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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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12.喧嘩するほど仲が良いなら


 少し前から写本屋の店先の土間には、足全体を包まずに足の甲だけを帯で止める珍しい形をした簡易の靴が、三足も並べられるようになった。

 中嗣が宮中帰りに買って来たものであるが、帯だけが色違いのそれを華月はいたく気に入って喜んだ。その履きやすさにも感動していたが、並んでいると色鮮やかで美しいと笑う。

 本当ならば、華月と共に選びたいところだった中嗣だが、宮中の側の店に連れていくのを躊躇い悩みながら一人で買って来た。だから中嗣は買った甲斐があったと大喜びで、三足のなかで一番小さな靴を履いた華月がぴったりだと言って笑った瞬間を抱き上げたのだ。

 その後中嗣がどうなったかと言えば、先までの華月にあった感謝の気持ちはどこへやら、新しい靴が脱げて飛んで行き使う前から傷が付いたという理由で懇々と叱られることになり、玉翠からは深い、深いため息を聞くことになった。


 そんなひと悶着を経ながら、写本屋に住まう者たちはこの中嗣が買って来た靴のおかげで土間に出るまで時間を掛けずに済むようになり、誰も店先の卓に向かうことを面倒だと言わなくなった。

 客を家に上げず、店先で追い返しやすくなったことについて、玉翠と中嗣が嬉しそうに語り合っていたのだから、すっかり中嗣もこの写本屋の住人である。



「それで?今日は何の用で?」


 目の前に座った華月に不機嫌な顔で問われ、岳こと楊明は引き攣った笑顔を見せた。

 ちゃっかりと中嗣がその隣に座り、背中に手を回していることにも楊明は気付いていたから、何に顔を引き攣らせていたかは分からない。


 土間の卓の側には火鉢が二つも置いてあり、番台側にも火鉢が置かれていて、外は寒いが写本屋の店先は暖かく、着込んでやってきた楊明が羽織を脱ぐほどだった。

 それでも中嗣は華月の膝に、玉翠から受け取った厚手のひざ掛けを乗せてやる。華月の膝は冷えを知らないので、中嗣こそ使えと言って揉めるので、中嗣は同じひざ掛けの半分を自身の膝に乗せていた。

 楊明はこの一連の動作をすでに何度も見ているが、どうしても一度は目を瞠ってしまうようだ。華月がおとなしくひざ掛けや、背中の手を受け入れていることを、受け入れ難い様子である。


「何も聞く前から怒るなよ」

「こうも頻繁に喧嘩をされて、関係ないのに巻き込まれる方の身にもなって」

「今日は違うぞ。今日は……」


 言葉を止めた楊明が中嗣の顔色を窺うような視線を送る。

 分かっていて中嗣は例の冷ややかな笑顔を返すのだから、意地が悪い。

 しかし楊明はさほど察しの良い男ではなかった。このような感情の伴わない笑顔で許しを得たと判断する辺り、彼自身が言うように商売人として上手くやっていけているのかどうかは甚だ疑問である。


