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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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20.だから浮気中ではございませんって


 結論から言えば、勝負にはならなかった。

 伝の体のどこも、羅生の体には届かなかったのだ。

 そうして伝が息を切らし始めたとき、羅生が伝の腹へと一撃を入れて、それで終わった。慣れているはずの伝が蹲り、しばらく動けなかったのだから、その拳の重さは相当なものだったと推測出来る。


「というわけで、小僧。これを罰として、今日の無礼は不問としてやる。去っていいぞ」


 すでに罰を与えたのだから、不問ではないのでは?

 と思ったが、もはや伝に関わることで言葉を出す気力もなくて、またしてもため息を漏らしてしまった。


「華月。楊明殿とも話をしておけよ」

「あぁ、そうだったね。岳。しばらく写本屋に来ないで欲しいんだ」

「どうしてだ?」

「官の皆様に色々あるんだよ。分かるでしょう?」


 岳は素直に頷いてくれたが、迷うように言葉を足した。


「食事の件だが」

「それもしばらくは厳しいかな」

「俺たちも共に付き合って構わないなら、話は別だぞ」

「いや……分かりました。考えます。ところで、白。いや、華月。客として店に伺う分には問題ないか?」

「それが出来るならね。写本屋は変わらず営業中だから」

「理解した。おい、伝。行くぞ」

「うるせぇな。放っておいてくれ」


 蹲る伝からは、なお変わらない言葉が漏れた。

 官に殴られても駄目か。


「お許しいただいたんだ。これ以上無礼を重ねる前に行くぞ。ほら、立ちやがれ」


 嫌がる伝の腕を掴んで、岳は改めて羅生に頭を下げた後、この場を去っていった。

 去り際の伝の「おい、お前!覚えていやがれ!これで終わったと思うなよ!今日は調子が悪かっただけだからな!」という喚きは、完全なる負け犬の遠吠えであって、恥ずかしくなった私は額を押える。


「体はどうだ?」

「え?うん。問題ないよ」


 痛みが続くかと言えば、そうではなかった。

 今は落ち着いているが、別の意味で頭が痛い。


「それよりごめんね。あの子にはちゃんと改めてお詫びとお礼をするように言っておくから」

「別に構わんぞ。元はと言えば、あの武官らが悪いのだからな」


 これを伝の前で言わない辺り、羅生は分かる人である。


「見廻りの官って、どうしてあんな感じになるの?」

「下の者が多いからだ。先の奴らもあのように偉そうにしていたが、それほど良き家の者ではないはずだぞ。俺が顔を知らぬくらいだからな。宮中で燻っている鬱憤を外で晴らそうとすれば、自ずとあのようになる」


 中嗣も武官のときには見廻りをしていたと言っていたけれど、大変だったのではないか。色んな意味で。


「まぁ、俺にはあ奴らの気持ちなどは分からぬことだ。何せ俺は怖いものなしの良き家に生まれてしまったからな」

「笑いにくいよ?」

「俺が気にしていないのだから、笑えばいい。して、どうする。帰るか?どこか寄るか?」

「うーん。何か食べたいな」

「俺も久しぶりに動いて腹が空いたところだ。食事なら馳走してやるぞ」

「いいの!」

「あぁ。家がどうなれ給金は変わらんし、これからを期待出来る状況だからな」


 不敵に笑った羅生に続き、狭い道を抜け、また桜通りに戻った。

 中嗣は夜に拗ねるのだろうなぁと思う。



 入ったことのない料理屋で、鶏料理をたらふく食べた。

 とても美味しく今度は皆で食べに来たいと思ったが、この店は少し遠いかなぁと考えていたら、惣菜を持ち帰ることも出来ると店の人が教えてくれた。それで買って帰ろうと思い立てば、これも羅生が支払ってくれる。


「ありがとう!いいの?」

「気にするな。これは後の楽しみのためだからな。今宵はこれをあてに酒を楽しむか?」

「え?飲んでいいの?」

「一滴も飲んではならんと言ったことはないぞ。よし、酒屋にも寄って帰るとしよう。飲むなら、いい酒に限る」

「嬉しい!中嗣も説得してね!」

「説得など要らぬだろう。お前にならんと言える男だと有難いがな。ふむ。今宵は祝いの席ということでどうだ?」


 有難いとは何か気になったけれど、祝いの席だと伝えたら、余計に嫌がられないだろうか。


「中嗣は祝われる気分ではないと言っていたよ?」

「本音と建て前は違うぞ。それから誰に祝われるかという点も重要だ」


 本音と建て前ということは、中嗣は本当は祝われたいと思っていたということ?

