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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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13.急には大人になれません


 冷たい風と共にやって来た若い男は、衣装から察するにそれなりの身分ある家の下男だと思われた。

 よく見ればまだ少年のような顔つきをしていて、背丈ははるかに越えていようと華月よりは年下だろう。

 と察する必要もなく、この場にいる者たちは青年が何者かを知っていた。それぞれの知り得た情報は、完全には重なっていなかったが。


 当該の者だけがこれを知らず、青年はいきなり眉を吊り上げた。


「お前!あのときの!」


 中嗣は涼やかな笑顔を見せるだけで、青年の無礼な言葉に強く反応したのは華月の方だった。


「色々言いたいことはあるけれど。あのときって、いつのこと?」

「こいつ、お前にやった簪を返しに来たんだよ!」


 華月が「そういえばそんなことが」と呟いたせいで、青年はさらにカッとなる。


「元はと言えば、お前が悪いんだからな?せっかく俺がやった簪を、こんな分からねぇ男に預けるなんて」


 先まで楊明と言い争っていた華月は、意外にも冷静だった。

 青年ではなく、隣の中嗣に対し、至極申し訳なさそうに言ったのだ。


「ごめんね、中嗣。あとでちゃんと躾けておくから許してくれる?」

「私は何も気にしていないよ」

「これだからまだ会わせたくなかったんだけど」

「それも気にしなくて良かったよ。今後は私を気遣わず、誰でも会わせてくれるか?」

「そうしたいのは山々だけどね。中嗣は優しいからいいけれど、他の人にも同じでいいと思われたら困るでしょう?」


 中嗣が緩み切った顔で笑えば、見てはいけないものを見た気になった楊明が顔を逸らし、卓に乗せた肘を支えに、大きな左手でその口元を覆った。

 その間に中嗣が華月の頭を撫でたのだが。


「おい、白!何をしているんだ!なんでこんな奴に頭を撫でさせている!」

「……ここに来て、そんな口を聞いていいと誰が言ったの?」

「なんで俺だけ駄目なんだよ。岳だっていつも通りじゃねぇか」


 ぎろりと睨まれた岳こと楊明だが、顔を逸らしていたので、華月の怒気を含んだ目を直接受け止めずに済んだ。これに安堵した楊明は、なおも華月を見ないようにして、青年に言うのだ。


