14.むかし、むかし、あるところに
「伝はね、少し幼いんだ」
中嗣と華月が二階の部屋に戻ったのは、あのあとすぐに伝が帰ってしまったからだ。
写本屋を飛び出していく青年が吐いた捨て台詞は、「俺は官なんかに絆されないからな!」という言葉だった。
その直後には楊明までが保護者のように頭を下げて帰っていき、写本屋にはいつもの住人だけが残された。楊明は伝を追い掛けたのかもしれない。
「昔からすぐにカッとなるし、手も出る子だから。私たちも心配していてね。胡蝶が言うように甘やかし過ぎたのかなぁ。昔は岳とは違う泣き虫で、昼間は泣かないんだけれど、夜はぐずぐずと長く泣き続ける子でね。怒ったり、泣いたり、大変な子だったから、私も強く叱れなくてね」
華月が自ら進んで昔話をするのは珍しく、中嗣は喜び耳を傾けた。
いつももっと聞きたいと望んでいるのに、華月は遠慮と気遣いで語らないからだ。
「彼はいくつだ?」
「正確には知らないけれど、二つ、三つの差だと思うよ」
彼らが共に過ごした幼い頃を想えば、その差は大きなものになる。
姉と弟の関係だと思えばいい。
「前からよく会っていたのだね?」
「たまにね。伝の主人の官がうちの写本を気に入ってくださったみたいなの。それでいつもおつかいで伝が来るようになってね。前はそれでも、あんな風に話さずに、用事を済ませたら大人しく帰っていたのだけれど、近頃変わってしまってね」
「楊明殿だね?」
「そうなの。岳が店先でお茶を飲んでいるのを見てしまって。それが許されると分かったら、あんな風に沢山話すようになってね。何を言っても、岳がいいのにどうして俺は駄目なんだと怒るから、上手く叱れないの」
「華月、おいで」
いつもの悪い声は聞かれず、華月がおずおずと俯きながら四つん這いで中嗣に近付くや、中嗣はこれを捕まえ、自身の膝に乗せて抱えた。
「心配で辛いね、華月」
「辛くはないけれど。伝はそういう子だから心配はしているよ」
「彼は君にとって、とても大事な者なのだろう?」
「皆と同じだよ」
「大事に想う者が沢山いることも分かっているよ。私にもその話を聞かせてくれないか?」
「どうして?」
何故かと問われても、中嗣は知りたいからとしか言えなかった。
素直に伝えれば、華月は口を尖らせる。
「何でも知りたがるんだから」
「互いのことをよく話し合おうと言っただろう?」
「あの頃の話なんて聞いてどうするの?」
「君のことだから知りたいのだよ。君は私の過去を知りたいと思わないか?」
顔を上げて振り返ったとき、中嗣がどれだけ自分を律しているかなど、華月は分からない。
膨れ上がる欲を逃がす想いで中嗣が華月の頬を撫でれば、気持ちよさそうに目を細めた華月を見ることになって、さらに欲は膨れていく。撫でれば、撫でるほどに、熱い想いが長けていくが、中嗣はこれを辞められなかった。
「話したいなら、聞いてあげてもいいよ」
「君らしいな」
ぷいと華月が顔を戻しても、中嗣は手だけで華月の頬に触れていた。吸い付いたように、滑らかな肌から手が離れない。
「中嗣は一人で辛くなかった?」
私には仲間が沢山いたの。という続かない声が中嗣には聞こえる。
中嗣は柔らかく微笑むと、華月の耳元へ語り掛けた。
「すべてを失ったときに辛くなかったとは言わないね。当時は泣き続けていたものだよ」
「泣けていたの?」
「私にも幼いときはあったのだよ」
華月は一度頷くと、中嗣には後頭部を向けたままさらに聞いた。
「宮中から逃げたいと思わなかった?」
「それはね。囚われの身のようなもので、どこの誰に貶められたかも分かったものではない状態では、あの場に留まりたいと思えなかったね」
「それなのに逃げなかったの?」
「どこに逃げていいか、分からなかったのだよ。私は他の生き方を知らなったからね」
「官以外の生き方を知らなかったということ?」
「そうなるね」
「でも、選べたのでしょう?羅賢は無理強いするつもりはなかったと言っていたよ?それでも官になったのは、恨みを晴らすためだった?」
「まさか。復讐心があるように見えたか?」
「見えなかったから、不思議だったの。誰も恨んではいないの?」
「恨みがないとも言わないが、それを生き方の原動力にしたことはなかったね。生き残ったことを無駄にしたくない気持ちもあったが。それよりも君のことが大きかった」
「私のこと?」
華月が首を傾げる様が中嗣は好きだった。何もかも好きなのだが、特に気に入りの仕草なのだ。これを見れば、いつでも顔は綻ぶ。
「君だけは無事ではないかという期待があってね。その期待が塵よりも僅かなものであったとしても、私にとっては大いなる希望だったのだよ。いつか君に巡り会えたときのために、君に恥じない大人になっておこうと思えば、官の道しか考えられなかった」
「私のことは、赤子の頃を少し知っていただけなのでしょう?」
「少しなものか。赤子の頃から君は可愛かったよ」
「頃からって……変なことを言わないで」
今も可愛いよ。と言わず、中嗣は心から愛しむ視線を華月に向けていた。
ここで伝えればいいのに。ここで振り返ればいいのに。
と、この場に誰かがいたら、願うだろう。