 そうだとしたら。


「早く帰って玉翠にも伝えないと!中嗣が帰る前に準備を終えよう!」


 今日は卓にご馳走が並ぶかもしれないね。

 あぁ、でも。玉翠に手間を掛けないように、沢山買い込んでから帰ろう。


「そう急くな。玉翠殿の負担になっては申し訳ない。祭りのときのように買い込んで帰ろうぞ」


 羅生とは気が合うみたいだ。


「それなら私も買うよ。少しなら持っているから。今日は沢山買って帰ろう!」

「その方が喜ぼうな」


 気が付けば、羅生が大荷物を抱えていて、私も風呂敷に包んだ少しの荷を持っていた。

 前に中嗣と買い出しに行ったときのようだが、違うのは、羅生は私の荷をすべて奪わないことである。少しは持った方がいいと羅生から言ってくれて助かった。私だって鍛えておきたいのだ。


 買い物に夢中になるあまり気が抜けて一度転びそうにはなったけれど、羅生って意外と凄い人かもしれない。

 あの頼と同じように、私の前に腕をさっと出して捕まらせてくれたのだ。荷物も抱えていたのに。


 頼はどうしているか。しばらく会えそうにないね。

 ぼんやりと思った時、どうしてか、またお腹と足に痛みを感じた。どうやら薬が切れたみたいだ。早く帰ろう。



 ◇◇◇


 それからどうしてこうなったのか。

 玉翠に促され、帰宅後に客間にて羅生と共に休憩していたのだが。

 ちなみに玉翠は、すでに店の暖簾を下げて台所に籠っている。


「良きものを買えて良かったな」

「うん。気に入ってくれるといいけど」

「あの方が気に入らんことはなかろうぞ」


 ちょうど火鉢で温めていた茶瓶の湯が沸いたので、私は煎じた薬草の粉が入った瓶を棚から取り出したところだった。


「待て。まだ飲むな」

「新しい薬がいいの?」

「新薬を試すのは次回だ。酒に合う薬はまだそれだけだからな」


 それなら何だろう?と首を傾げて待っていたら。


「こちらに座れ。俺でどうなるか試そうではないか」


 何を言っているか分からなかったのは、考えたこともなかったからだ。

 私が分からない顔をしていたのだろう。羅生はさらに言葉を足した。


「官だから何かあるということもあろう。知っていると役に立つこともあると思わんか?」


 そういう話か。

 うーん。だけど嫌だな。何故か説明は出来ないけれど、理由はなくも嫌なんだ。


「羅生が言うところも分かるけれど、今度にしない?」

「機は逃さん主義だ」


 羅生は強引にそれをした。

 昼間の伝に対する動きを見ていたら、羅生にも体術で敵うことはないと分かっている。

 だけどどうして羅生は、あのように動けたのか。

 羅生は医官だよね?実は武官もしているとか?それとも中嗣のようにかつては武官だったことがある?

 中嗣は羅生の事情を知っているということだろうか。


「どうだ?」


 考えていたら、耳元で問う声がした。何をされているか、忘れるところだったよ。


「うーん、不愉快?羅生はあまりいい香りがしないのね」

「俺の心を抉る必要はないぞ」

「抉る気はないけれど。私は何も変わらないかな」

「中嗣様と同じようにはならんか?」

「うん。あのふわっとした感じがない」

「ほぅ。これは面白いな。しかし残念だ」


 何が面白いのか、そして何が残念なのかは分からないが、不愉快だし、早いところ離れようと思ったときだ。

 家で聞いたことのないような大きな音が鳴り、その驚きで体を揺らしてしまった。

 瞬間的に、羅生も体を引き離した。うん、不愉快なだけだったね。体が弛んでいるわけでもないのに、中嗣の方が柔らかい感じがするのは何故だろう。羅生の体はごつごつとしていて、こちらの体の収まりが悪いのだ。背中に回された手も中嗣より固い感じがする。それに匂いも……心を抉る気はないんだよ?ただ私の好まぬ香りだったというだけ。


 それよりもだ。気配なく家に戻るのは辞めて欲しいし、どこにぶつけたかは知らないけれど大きな物音を立てることはもっと辞めて欲しい。

 怪我でもしていないといいけれど、また看病だろうか……あれ?

 なんだか中嗣の顔がおかしい。見たことのない深刻な表情をしているけれど、そんなに痛かったの?


 体の冷えを感じて、身震いをしてしまった。なんだか急速に部屋が冷え込んだ気がする。

 中嗣と一緒に外の冷気が入って来たのかな?


「これは目に余るよ、羅生」


 中嗣の声があまりに低くて、そこまで痛かったのかと心配になって駆け寄ることは考えた。いや、駆け寄ろうとはしていた。

 けれども立ち上がる気力が湧かず、足にも力が入らず、そんな自分の体に驚いてしまう。

 もう湯は沸いているし、さっさと薬湯を飲んでしまえば良かった。


「はは。意外と早いお帰りでしたな」

「どういうことか、説明してくれるね?」


 変わらず低い声が続き、何を考えているのだろうとその真顔を見ていたら、中嗣の瞳が私を捉えた。

 すぐにはっとした顔をして、近付いてくる。


 不思議なことが起こる。

 触れる前から、温かい何かに包まれた感覚があって、同時に痛みが引いていた。

 私の傷に何が起こっているのだろう?




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