に中嗣は一層の低い声で名前を呼んだ。
「羅生?」
「あれを試しただけですぞ」
羅生の言葉を聞くなり、中嗣ははっとした。
華月と目が合えば、またしても衝動を抑えることが出来ずに駆け寄ってしまう。
中嗣が身を屈めながら近付き、その身を抱きしめたとき、ほっと息が吐かれたのは両方からだ。
「ただいま、華月。長く待たせたね」
「そんなに待った覚えはないけれど。おかえりなさい」
ぎゅうぎゅうと抱きしめ、頭を撫でれば、華月は抵抗しないどころか、中嗣の胸に顔を埋めてしまった。
腕の中にあれば、先までの怒りが瞬く間に薄れてしまうのだから。中嗣は華月の首筋に顔を寄せながら、自虐的に笑った。だが、許したわけではない。
「さて。薬も要らぬようですし、私は玉翠殿の手伝いでもしてきましょう」
「手伝いはこちらでするよ。君は帰るといい」
「おや。私あっての楽しい時間が待っておりますが、よろしいので?」
「君がいなければ、もっと楽しい時間が待っていようね」
「ははは。ご冗談を。華月、先のことは適当に言っておいてくれ」
「華月からも聞こうが、君からはあとで仔細説明して貰うよ。そのつもりで」
羅生は答えず、手をひらひら揺らしながら客間を去っていく。それもご丁寧に、最後には戸を閉めて。
抱き合う二人を残し、客間はしばし静まり返った。それは中嗣にとっては、心を満たすに十分足る時間となる。腕に抱くたび、側にあるだけで構わないのだと改めて感じ、そしてそう出来ることを心から有難いと思った。
中嗣には華月にはない離れていたときがある。今の幸福を確かに実感出来る時間があったことは、ある意味で幸せだったと、二度と手放す気はなくも、それは感じている中嗣だった。
永遠にも続きそうだった穏やかな沈黙を破ったのは、華月だ。
「今日は色々あってね。中嗣には沢山話したいことと、沢山聞きたいことがあるの」
「私も沢山聞きたいことがあるよ。話したいこともある」
「うん。明日は宮中に行くの?」
「行かなくていいよ」
「そうではなくて。朝は早い?持ち帰った仕事は沢山ある?」
「どうした?明日何かしたいことがあるなら……」
「そうではないの。中嗣のお祝いをしようと思って。祝われるのは、嫌?」
分かって聞いていないことが、華月の怖いところだろう。
それが可愛いおねだりに聞こえた中嗣は、見悶えそうになる衝動を抑えようと華月の頭を撫でた。
「嫌なものか。君には毎日でも祝われたいよ」
「毎日は祝わないけど、それなら良かった。美味しい料理屋を見付けたんだけど、そこでお惣菜を沢山買って来たの。他にもね、珍しいものを色々買ってきて、いいお酒も買って来たんだよ」
「羅生とか?」
「そうだよ、羅生と一緒だった。それならいいのでしょう?」
「……羅生が言ったのか?」
「分かってしまっただけだよ。中嗣こそ、どうして言ってくれなかったの?聞いていたら、私だって家でおとなしくしていたよ。岳や伝にだって来ないように言うし、妓楼屋だって行かないのに」
またぎゅうっと腕に力を込めて華月を抱き、華月に見えないようにして中嗣は力なく笑った。
「君の自由を奪いたくなくてね」
「家にいても自由にしているよ。私が最も好きなことをいくらでも出来るわけだし」
「君の最も好きなことはなんだ?」
「まだ知らなかったの?」
「書を読むことだね」
「正解!」
なんと無意味で甘い問答か。
羅生が聞いていたら、呆れた顔をして鼻で笑っていただろうが。
今は玉翠のところで、手伝いという名の邪魔をしていた。
中嗣は前から抱いているのに、華月のお腹に触れたくなって、密着する体の間に手を差し入れる。
「もう痛くないね?」
「どうして分かったの?」
「君の顔を見れば分かるよ。先は羅生で試していたのか?」
「羅生から言ったんだよ。官だからかもしれないからって。官にはそういう力があるの?」
「あぁ。よく言い聞かせておくよ」
おかしな返答に華月が首を傾げると、中嗣はその顔を見ようと少しだけ体を離した。
そして今度は頬を撫でると、華月は目を細めるも嫌がらない。
「羅生でも楽になったか?」
珍しいことに、作り笑顔もなく、中嗣は真剣な顔で華月に問うた。
華月がまた首を傾げてしまい、中嗣の手も一緒に揺れる。
「うぅん、ならなかったの。それどころか不愉快だった」
輝くほどの笑顔が眩しかったのか、華月はまた違う理由で目を細め、眉も寄せて、中嗣を見ていた。
中嗣はそれは嬉しそうに、「そうか。そうだろうね。うん、そうだと思っていたのだよ。不愉快とは。うんうん、これは良きことだね」と頷きながら、また一人で納得している。
「不愉快だったことがそんなに良かったの?」
「あぁ。今日はその祝いの酒になろうね」
「はい?」
「官位などどうでもいいが、これは祝うほどに嬉しきことだよ。今宵は、いや、これからはずっと素晴らしいときを過ごせるだろうね。今日はなんと良き日なのだろう。ありがとう、華月」
「はぁ?」
半眼の酷い顔で見られようと、中嗣の笑顔は曇らない。
華月は早いところ話題を変えようと思ったのか。
「今日は羅生が武術に長けていることを知って驚いたんだ。中嗣も知っていた?」
途端に中嗣の顔色が曇る。心底苦しそうに眉を下げ、華月の頬を両手で押さえた。
「もしや乱暴でもされたのか?」
「違うよ。羅生は伝と勝負をしてくれたの」
焦るように華月がことの顛末を説明していたら、戸を叩く音がした。
「夕餉の支度をしても構いませんかね?」
許可も同意もなく戸が開き、羅生は盆に載せて持って来た空の食器をさっさと座卓の上に並べていく。
「準備なら私もするよ、羅生。あ、中嗣は座っていてね。今日の主役なんだから!」
犬のように喜ぶ男は、話を聞いていないのか。華月を抱きしめ離さないようにして、華月に三度も叱られたあとに、ようやく腕の力を抜いた。最後には華月に腕を叩かれている。
羅生はこれをいつものように揶揄せず、二人を眺め、考えごとをしていた。
己で効果がないとすれば、考え方を改めねばならない。根底から覆る可能性もある。これは面白いことになってきた。
羅生の口角は自然に引き上がり、中嗣から咎めるような視線を受けると、喉の奥で笑いを止めて、羅生は客間から台所へと戻っていく。
今宵の写本屋にはご機嫌な男しかいないようだ。
料理を大皿に載せて運んで来た玉翠もまた、いつもより深い笑みを零していた。その後宴が終わるまでに、彼からのため息は一度も出ていない。
読んでくれてありがとうございます。
皆さま、良いお年を。