19.合わせた対応が必要ですよね
青白い顔のまま視線を落とした伝は、先までとは違い威勢の消えた声で呟いた。
「俺は別に……」
「伝が考えていなければ、そんな言葉は出て来ないはずだよ。伝こそ、禅は無駄死にだったと思っているのでしょう?」
「そんなことはねぇ」
「それなら禅と同じように無駄なことをして死にたいとでも考えていた?」
「それは……」
そんなことだろうとは思っていた。伝の変わらない態度は、禅を模倣したものだ。
禅と私は馬鹿をしたのだと散々説明をしたはずだけれど、説明出来るときが遅くなったこともあって、私たちの望む通りにあの子たちを導くことは出来なかったんだ。
何せことが終わったら、禅はこの世になく、私も瀕死の状態で長く寝て過ごすことになったのだから。
特に厄介だったのは、小さい子らほど、禅や私をよく慕ってくれていたことにある。
いくら私たちのせいだと伝えても、官を憎む気持ちは消せなかったのだ。それが世に出て困ることになると怪我から立ち直ったときには痛いほどに分かっていた私は、自分のことは諦めて、それらを消し去ろうとした。
それで中途半端な思想が伝に根付いてしまったように思う。
禅の死を無駄だと思いながら、まだ伝は官を憎み、官を恨んで、禅に憧れたままでいる。
私たちはなんてものを残してしまったのだろうか。
もっとよく考えられていたら。もっと世を学べていたら。
そして私が、一人になったあとに、もっと上手く立ち回ることが出来ていたら。
一度目を閉じてから、想いを飲み込み、伝を睨んだ。
「禅と同じ行いをするなと言ったよね?世に出てみたら、伝もその意味がよく分かったはずでしょう?」
「うるせぇな!俺には分からねぇよ!」
相手は何を言っても、反抗したいお年頃なのではないかと思えてきた。
とても疲れる。
「何がどう分からないの?」
「うるせぇ。俺はお前なんかに従わねぇからな」
だから従えとは言っていない。
世を生きていくために必要な最低限のことを伝えているだけだ。
「白はどうして……本当にどうしたんだよ!」
「はぁ?」
つい口が悪くなっていく。私だってね、いつまでも我慢して聞いていられないんだよ、伝?
あ、すでに手は出していたね。そうだった。殴ったあとだ。
「官にすっかり絆されやがって!昔のかっこいい白はどこに行ったんだよ!」
「過去の私を勝手に美化しないでくれる?それに今も素敵でしょう?」
ねぇ、羅生。今、笑わなかった?
ちらと見たら、羅生が口元を押えているんだけど?
羅生に対しいつも通り嫌な人だと思っていたら、熱くなっていた気持ちも消えて冷静になった。
けれども伝は逆だったようで。
「なんでだよ!なんでだ?なんで……昔の白なら俺が正しいと言ってくれるはずなのに。なんでそんなに変わっちまったんだよ。どこが素敵なもんか」
絶望したような口調で語られたが、元の私のことなんて、私自身にも分からない。
分かることは、世には正しいことは少なく、多くは不条理なもので成り立っているということだけだ。
その世を生きるためには、私は昔のままではいられなかった。そして変わってしまったあとには、変わる前の思想に戻ることは出来ない。
それでも今の私にだって、かつての私のことで確かに分かることもある。それは昔の私だけの話ではない。あの当時の禅だって、今の伝が正しいことをしていると称賛しないだろう。それどころか暴力込みの説教が始まる。
「あの頃の白は皆の憧れだったんだぞ。それなのになんでだ?」
まだ伝は喚いていた。そんなに落ち込まれたって、私は元に戻らない。
「失望してくれたなら、それは嬉しいよ」
「なんで喜ぶんだよ!やっぱりそうだ。白は官に寝返って、俺たちを見捨てたんだな」
うーん。寝返った覚えはないが、見捨てていないかと問われると、微妙だ。
もう世話をする立場にはないと思っている。思いながら、この通り、まだ世話をしてしまっているけれどね。
もう辞め時かもしれない。
過去に付き合った人たちから手を離すときなのだろうか。
誰から?何を?今さらに?
これまで甘やかしてきた者たちはどうなる?
『誰のことも甘やかすな。前と同じになるぞ』
ズキンとお腹に痛みを感じ驚いた。まだ薬が効いている頃だと思うのだけれど。
「聞いているのも飽きてしまった。口を挟ませて貰うぞ」
羅生がずかずかと歩み寄り、伝の前に立つや、にやぁと嫌な顔をして笑ってみせた。
何をする気だろう?
