17.時すでに遅しなのだよね
「誰にものを言っているのか分かっておるのか!」
「その齢で謝り方も知らぬとは言わせんぞ!」
続く怒声は武官からだった。
騒ぎは同じ桜通りの前方からで、私はいつも通り、見ないようにして脇を通り過ぎる予定だったんだ。
羅生がそこで何かするとしても、私は離れて関係ない顔をしているつもりだったことは、羅生にもお見通しだったのだろう。
羅生が少し前を歩くようになっていたから。
「お前らこそ、何様なんだよ!ぶつかって来たのは、そっちじゃねぇか!」
知った声がして足を止めた私に、羅生は驚いた顔で振り返り、私を凝視する。
「ごめん、羅生。お願いしたい。知り合いなの」
私がそう願うとは思わなかったのだろう。
羅生はにやりと笑ったあとに、ぽんと私の肩を叩いてから言った。
「元よりそのつもりだ。俺はその身にあるからな。お前は離れていていいぞ。しかし目が届くところにはいてくれ」
堂々たる歩みで騒ぎの元へと近付いていく羅生の背中を見送って、道行く人たちの邪魔にならないように道の端に立つことにした。中嗣の件もあるため、念のため周囲を警戒出来るよう、通り沿いの店の壁際に立たせて貰う。これで後ろに気を配る必要はなくなった。
「さすがは武官殿らだ。元気があり余っておられるようで、今日も街の見廻りに精が出ますなぁ」
羅生の声はよく通り、武官たちはすぐさま反応を示す。
「なんだ、貴様は?」
武官は三人並び立っていて、その前の地面に座る若い男は、すでに殴られた後なのだろう。左頬と腹を押えた前屈みの状態にあった。
あの声を聞かなければ、見ない振りをしていたのだから。私は中嗣のように優しい人間ではない。
一人だったらどうしたかと考えれば、やはり助けた。それは知る者だからだ。
けれども助け方もまた、中嗣や羅生のように正しきものとはならない。
あり金をすべて渡すという至極嫌らしい方法で、私は彼を助けただろう。それで助けた相手から失望され、罵られることも分かっている。
「俺の顔を知らんとは。お前たち、若いにしても、もう少し学んだ方がいいぞ。羅の生き残りについて聞いていないか?」
「あ!」
「まさか医官の」
武官たちは面白いくらいに戸惑った。
羅生は確か五位だから、そこにいる武官たちよりは上位なのだろう。
しかしながら、家というものを考えたとき、羅生はなかなか難しい立場にある。
というのは、中嗣が教えてくれたことだ。私にとっては、五位の官がどれくらい偉いのか、羅の家がかつての宮中でどれほどの力を持っていて、今はどう変わったのか、聞いたところで実感はわかない話だ。
これは今、目の前にある武官らを見ていることで、実感出来るように思う。
中でも偉そうな武官が咳ばらいをしたあとに、明らかな作り笑いを浮かべた。羅生も嫌らしい顔で笑うけれど、これは悪意を感じる人を不快にさせる笑顔である。
「これは羅生様でしたか。気付くことが出来ず申し訳ありません。いやぁ、宮中には素晴らしき家にある諸先輩方が沢山おりますでしょう。さすればもう無き家の方まではとても覚えられないのですよ。大変失礼をいたしました」
「ふっ。お前たちは紅玉御殿に動きがあったことさえ知らんのか?」
「は?何ですと?」
「覚えておくといい。俺は今、黄玉御殿に従い動いていない。どこからか聞いていないか?」
隣の武官から耳打ちされた途端、偉そうだった武官の顔から血の気が引いた。
「中嗣様のところの御方でしたか。あぁ、これは申し訳ない。知らぬとは言え、とんだ失礼を……」
「もう遅い。お前たち、名はなんという?」
「いえ。はい。あの、その前に。街の見廻り中に問題がありまして。今はそこの若造を……おい、お前。何をしている!」
座っていた男は立ち上がり、衣装の汚れを叩いていた。
そっと去ればいいのに、男たちが気にしたことで、その若造は動きを止めて、しかも偉そうな武官を睨み付けるのだ。
「なんだ?まだ何か用かよ」
「我らにぶつかり、謝罪もなしに許されると思うのか」
「だからそれは……」
「待て。ここは俺が引き受ける。小僧はもう何も言わずに右を見ろ」
「は?」
「いいから見てみろ。見れば、分かる」
伝の目が私を捉える。見る間に青ざめていく様は、武官らと同じだった。
私は首を振り、声を掛けるなと伝えたのだけれど。
それは分かってくれたみたいで、二重の意味でほっとした。
「その方らは、この小僧がどこの下働きをしているかも知らんのだな。それでよく街の見廻りなど。外に出る武官はよくよく学ぶ決まりがあったように思うが。お前たちの上司は誰だ?」
「な、何を仰りますか。そこの者はただの小汚い小僧にして」
「お前たちは頭が足りんな。この街にはどれだけの官の屋敷があると思っている?」
「まさか」
若造から始まり、小僧が、小汚い小僧に落ちて。