「おい、俺を巻き込むな」

「いいや、岳も悪い」

「白まで俺のせいにするなよ」

「まず岳が調子に乗るから悪いんだよ」

「それならお前はどうなる?」

「私は用もないのに、岳の店になんか行かないでしょう!岳が呼ぶから、仕方なく行ってあげているの!そしてここに来いと頼んだこともない!」

「ほら、岳が悪いんだ」

「何を開き直っているの!岳も悪いけど、伝が一番悪いんだよ!」


 青年の名は、伝。

 春の祭りのときに、華月に簪を買った男である。

 おかげで長いこと中嗣が買った簪は華月の腰帯に挟まれていたが、近頃はこれを目にする頻度が減ってしまい、中嗣は残念に思っていた。

 飽きたなら新しいものをと考えていた中嗣だが、その理由を聞いて新たな品を贈ることを保留にしている。理由を説明したのは、事情を知る玉翠だ。


 件の青年とようやく会えて、しかも簪の話題とは好都合であると、中嗣は一人満足そうに頷いた。華月も誰もこれを見ていない。


 今や周囲の視線は、興奮した伝へと注がれていた。


「俺の何が悪いんだよ!俺の簪は受け取らねぇくせに、他の奴から貰った簪を嬉しそうに身に付けて見せびらかすような、お前こそどうなんだ!それは悪くねぇのかよ!」

「嬉しそうに見せびらかせた覚えはないよ!……嬉しそうになんかしていないからね?」


 中嗣が背中を撫でたせいで、華月は伝に言ったあと、中嗣を見て同じ言葉を繰り返すことになった。

 言われた中嗣は蕩けた顔で笑っているのだから、二度も伝えて主張する意味はなかったが。


「他者からも嬉しそうに見えるとは。贈った甲斐があったよ」

「んもう、今は余計なことを言わないで!」

「お前、あれはこいつに貰ったものだったのかよ!こいつ、こんな見目で官じゃねぇということか?」 

「失礼だよ、伝!そろそろ辞めなさい」


 華月が叱ったのは、伝という青年のためでしかないが、中嗣はまた嬉しそうに華月の背中を撫でていた。頭を撫でなかったのだから、少しは青年を気遣っているらしい。


「伝は今日、ここに何をしに来たの?」

「主人が依頼した写本を受け取りに来たんだよ」

「玉翠、それなら出来上がっていたよね?」

「えぇ。こちらにご用意出来ていますよ」


 番台の上にそっと置かれた書を見て、伝は顔を歪に顰めた。


「そんなに追い返してぇのかよ」


 華月から珍しくため息が漏れる。


「用事が終わったら帰るものだよ。まったくもう。酷い顔をして。遅くなったら叱られるのではないの?」

「少しくらい平気だ」

「甘えないの。仕事でしょう?」

「岳なんか、仕事もせずにいつもここにいるじゃねぇか」

「いつもはいないし。伝と岳とでは立場が違うでしょう?」


 これを残酷な言葉だと捉えるのは、彼らの方ではなかった。

 中嗣は顔色を変えなかったが、玉翠は眉を下げたのち、華月の心情を想って胸を痛める。


「俺のところもそう厳しくはねぇんだよ。だからいいじゃねぇか!」

「ここは遊びに来るところではないの」

「なら、どうして岳やこいつはいいんだよ!」


 言いながら伝は中嗣を指さした。華月から二度目のため息が漏れる。


「伝。世ではどうお話しするんだっけ?」


 ここで堪えきれず口から息を漏らしたのは、華月と伝以外の全員だった。


「どうして笑うのよ!」

「すまない。君が可愛くてね」

「はぁ?何それ?」


 玉翠は頷いていたが、楊明は可愛いと思って笑ったのではないと大袈裟に首を振ってみたものの、華月はまったく楊明のことを見ていなかった。

 中嗣の手は自然、華月の頭に伸びるも、即座に払われる。


「今は辞めて」

「では後にしよう」

「後にも撫でなくていいから」

「まぁまぁ。それより、私には紹介してくれないのかな?」

「何がまぁまぁなのよ。んもう……」


 華月が笑ったとき、伝はその場で目を見開いた。その驚きに対して怪訝に眉を顰めた華月だが、ここでようやく伝だけがこの場で立っていることに気が付いた。


「きちんと話せるようになったはずだよね?伝が挨拶出来るなら紹介するよ?」


 紹介すれば、同席の許可を求めることが出来るよ。と言っていることくらいは、伝にも伝わっている。

 それでも伝は顔を歪めたまま、小さな声で不満そうに言葉を返すのだった。


「……なんで俺が」

「挨拶する気がないなら帰りなさい」

「……分かったよ!」

「なぁに?」

「……分かりました」


 岳こと楊明はバンバンと伝の背中を叩き、伝に思い切り睨まれながら、陽気な声を上げて笑った。「あとで覚えていろよ」と伝から呟く声が漏れても、楊明はさらに笑う。


 彼が笑い終えるのを待って、華月は隣の中嗣に向かって言った。


「この子は伝と言って、官の家に買われて下働きをしているの」

「伝というのだね。私は中嗣と言うよ。よろしく頼みたい」


 ぷいっと顔を背けた青年に、中嗣は優しく微笑んでいた。あの涼やかな笑みではない。


「伝」


 華月が低めの声で言うと、伝の体がびくりと揺れた。


「分かったよ、うるせぇな」

「うるさいって何?」

「……挨拶すればいいんだろう!」


 伝は顔を戻すと、睨むような強い視線で座る中嗣の顔を見据えた。


「お初お目にかかります。伝です」


 友好的な笑みなどなく、伝は強い視線のまま中嗣に問う。


「あんた……いや、あなたは官か?」

「あぁ。文官をしているよ」

「……なんでだ!」


 叫ぶような声を叱ったのは、楊明だった。叱るというか、一度強く背中を叩いたのだ。

 おかげで伝は咽て言葉が出なくなる。


「文官様に叫ぶなよ」

「……うるせぇな」

「そろそろ調子に乗るのは辞めろ。俺が許さねぇ」


 楊明の低い声に、また伝の体はびくりと揺れた。

 意外と可愛らしい青年ではないかと中嗣は思う。玉翠が同じことを思ったのは、もう何度目になるか。

 この一年余りでぐんと背が伸びた伝は、それなりの齢の青年に見えてしまうが、まだ少年と言ってもいい頃で、心の中は幼かった。

 だから華月も、彼には甘くなる。


「おかしいじゃねぇか。官嫌いのはずなのによ。岳はそう思わねぇのか?」


 小さく頼りない声を聞いて、楊明は華月の顔色を窺った。その態度に、華月から漏れた三度目のため息は、とてつもなく長く深いものに変わっている。


「官が好きか、嫌いかと問われれば、嫌いだと言うだろうね。だけどそれは広義の意味だよ。この人が嫌いなわけではないの」

「屁理屈を言いやがって。どうせこいつに絆されたんだろうよ」

「紹介したあとだよ、伝?」

「うるせぇ!俺には官なんかと仲良くしている女の言うことを聞く義理はねぇ!」

「そう。ちょうどうちに沢山甘味が置いてあってね。それは全部ここに座る中嗣のものなんだけど。伝に少し分けて欲しいとお願いするわけにはいかないみたいね」

「甘味ってなんだ?」

「この人、凄く甘いものが好きだから。珍しい甘味を沢山買ってくるの。ねぇ、中嗣。私も玉翠もあまり付き合えないでしょう?誰かと一緒にその甘さを分かち合いたいなと思ったことはない?」

「あぁ。そうだな。君と共にあれば何もかも楽しいが、たまには甘味を好む者と、共に味わい、感想を言い合うというのも楽しそうだね」


 余計な言葉を言うなと圧ある視線を受けた中嗣だが、嬉しそうに笑うだけだった。

 華月は気を取り直してさらに言う。


「伝はもう私の言葉を聞く義理がないそうだから何も出来ないけれど。その義理が戻ったら、玉翠にも甘味に合う美味しいお茶を淹れてくれないかと頼めたかもしれないのにねぇ」


 華月は「さぁ、どうする?」と問うように伝を見た。その視線は温かく、優しいのはどちらだと中嗣は思う。




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