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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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16.厄日ではないかと気付いたときには


 柳通りに向かうのは、もう何度目だろう。

 少し前まで明るくなかった街の南側にも、知る場所が増えている。


 今日は天気が良かったので写本をひとつ終えたところで、岳に会いに行こうと決めたのだ。

 せっかく中嗣がいないから、そのまま目的もなく街歩きを楽しむのもいいと思ったのに。


「俺もちょうど用事があってな。途中まで共に行こうぞ」


 などと言った羅生が隣を歩いている。

 近頃よくやって来るのだけれど、暇なのだろうか。


「薬はどうだ?」

「うん。助かっているよ。ありがとう」

「効きはどうかと聞いている」

「痛くないから効いていると思うよ」


 痛みを忘れて生きることが出来るなんて、当時の私が知ったら驚くだろうなぁ。

 だけど喜ぶかと言えば、分からない。

 今の私では、あの頃の私の気持ちを理解することは出来ないだろう。

 人もまた変わっていくものだと、近頃よく実感するようになった。私はもう当時の私には戻れない。


「それならいいが、試したい新しい薬があるから、しばらくはそれを飲んでくれ」

「またぁ?」

「いいではないか。お前のような患者は他にない」


 それはそうだろうけれどね。

 こんな患者が沢山いたら、この街には何かが起こっている。


「中嗣様の調子はどうだ?」

「どうって、今は宮中にいるはずだよ」

「家での様子を聞いたのだ」

「うーん。いつも通りだけれど、疲れてはいるみたいね」


 出世したのだから喜べばいいのに、中嗣の口から出るのは不満ばかり。

 迷惑だとはっきり言ったときには、二人で笑ってしまったんだ。

 中嗣は許されるなら、最下位でのんびりと過ごしていたかったそうだけれど、本気でそう望むなら、能力を隠しておけば良かったのにと思う。

 あぁ、羅賢がいたときには、それは無意味だったか。


「大分苦労されているからな。倒れぬようによく叱ってやってくれ」

「次官って、そんなに大変なんだ?」

「仕事の質は変わっていないだろうな。すでに三位のときから、次官の代わりのようなことをしておられたぞ」

「それなら何が忙しいの?」

「今まで中嗣様を見下してきた官共までが取り入ろうと必死だからな。そ奴らに煩わされている」

「好意的ならまだいいと思うけれど、嫉妬されたり、恨まれたりはないの?」

「当然あるな。陥れる隙を探るために近付く阿呆も多いぞ」


 羅生は口が悪く、たまに本当にあの羅賢の孫なのだろうかと疑ってしまうときがある。

 羅賢も聖者ではないし、人を悪く言うことは多々あったけれど、羅生のような直接的な悪口は言わなかった。


「そんな顔をせずともいい。それ以上に恐ろしいことを返してやるのが中嗣様だ」


 羅生にはどんな顔をしているように見えたのだろうか。私は今、羅生と羅賢について考えていただけなのだけれど?


「無下にせず、相手をしてあげているなんて。本当に優しいんだから」

「くくっ。そう言えるのはお前くらいだな」

「羅生だって、中嗣は優しいと思うでしょう?」

「そうも思わん」

「えー」


 羅生はお喋りなせいか、中嗣よりさらに歩みが遅く、私ものんびりと歩くことが出来て気は楽だった。

 柳通りは広い宮中をさらに越えたところにあって、写本屋からは遠いのだ。岳はいつもよく来るものだと思う。


「この間も青玉御殿に乗り込んで、邑昌様を脅してきたところでな」

「その人は武大臣だったよね?」

「よく知っているな」


 書類で見たからね。とは言わない。

 羅賢からも聞いていたよ。とも言わない。

 羅生が知ったら、何か良からぬ話に発展しそうだもの。


 だけど聞いたところによると、悪い人ではなさそうだった。

 中嗣も悪くは言っていなかったけれど、何かあったのだろうか?


