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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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15.贔屓ではなく嫌がらせだと分かる者がない件


 以前よりも嫌らしい豪華さだと感じるようになったことに気付きながら、中嗣は宮中の本殿にあるその部屋で床に腰を落とし、両手を前につき、頭を下げていた。

 このように頭を下げている己の姿もまた、今日はやけに滑稽だと感じる。


 例のシャリリンという独特の鈴の音が聞こえれば、無意識のうちに中嗣の笑顔はすぅっと波が引くように凍り付いた。本殿に足を踏み入れたそのときから、すでに張り付けられていた涼やかな笑みも、氷点下を下回ってしまうとむしろ白々しい。


 鈴の音がもう一度鳴ったとき、中嗣は思わず舌打ちを漏らしそうになったが、もちろん、そのような過ちを起こさない男である。


「久しいな。よく顔を見せてくれるね?」


 と言われても、中嗣はすぐに顔を上げなかった。衣擦れの音が近付く間に、頭を下げたまま淡々と要件を求める。


「お呼びとお聞きして参りました。何用か仰せ付けくださるのでしょうか?」


 そこでようやく顔を上げれば、目の前には柔和に微笑む男の顔があった。

 部屋の従者も退出済みで、中嗣は暗い気持ちになったが、顔色には出さない。


「外で長く過ごすようになったそうだね」

「何か問題が御座いますでしょうか?」

「問題はないが、羨ましいねぇ」


 中嗣は返答をせず、にこりと微笑むばかり。下手なことは言わない方がいいと分かっている。


「噂に聞くと、外に妻がいるそうではないか」

「まだ妻ではございません」

「まだと言うとは思わなかったな。どんな娘だい?」

「ただの市井にはよくある娘でございます」


 大嘘を吐いても、中嗣の涼やかな笑みは曇らなかったが、心中は同じではない。

 あとで華月に謝ろうなどと、華月は一切望まないことを考えているから、あとでこの男は叱られることになるだろう。あるいは、おかしなことを言う男だと呆れられるかだ。


 皇帝はつまらなそうに「ふーん」と呟くと、「会いたいねぇ」とさらに言ったが、中嗣はこれにも返答しなかった。


「数々の縁談を断ってまで欲する娘がどんなものか、見てみたいものだけれどねぇ」


 皇帝はなおも希望を言ったが、中嗣は聞こえぬ振りを決め込んだ。目と鼻の先の距離に皇帝がいるのだから、聞こえないわけはなかろうが、若いながらもその生のほとんどを宮中で過ごしてきた男は強い。


「私はね、君があまりに外にいるから、羅賢などと仲良くしているのかと思っていたのだよ」

「まさか、そのようなことはあり得ません」


 皇帝の執念深さを知っている中嗣は、強く否定しておいた。

 事実ではないことで疑われても困るのだ。


「つまらないが、それとそれはまた今度にして。君を呼んだのは、文大臣のことなのだよ。誰がいいと思う?」


 どちらの話も今度はないと言いたくなった中嗣だが、問われたことにだけ返答した。もちろん、答えはこうだ。


「私などが決められる立場にはありません」

「誰がいいかと聞いただけだよ」

「そのように選定することさえ、憚れる身の上です。それが出来る者は、本来は主上さましかおりません」

「つまらないねぇ」


 二度もはっきりとつまらないと言われようと、中嗣は肩も竦めなかった。

 ただ華月の言うところでは嘘くさい笑顔をして、皇帝の鼻先辺りを見据えるだけだ。

 目を見ない辺りも、賢い。


「すでに決まっていると分かっていようが、誰にしたか聞くかい?」

「後ほど、正式なお触れがあるのであれば、その場でお聞かせ願えれば構いません」

「どうして君はこんな風になってしまったのかなぁ?」

「何のことでございましょう」


 皇帝はふぅっと小さな息を吐いたあと、いつもに増して穏やかに見えるよう微笑んだ。

 己と同じく作り笑顔だと分かるそれを見て、中嗣はいよいよ嫌な予感に肝を冷やしていく。


「文次官、君にしたからね」

「ご推挙いただけたことは有難きに御座いますが、身に余るため……」


 中嗣の断りの言葉は、最後まで述べることも許されなかった。

 遮るように、皇帝が重ねて言う。


「辞退はないよ。これは推挙ではなく、私の決定だ。いいね?」


 中嗣は黙って頭を下げた。同意を示す言葉なきところが、静かなる抵抗である。


「面白くなりそうだろう?」

「私は与えられた立場にて必要な仕事を粛々と行うだけに御座います。これで主上さまにはお楽しみ頂けるかどうか」

「間違いなく面白くなるさ。君には期待しているよ」


 明るく言うと、また衣擦れの音を出しながら、皇帝は御簾の向こうへと戻っていった。

 御簾が下がり、やがて鈴が二度鳴れば、中嗣は部屋からの退出を許された。別れの挨拶などはない。



 触れが出たのは翌々日だ。

 紅玉御殿の広間に文官が一同に集められると、新しき文大臣から就任の挨拶と共に、大々的な人事異動についての説明があった。

 文大臣は、なんと中嗣と同じく三位文官であった関幸で、二位の文次官にあった覚栄の階級を二人の男が飛び越えた形となり、紅玉御殿だけでなく、しばらくの間、宮中全体はこの話題で騒がしかった。文次官は一名であるから、当然覚栄は降格となり、三位に収まったのだ。


 もちろんどの話にも、三位文官から二位の文次官へ昇格した中嗣の名が忘れられることはない。

 いよいよ中嗣が歴代最年少で文大臣になる日は近いのではないかと囁かれれば、中嗣に対する周囲の態度が様変わりしていくのは無理もなかった。


 当の中嗣はと言えば、この大がかりな嫌がらせに辟易している最中である。

 あの中嗣が外で楽しく妻と遊んでいるらしい。と聞いて、何もしないでいられる男ではないことを、中嗣はよく知っていた。だからいずれ、何かしてくるとは思っていたが、相談もなくこのような悪手を打ってくることになろうとは。

 より高い立場を与え忙しくなれば、目に入らぬところでは遊んでいられなくなると思ったのだろう。

 しかし高位にある方が、楽になることもある。その点に関しては、感謝しているところもある中嗣だった。


「面倒なことになりましたな」


 と笑ったのは、官では羅生くらいだ。

 宮中のどこへ行っても、官たちからの祝辞と賛辞の声は続き、仕事にならず心中は荒れ狂っていうようとも、涼やかな顔をしてそれらの言葉を受け取り、そしてまた一層深めた涼やかな笑顔を張り付けて、祝いの品を丁重に断り、繋がりを求める者たちを軽くあしらわねばならず。

 皇帝の誤算であろうが、中嗣にとって仕事になる場所が、写本屋以外にはなくなった。


 それで中嗣が写本屋に戻っては、華月に癒しを求める日々が始まっていく。

 完全に今は、中嗣の方が癒されていて、華月はいつも元気に過ごしていた。寒い季節は華月も強い。

 いや、それはもう季節だけでは説明出来ないところにあって、華月は本来備えていた強さと共に生き始めていた。




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