「おい、小僧。何か勘違しているが、お前はまだ無罪放免の身にはないのだぞ」
「何だと?」
「俺がそうと決めれば、お前を牢に押し込むことも出来ような。それから覚栄殿にも落とし前を付けて頂かねばならぬ」
「なっ。お前には何もしてねぇだろうが!」
「その口の利き方が問題だ。官である俺に対し、許されるものではない」
「なんで俺だけに言うんだ?こいつらだって普通に話しているじゃねぇか!」
伝は何を見聞きしてきたのか。岳だって、まだ官の前ではそれなりに言葉を選んでいるではないか。
どうやら岳も同じことを思いムッとしたのか、捲し立てるように言った。
「何を言う。俺は羅生様に無礼なきよう、いつも気を付けておるぞ」
「この間の官の前ではそうでもなかった!」
「それは中嗣殿が、様も要らぬし、もっと気楽に話せと言ってくださったからだ。許されぬうちから、気軽に話したりなどはせん」
信憑性は怪しくもあったが、米問屋の若旦那をしていられるのだから、官に向けてはそれに相応しい対応を出来ているのだろう。そうでなければ、きっと奥さんが叱っている。
「なぁ、白だって同じだよな?」
岳は私にも同意を求めた。
かつてを思い出せば、今の伝より言葉遣いは酷かったかもしれないが、むやみやたらに盾突くことはなかったね。
中嗣と会ったときはどうだったか。
確か玉翠からよく躾けて貰った後だったから、きちんと敬語で話していたはずだ。
その場でそれを辞めてくれと言って止めたのは、中嗣である。立場を越えて仲良くなりたいのだと中嗣は言っていた。
そして私が、羅賢や玉翠に対し彼らだけのときには敬語どころか敬称も使っていないことを知ると、自分にもそうしろと言ったんだ。
その割に、他の官を様付けで呼ぶと、今度はどうして自分にはないのだと拗ねて、それで様を付けてみればまた嫌がり……うん、辞めよう。今は伝のことだ。
「そうだね。私も気楽にするようになったのは、官から許しを得てからだ。ねぇ、羅生。そうだったよね?」
「いつも通りでいいと言った覚えはあるぞ。場所も場所だったからな。同じときに呼び捨てにしろと言ったのも覚えている」
羅生との出会いは逢天楼だった。
羅賢が孫を連れて来たと言って優しく笑ったあの日。孫同士が仲良くなることは嬉しいと、決して孫ではない私にそう言って、初対面で碁を打つ私と羅生の横で羅賢は美味しそうに酒を飲んでいた。なんだったんだろうね、あれは。
「分かったな、小僧?俺はまだお前には何の許可も与えていない」
「さっさと許可を与えてくれよ!どうせあとで許してくれる気なんだろう?」
「誰が許す気でいると言った?」
「白と岳が良くて、どうして俺は駄目なんだ?」
「何を勘違いしているか知らんが、まだ俺は楊明殿とそこまでの仲ではないぞ」
「どうせ許す気だろう?」
「ふっ。そうなるかもしれんが、お前は許さん」
「なんでだ!」
「身分を軽視しているからだ。そんな奴に許せば、調子に乗ってろくなことにはならん。今日のようにな」
「うるせぇ!」
「口の利き方くらい覚えろ。お前たちの命など、俺には軽々と消し去れるのだぞ?分かっているか?」
「なっ!白も岳もどうしてこんな奴と付き合っていられるんだ!」
羅生がわざと嫌なことを言っていると分かる伝ではない。
「羅生は正しいことを言っているだけだよ、伝」
「ふざけるな!本当に変わっちまったんだな!白はそんな奴じゃなかったのに!」
あ、逃げる。と思ったら、羅生がその腕を掴み、引き寄せた。
それでせっかく立ち上がった伝は、また転げることになる。
「いてぇな。何をする!」
「口で分からないなら、体で分からせるだけだぞ?」
「はい?」
私の方が驚いて聞き返してしまったが、見れば岳も伝も目を見開いた状態で、羅生を凝視していた。
「何を驚いている?先の武官らにはそのようにするつもりだったのだろう?話もせずに逃げたいのなら、俺を倒すしかなかろう。勝負と行こうではないか」
はぁ?羅生を倒す?勝負だって?羅生は医官でしょう?
「剣は面倒だ。素手でいいな?」
「ちょっと待ってよ、羅生。それはあまりに……」
「華月。俺は今、官として小僧と話している。邪魔は許さん」
それを言われてしまったら、私からは何も言えないけれど。
どうしてこうおかしなことになっていくのか。
お腹の痛みを忘れるほどに、頭が痛くなってきて、こめかみを押えた。人には厄日というものが、本当にありそうだ。