「名を聞いたことがあるだけだよ。その人は何をしたの?」

「あの方は武官としては素晴らしき御仁に違いないが、大臣として足りているかと言えばまた微妙なところでな。それが親となれば、赤子より未熟者に落ちるのだ」

「親となれば?それなら、その人の子が何かしたのね?」

「くくく。それは中嗣様に聞いてみよ」

「えー」


 話し始めたのなら、最後まで言ってくれたらいいのに。

 ところが羅生は足を止めて、にやりと笑ったんだ。


「中嗣様から面白い話題を奪ってしまうかも分からんな」


 私も足を止め、視線を感じて顔を上げると、宮中前を横切る南大通りとの交差点に男女が立っていた。人通りが多く、立ち止まる者が目立っていたのはあるが、目に留まったのは、明らかにその男女がこちらを見ていたからである。


「さて、どうなるか。お前はどうしたい?」


 私に聞いてどうなるのかと思ったが、答えておく。


「見るからに高貴な御方々とは、関わりたくないね」

「よく分かったが、そうはいかないようだぞ」

「もしかして、それで?」

「お前は察しが良くて助かる」


 それこそ、言ってくれたらいいのに。

 中嗣が偉くなったことで、私にも危険が及ぶのであれば、説明しておいてほしかった。

 今夜は中嗣が帰ったら、説教だね。まったく、もう。

 玉翠にもよく言っておかなければならないし、岳や伝にも会わないようにするのに。それから妓楼屋へもしばらくは行かないでおく。ましてや頼に会うなんてことも辞めておかないと。

 配達や買い出しだって、玉翠と一緒に行くようにすればいい。



 実は予感がなかったわけではない。出世したと聞いたときには、お祝いも二の次に、真っ先にそれを考えた。

 中嗣が毎日来ていたら、私はもう中嗣の関係者だ。中嗣を貶めようと狙う誰かが、私を使うことは容易に考えられた。


 だから買い出しにもあれ以来行っておらず、近頃は瑠璃川の東岸側にも渡っていない。

 中嗣が忙しくなって家にいない時が増えたので迷いはしたが、この忙しいときに心配も迷惑も掛けるわけにはいかなかったからね。

 それで今日はようやく、昼間に人通りの多い道を選び、岳のところに行くくらいは平気かなと思い立ったのだけれど。

 甘かったことを痛感したので、しばらくはおとなしく過ごすとしよう。



 見目美しい男女が近付いてきた。よく似た顔をしているから、兄妹だろうか。どちらも容姿が美しく整っているが、利雪とは真逆の純粋さとは掛け離れた美しさだと感じる。

 気の強そうな、はっきりとした濃い顔は、元より私が好きな質の美しさではなかったので、私はこれに魅了されることなく、冷静に彼らを観察することが出来た。

 近付くにつれて分かったことだが、どちらも目尻が上がっていて、唇が薄く、何かに似ていると思ったのは蛇だった。蛇を美しく化身させたら、こんな感じの男女になるだろう。それも間違いなく毒を持つ蛇の化身だ。


 このような毒々しい美しさもあるのだなぁと感心していたら、気が付けば男女はまさに目の前に立っていた。これは失態である。


 面倒なことにならないよう、急ぎ腰を折って、顔を見ないようにするも、こちらの顔はよく見られてしまった後だ。まぁ、私は他人から覚えられるような特徴ある顔もしていないし、まず忘れてくれるだろう。


 もちろん挨拶はしない。こちらから名乗ることもまた無礼だからだ。

 この場で私に出来ることは、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように、頭を下げておくだけである。


