11.似た者同士はそれぞれに気付かない
中嗣は今朝から仕事に専念していた。もちろん、写本屋の二階の北側の部屋の文机の前でだ。
室内には二重の窓の摺り硝子を通し、淡い陽射しが入り込んでいて、近くには火鉢も用意され、仕事をするにはなかなかいい環境である。
声が掛かったのは、中嗣が硯に筆を置いたときだった。
「昨日持ち帰った分は整理しておいたからね」
中嗣が振り返れば、背後の床には書類の束が三つ並べられていた。華月が種別にまとめてくれたのだ。
その書類の束が、期限の早いものから順に重ねられ、さらに凄いことには、書類の内容を要約した紙が一枚ずつ添付されていることを、中嗣はすでに知っている。
この要約した紙が、どれだけ中嗣の仕事を楽にしているか、中嗣は華月に説明を試みるのだが、いまいち伝わっていないようであって、歯痒い思いをしていた。
華月はいつも「軽く読んで適当にまとめただけだから。信じ過ぎないで、ちゃんと中身を確認してね」と忠告するのだから。
中嗣が有難く思うところは、こればかりではない。
華月は、すべての書類が把握出来るようにまとめた紙を別に用意した。これは種類別に書類を集計しただけの一覧であるが、すでに冊子のように分厚くなっているのは、中嗣がこの写本屋でそれだけの書類と向き合ってきたことを意味している。
華月の提案でこの通り書類をまとめ、対応が終了した分については、朱色の墨を使って印を付けることにしたのだが、残る書類が一目瞭然となったことは中嗣をよく助けた。いくら賢い中嗣とて、目の前に山のように書類があれば、見落としもするし、失念もするし、うっかりしていて期日に間に合わないこともあったからだ。そしてすでに終えた書類についての記憶とて、すべて正確に保てることはない。しかし中嗣の元には、過ぎ去ったものを含めて書類に関する問い合わせは後を絶たない。
そういった過剰な記憶や杞憂を持たず慎重さを僅かでも排除出来たことは、中嗣を楽にした。
種類の山に奮闘する様子を見兼ねた華月が、少し手伝うよと言ったのは、いつだったか。
そこから中嗣は、宮中に出向く必要性が分からなくなっている。当然仕事とすべきことのために通ってはいるが、華月と共にあるために写本屋に居座ると宣言したそれは、正当な理由を持つようになっていた。今後は宮中に通う頻度も減っていくのではないか。
だから中嗣は破顔して、書類整理をしてくれた華月に言う。
「抱き締めてもいいか?」
「はぁ?」
当然ながら、華月から色よい返事はなく、思い切り睨まれた中嗣であるが、腕を引いて華月を膝に乗せると勝手に抱き締めた。
「もう!」
「君も忙しいのにすまないね」
「ちょうど写本に飽きたところだったの。ただの気分転換だよ!」
自分と同じ言い訳を始めたことが愛しくて、中嗣は華月を腕に閉じ込める。
「離してよ」
「私にも気分転換をさせてくれ」
「外でも走って来たら?」
「これが一番いい。あと少し頼む」
「もう。本当に少しだからね?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、肩に顔を押し付けられようと、抵抗しないのだから。
華月もまんざらではないと羅生が言うはずである。
しかしまだ、中嗣は華月が己と同じ気持ちにあると思えてはいない。
中嗣はおそらく、この件に関してだけは、石橋を叩いて、叩いて、端から端まですべての面を叩き切ってから、渡るつもりではないか。叩き過ぎて崩壊した橋と共に落下するか、叩くうちに対岸に着くもすでに目当ての人はいないか、いずれかだと、羅生は近頃同じことを言い、最初こそ宗葉を笑わせたものだが、もはや宗葉にも相手にされなくなっている。
「今日は宮中に行かないの?」
「何故追い出そうとする?」
「そういう意味ではなかったよ」
「君こそ、どこかに出掛けたくなっているのではないか?一緒に行くよ?」
「どうして一緒に出掛ける話になるの?」
「どうして一緒ではならない?」
「んもう!おかしなことばかり言わないで!出掛けるつもりなんてなかったよ?」
「昼餉は外でも構わないよ」
「それなら玉翠も一緒に出ようよ」
「……そうだな」
「どうして不満そうなの!いつも沢山お世話になっているでしょう?」
「うっ。それは確かに。今日はご馳走するか」
「少し離れているけれど、欅通りに玉翠の好きな店があるんだよ。そこはどう?」
「玉翠のためを思うなら、夕餉の方がいいか?」
「それもいいね。それならお酒も……」
騒がしい二階の声に負けまいと、下から張り上げる声が掛かった。
「華月、お客様ですよ」
と言われているのに、中嗣は腕の力を弱めず、いよいよ華月を呆れさせてしまう。
「客が来たんだって」
「そうか」
「だから離して?」
「嫌だ」
「はぁ?」
「もうしばしこのままで」
「もう!今日はどうしたの?嫌な書類でも読んだ?」
中嗣から軽く息が漏れる。後ろから抱きしめたときには、長衣の上からお腹に触れるのが常だった。その温もりが華月にとって不快ではないという理由だけで大人しく捕まっているのだと、誰でもなく華月自身がそう信じている。行き場を失くした両手が華月からすれば大きな片手に捕まったあとにも、華月は同じことを信じていた。
この心地よさと共に感じる何もかもは、傷があるせいだと。
羅生はそろそろ華月をどうにかした方がいい。と、誰か伝える者でもあればいいが……。
「残念なことに、嫌な書類しか目にしないのだよ」
「灌漑工事の書類も嫌なものなの?」
華月は信じられないように言う。
北の地で行っている灌漑技術の実験について、中嗣は何度も華月の前で楽しそうに話していたからだ。
「君と話せばどの書類も楽しく変わるものでね。これからはすべての書類について語り合わないか?」
「いや!そんなの無理!」
「そう言わず。給金は払うから」
「要らないってば」
下から追加の声が掛からないことから、華月を待つ客が誰か二人には察することが出来た。
また夫婦喧嘩をしたのだ。本当にしているかどうかは二人の知るところではない。
「今日は岳を叱ろうかな」
「彼はまた何かしたのか?」
「うぅん。厳しくしておいた方がいいって、胡蝶も言っていたから」
中嗣の表情が凍り付いたのは、条件反射なのだろう。笑みを浮かべているから、知らぬ者が見たら、まさか恐れているなどとは思わない。
華月は振り返り、中嗣を仰ぎ見て、呆れた声を出した。
「本当に怖いの?」
「まだ冗談だと思っていたのか?」
「胡蝶の何が怖いのか分からないから」
「君はあれを知らない方がいい。さて、私も共に下りてもいいね?」
「中嗣はここで仕事をしていなよ」
「ちょうど切りのいいところだったからね。私からも挨拶をせねば。あまり長く待たせても悪いから、行こうか。抱えてあげるよ」
「挨拶は要らないし。待たせているのは中嗣のせいだし。岳なんかいくら待たせてもいいし。抱えなくていいし。中嗣がいると叱りづらいし……」
ぶつぶつ言う華月が中嗣に続き階段を下りて来ると、店先の土間の卓に座っていた楊明は何故か照れたような、幼さを感じる恥じらう笑顔を浮かべ、二人を迎えた。
立ち上がって中嗣に頭を下げないあたり、この米問屋の若旦那も写本屋の現状に慣れたものである。
茶を持って奥から戻った玉翠から静かなる溜息が漏れていたが、これは誰の耳にも届かなかった。