中嗣が顎を挟むようにして、華月の顔を親指とその他の指で押さえこんでいるから、華月が振り返ることが出来なかったのはある。
その親指の腹が華月の白い頬を撫で続けていても、今の華月はおとなしい。
目を見ない方が、互いに口に出来ることもある。
「ねぇ、中嗣。前にも言ったけれど、本当に昔の約束なんて忘れていいんだよ?それに私の知らない人のために頑張らなくてもいいと思うし。それが中嗣のために必要なら、止められないけれどね」
ふっと吐かれた息が首筋をくすぐって、華月は身を捩ったが、やはり振り返らなかった。
中嗣は大真面目な顔で言うが、その顔を見る者もない。
「私からも前に言った通りだよ、華月。皆のためという想いは確かにあった。私だけが生き残ったのだから、皆が大事にしていた君を幸せにしたいと願う。されどそれは、誰かのためだけにすることではなく、すべてが私のためだ」
「中嗣はそうすることで楽になるんだよね?」
「楽になるのも確かだが、それは生き残った贖罪という意味から来る楽さではないと言っておくよ」
「本当に違うの?」
「あぁ。以前伝えた通り、私はただ君といたいのだよ。それが私を楽にする」
「…………変な人なんだから」
小さな笑い声が中嗣から漏れた。小さかろうが、中嗣が声を上げて笑うことは少なく、今度こそ華月は振り返り中嗣を見やった。
「幻滅したか?」
「何に?」
「私が変な人で」
「それは知っていたから平気」
中嗣はまた笑った。陽気な笑い声が先より大きくなって、これにつられたのか、華月まで声を上げて笑い始める。
男が女を膝の上に乗せて、後ろから抱き締めた状態で、顔を近付け笑い合っているのに、これで恋仲ではないのだから。
変だとすれば、二人ともだ。
「伝の話も聞いてくれる?」
「もちろん。楊明殿の話も聞きたいね」
「岳の話は結構したよね?」
「まだまだ隠していよう?」
「そ、そんなことはないよ?」
「目が泳いだよ、華月。怒ることなどないから、言ってごらん」
「嘘ばっかり。過去にだって怒るくせに」
お喋りの先に、中嗣の聞きたかった者たちについての話題はなかったが、中嗣は嬉しくて堪らなかった。
華月から知らない過去を少しでも分けて貰えた気分だ。途中、耳を塞ぎたくなる内容がいくらもあったが、知りたい欲が勝って、中嗣はなんとか華月の言葉を遮らずに最後まで話を聞くことが出来た。
またしても仕事をせずに二人は長く話したあと、この夜は玉翠を誘い、久しぶりに三人で外食する運びとなる。
少しだけという約束で飲んだ酒に酔い、眠った華月を抱えた中嗣が玉翠と共に帰路に就いたのは、深夜のことだった。
冷えた夜には、三日月がいつもより明るく輝いている。
「楊明殿のところには行かせようと思うよ」
「そうですね。華月も誘われては断れないでしょう」
「あとは妓楼屋だが。次は共に行こうと思うが、君はどうする?」
「華月はさすがに嫌がりましょう。私もあのような場は落ち着きませんし、留守番をしておりますよ。それに中嗣様がおられるのであれば、安心ですからね」
「あぁ。しばし一人にさせないつもりだよ」
「何かありそうですか?」
「なきように、私はいた方がいいという判断だね」
「宮中へは?」
「入れ替わりで羅生が来ることになっている。少々難儀なこともあろうが、受け入れて欲しい」
「難儀されているのは、中嗣様では?」
玉翠も言うようになったものである。と中嗣は思ったが、肩を竦めるだけに留めた。
月明りの元、すやすやと眠る華月の顔をいつでも見とめられる状態は、中嗣の心の平安にいい。
「中嗣様。信頼しておりますからね」
「……君は手厳しいな」
「意思なくは許すことが出来ません。どうか、言いくるめるようなことだけはなさらずに」
「そんなことはしないよ。私も嫌だ」
今度は玉翠が肩を竦める番だった。
本気で心配していたら、同居など許していないのだから、玉翠の中嗣への信頼は厚いと言えよう。それでも眠る娘を大事そうに抱える男を前にすると、言いたくなることもある。
そんな玉翠の心情を思ってか、中嗣はさらに言葉を足した。
「まだ早いと私も思っているからね。安心して欲しい」
玉翠は返事をしなかった。思うところがあっても、言葉を飲み込み、ため息で吐き出す方を選んできたのが、玉翠という人である。
しかしながら、今はため息が零れなかった。
いつまでも娘を嫁に出したくない父親の気持ちと、娘には早く幸せになって欲しいという願い、それから中嗣を応援する気持ちが葛藤して、ため息と共に吐き出す想いがまとまっていなかったからだ。
中嗣はと言えば、もっと良き仲になりたいと当然思っているが、華月の心情を大事に優先するあまり、二人の関係は今すぐに変えられるものではないと思っている。
そして彼はおかしな男であったので、今の関係もまた楽しく、変わればもうこのときを味わえないことが惜しい、まだ変わりたくないとも考えていた。
周りも、当の本人も、あれこれと考えているが。
こういうことは、何か一つのきっかけがあれば、あっという間に動き出すこともある。
ということを、いずれも失念している。
あまりに日々が楽しいから、このような日常がずっと続いていくような錯覚に皆が溺れていたのだろう。
世のすべては、いつも変わりゆくものである。