「何よ。聞いた話と違うじゃない」

「これは、これは。ちょうど話題にしていたところに偶然ですな。兄妹お揃いでご登場とは、いつも仲の良いことで」


 羅生は女の声に被せるように言ったが、その陽気さは相変わらずだった。

 こちらは知らぬふりをして逃げ去りたい気分だが、それが無理ならば、どの立場にあろうかと考える。

 今は羅生の付き人という立場でいいのだろうか。先に聞いておけばよかった。


「まぁ、きっとわたくしがどれだけ美しいかと話しておられましたのね。でも今はそれどころではありませんのよ。羅生さま。彼女が噂の娘に違いありませんわね?」

「はて。何の話にございましょうな」

「わたくしたちも知っておりますのよ!あなたを使ってまで大事に守っていらっしゃるのでしょう?外のお家にご不在の間は、あなたが付きっきりだとか」

「ほぅ。そのような噂があるとは、当の私が知らず。これはいけませんな。精進せねばなりません。されどこの娘は私の患者の一人でして。その礼代わりに、ちと手伝いを頼んでおっただけなのです」


 羅生の誤魔化し方はいいと思った。

 偽りを述べるときには出来るだけ真実に近く、というのは多くの書に記述されている戦法のひとつである。


「医者に金も払えん娘か。これは違うのではないか?」

「そうかしら?」

「噂の見目とも違うだろう。衣装まで真っ黒でまるで烏だ」

「確かにそうね。でも、その方らしき娘を見掛けたことはないわ」

「よく隠しているのだ。心の狭きあの男らしい」

「まぁ。男女のことにはそれくらい狭量な方がいいわ。わたくしのことは新しく建てたお屋敷の奥に隠してくださるのかしらね?楽しみだわ」

「その前にその娘を消しておかねばな」

「そうよ。早く解放してさしあげて」


 男女が二人で何か良からぬことをぼそぼそと語り合っていたが、「違うならもういいわ。急ぎ婚礼の準備をしなければならないんですもの。わたくしは忙しいのよ。羅生さま、ひとつ忠告してあげますわね。以前とはお立場が違うのですから、身の振り方にはもっと気を付けることですわ」と言って去っていった。

 羅生なら言い返すかと思ったが、その間を与えず逃げるように去っていったのだから、羅生のこともよく知っているのだろう。


「どう見た、華月?」


 ゆっくり顔を上げたら、羅生はにやついた顔をして聞いて来る。


「どうと聞かれても困るよ」

「あれらを育てた親は、ろくでもなさそうだろう?」

「え?もしかして」

「男は邑天。女は邑仙。いずれの父上も邑昌様だ」


 それほどの会話を聞けたわけではないから、特別に思うことはなかった。

 顔も上げなかったから、会話中の表情だって知らない。

 それでも分かったことはある。


「とても賢いとは思えなかったであろう。だから、まぁ、気にするな」


 返事をしないでおいた。官のことをとやかく言って、何かいいことは起こらない。

 そして私にも分かる。あの二人に関しては、私の身に危険はない。


「気にする気もなさそうだな。一応言っておくが、間もなく二人は遠方送りとなる予定だ。その前にまた騒ぎに来るかもしれんから、それくらいの覚悟はしてやってくれ」


 覚悟をしてやってくれというのは、おかしいのではないか。

 覚悟をしろと言われるなら、まだしも。

 うん。やはりあの二人からは、何の害もなさそうだ。


「遠方送りって、あの二人は何をしたの?」

「それも中嗣様に問え。あやつらが何も言わずにいてくれて良かったな」


 むしろ聞いておきたかったのだけれど。

 今夜の説教の内容を整えるためにね。


「今日は帰った方がいいよね?」

「そこまで気にせんでいい。ただし帰るまで付き合うぞ」

「えー」

「話を聞かせたくないなら、近くで待ってやる。面倒だから、一人では外を歩くな」


 話を聞かせたくないのは、私ではなさそうだけれど。

 うーん。どうしようかなぁ。岳にはどうこの状況を伝えたらいいか。

 しばらく来ないように相当厳しく言い含めておかないと。奥さんに言ったらいいかな?


 また別の騒がしい声が聞こえてきたのは、さらに桜通りを南下して、官の多い南大通りから離れたことに安堵した矢先のことだった。

 今日はやはり帰った方がいい日ではないかな。ねぇ、羅生?





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