「食事の誘いに来たんだ。妻がお礼とお詫びにご馳走したらどうかと言っていてな」

「そんな気遣いはいらないから、もう来ないようにして!」

「そこは喜んで受け入れろよ。お前がそんなだから、あいつにも拗ねられ……」


 言い掛けた言葉をまた止めて、楊明はちらと中嗣を見やった。

 涼やかな笑顔の受け止め方を、楊明は完全に間違えている。


「とにかくだ。食事に行くぞ。今夜はどうだ?」

「それは急過ぎない?」

「何か都合が悪いのか?」


 今度は華月がちらと中嗣を見やった。

 ついさっき、二階で語っていたことが気になるのだろう。


「それはもちろん、私たちも同席して構わないね?あぁ、馳走する必要はないよ。何だったら全員分私が払うが、礼と言うならそこは配慮しよう」

「いや、それは……」


 中嗣の言葉に楊明は狼狽し、冷や汗を浮かべ、必死に華月に目で訴えるが、華月は首を傾げた。


「奥さんもご一緒するのでしょう?中嗣と玉翠がいて何が困るの?」


 番台の前に座る玉翠が驚きで顔を上げる。

 先に中嗣が私たちと言ったが、そこに自分も入っているとは思いもしなかったのだ。


「そ、そうだが……その……やはり今日でなくていい。お前の都合のいい日を教えてくれ。いい店があるんだが、お前を連れて行く日を先に伝えておきたいんだ」


 お前だけが。と聞こえた華月が頷くも、中嗣の笑顔は凍り付いていた。

 相手が羅生なら、また余計なことを伝えていただろうが、一応堪えられる男だったようだ。

 玉翠は番台の前で長いため息を吐いたあと、薄く笑みを零す。近頃彼はご機嫌だった。中嗣が居座るようになってから、望まずに浮彫になったものがある。


「今夜の予約は断って平気なの?」

「今夜はどうなるか分からねぇと言ってある」


 途端に口が悪くなった楊明を華月は訝しがった。

 どんな店に連れて行かれるかと考えれば、中嗣や玉翠がいない方がいいのかもしれないが、さて、その店に行きたいかと問われるとそれもない。

 華月は楊明のように考えなしにかつての者らと付き合うことを望んではいなかった。

 これを伝えたいとも思ったが、華月は中嗣に視線を送りながら、楊明に言った。いずれにせよ、ここで伝えられることではない。問い詰めるのも、あとだ。


「あとで予定を連絡するよ。それで用は終わりね?早く帰ったら?」

「冷たいことを言うなよ。この寒いなか、はるばる来たんだぞ?」

「来いと言っていないし。胡蝶も言っていたんだけどね」


 中嗣が初めて、楊明という男を素直に受け入れたときだった。どの立場で考えているのかはさておき、先の華月に対する無礼を許そうと思えたのも、ここで楊明の顔から血の気が引いていたからである。

 同志よ、と声を掛け、肩でも叩きたくなった中嗣であった。

 と同時に、夫婦喧嘩などやはり他愛なき痴話喧嘩で、夫婦でこれを楽しんでいるのだろうと悟る。


「少し気が緩み過ぎていない?岳は今の立場を分かっているの?」


 にこりと微笑み華月は言ったが、その背後に胡蝶の優美な微笑みを認めた男が二人いた。

 言われているのは楊明だが、何故か中嗣の顔色も悪い。


「な、なんだよ。急に」

「来過ぎだと言っているの。少しは遠慮して?」

「おぅ。分かっている」

「分かっていないでしょう?岳が好きにするから、あの子まで真似をするようになったんだよ。少しは手本を見せて」

「おぅ、そうだな。よく考えるとしよう」

「考える、考えるって。いつも口ばかりなんだから。そんなだから、奥さんにも叱られるんだよ」

「それは関係ねぇだろうが!」

「関係あるでしょう?昔から口で言うだけで何も変わろうとしないから、何度も似たようなことで怒られるの!」

「うるせぇな。変わる気なんかねぇんだよ。このままの俺がいいと言ってくれた人だからな!」

「成長するなと言われたわけ?」


 華月の背中が撫でられた。思わず華月は、楊明に向けた言葉の勢いで中嗣を睨んでしまうが、中嗣はこれを優しい笑顔で受け止めた。


「私はそのままの君もいいが、変わろうとする君もいいと思うね」

「はぁ?」


 玉翠は一人笑っていたが、誰も気付かず。楊明の要らぬ言葉によって、華月はすっかり興奮してしまった。


「よくぞ白なんかと」

「はぁ?なんだって?」

「……なんでもねぇ」

「いいから、もう一度言って?」

「本当になんでもなかった。忘れてくれ」

「へぇ。私なんかと?なんかと何?」

「聞こえているじゃねぇか!」


 中嗣が今度は華月の頭を撫でた。

 あからさまに気を引こうとしているが、それが華月には伝わらない。

 華月はぴしゃりと中嗣の手を払うと、「今は忙しいの!邪魔しないで!」と声を荒げる。


「岳には厳しく言わないと分からないみたいだね?胡蝶の言っていた通りだ!」

「今、あいつの話は関係あるか?」

「大ありだよ!岳はすぐ調子に乗るんだから」

「あいつは関係ねぇって分かっていて、話を逸らしたな?」

「うるさい。それなら言うけど、胡蝶と会っていることを奥さんは知っているの?」

「そ、それは」

「言っていないんだ。へぇ。今度しっかり伝えておかないとね?」

「辞めろ。それだけは辞めてくれ」

「そんなに焦って。胡蝶と何かあるみたいだよ?」

「あるわけがねぇ!変に勘違いされたら困るだけだ!お前と違って、会わせるわけにもいかねぇだろう?だから言うなよな!」

「それならもうこんな風に会いに来ないで!うちは夫婦喧嘩の仲介屋ではないの!」

「それは冷てぇんじゃねぇか?お前は付き合いを避けようとするけどな、俺は昔のよしみで助け合うことも大事だと思うぜ?」

「何が助け合いよ!岳なんか、迷惑しか掛けないくせに!岳に助けて欲しいときなんか来ないからね!」

「この間、助けろと泣き付いて来たじゃねぇか!」

「はぁ?泣き付いてきたのはそっちでしょう!」


 不毛な口論を止めたのは、中嗣でも玉翠でもなく、予期せぬ訪問者だった。

 いや、中嗣がこれを止めたと言うことも出来る。

 写本屋の入り口の戸を静かに開けて、中の様子を窺う青年の姿に気付き、中嗣が華月の肩を叩いて、視線をそちらへと促したのだ。楊明もその視線を追い掛けて振り返り、言葉を止めた。


 この場にとっては予期せぬことだが、誰もがいつかはこうなることを予期していたのではないか。

 このときは玉翠からため息が漏れなかったのだから。




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