それでも伝はむすっとした顔をしていたが、背筋を伸ばし武官らを眺めているだけだった。反論しなかったことは最後に褒めてやることにしよう。伝がおとなしく説教を受け入れてくれたあとの話になるから、それが本当に出来るかどうかは怪しいものだけれど、褒められる部分はよく覚えておかないとね。
「この小僧は、覚栄様のところで働く者ぞ。よく可愛がっていると聞くが、お前たち、後でどうなるか分かっているのだな?」
なんだ、知っていたのか。というのが、私の想いだ。
羅生は色々調べたうえで、私のところに来てくれていたのだね。
されどこうなると、前から見張られていたことにもなる。羅生はまだ伝と会っていないはずだから。
今夜はあの人との話し合いも、説教だけでは終わらないことが決まった。よーく話を聞かせて貰わなければ。誰でもない中嗣自身がいつも話し合おうと言っているのだ。話せないとはもう言わせない。
しかし聞いた武官たちには、効果のない発言だったようで。
「覚栄様であれば……」
濁した言葉の先を理解した。私もそう思っているからだ。
何度かあちこちでお会いしたことがあるけれど、人のいいおじさんという感じで、彼からは官の怖さを感じたことがない。官というより、庶民の方がとてもよく似合う人なのだ。
伝のお世話をしてくれているのは、おそらく羅賢が何か言ってくれたのだと思うけれど、覚栄殿は優し過ぎた。
もっと厳しく接してくれていいのに、甘やかしてくれたおかげで、今でもこうだ。
何故小屋を出たあとにまで、私が伝の面倒を見なければならないのか。
「なんだ?まさか、次官から三位に落ちた文官など怖くないと?お前たちからすれば、雲の上の存在だと思うが、その意味で捉えてもいいのだな?覚の家は、覚栄様おひとりでもないのだぞ?」
「いえ、そのようなことは何一つ申しておりません!」
「そうですとも。覚栄様は何位にあられてもご立派な方にございます!」
「私が従う御人は、意外にも覚栄様とは仲良くしておってな。俺への無礼と共に、この件は報告しておくとしよう」
「ひっ。それだけは」
「ふん。もう遅い。見廻りの心得を上司よりよく聞かせて貰え。いいな?」
叫びにならない声を上げて、武官たちは羅生に頭を下げた。
なかなか可哀想になってくるよ。周りに集まる人たちの視線の痛いこと。
それから武官たちは逃げるようにこの場を去った。見廻りはもういいのだろうか?
というか、見廻りとは何ぞや?あとで中嗣に聞いてみよう。
私はと言えば、駆け寄っても来ない伝に近寄り、まずは手首を取った。
「さぁ。お話をしようか」
「離せ。お前に話すことなんかねぇ」
「伝になくても、こちらにはたっぷりあるんだよ。羅生、少し道を外れてもいい?人の少ないところで話したいんだ」
「俺も付き合っていいなら問題はない」
「もちろん。ほら、伝。羅生にお礼は?」
「助けろなんて頼んでねぇよ!」
「羅生、ごめんね。今日は岳のところは辞めておく」
「伝言なら、あとで俺が伝えてやるぞ」
「そうだね。お願いしようかな。急がないし。さぁ、伝。おいで」
腕を振り上げられて、掴んでいた手首を払われた。
やはり力ではもう敵わない。さて、どうするかと考えているうちに、その腕を今度は羅生がしっかりと掴んでいた。
「小僧。言っておくがな。あの武官らからお前の身を引き継いだのは、俺だ。話が終わるまで自由にはさせんぞ」
「離せよ。お前には関係ねぇだろう!」
「関係ないこともない。俺は官だからな」
「正義の官にでもなったつもりかよ。頼んでもいないのに助けやがって」
「助けなければどうなっていたか分からんか?あやつらに首を撥ねられていたぞ」
「向こうからぶつかってきて、どうして首を撥ねられなければならねぇんだよ!」
「そのためにぶつかったのだ。金を払えなければ、刀の試し切りに使われるしかない」
「なんだよ、それ!官だからって、そんなことが許されていていいのかよ!」
伝が騒ぐから、そろそろ体で黙らせようと思っていたところだ。
目立つのは良くないからね。
すでに周囲からの視線が絶えない。
だからと言って、ここで岳まで登場すると誰が思っただろう。
「おぅ。お前ら、何をしているんだ。あ、羅生様も。これはお久しぶりに御座います」
米問屋らしい丁寧な挨拶を始めたけれど、この状況でよく落ち着いていられるね?
羅生が誰の腕を引いているか、見えていないわけ?
「これは、これは。偶然がこうも重なると面白いものだな、華月。して、楊明殿はどうされた?」
「ちょうど白の……華月の写本屋に参ろうとしていたところです」
晴れた日に考えることは、同じなのだろうか。
会ってしまったのだから、これは岳にも付き合わせるとしよう。岳がいれば、力で敵わないという問題も解決する。
さぁ、伝。まずはあなたの説教からだよ。