9.お酒が飲める茶屋でございます
三名は花街から離れ、瑠璃川に掛かる南大橋を渡って、宗葉の知った茶屋に向かった。
茶屋には、茶や菓子を出す店と、酒や軽食を出す店がある。宗葉が案内したのは、もちろん後者の茶屋だ。
華月は、前回になく、どこかふわふわと軽やかな雰囲気を纏っていた。
あれほど一度に酒を飲んだ後に歩いたことで、さらに酔いが回ったのだろう。
それが気安い雰囲気となって、宗葉らも堅苦しさを捨てられたようだ。
席に着いて酒と料理を頼んだ宗葉はさっそく聞いた。
「あの子どもらに、文字を教えているのか?」
華月は、ゆっくりと頷く。
「文の代筆もしているのでは?」
次に利雪が問うと、華月はまた頷こうとしたが、それは止まり。今度は首を捻って、それからゆっくりと首を振った。
「代筆じゃ、姐さんらは皆同じ字になってしま……います。客が見せ合えば、すぐに分かりますから、姐さんらはそのような危ういことは致しません」
「では、文のお手本ですね?」
華月が素直に頷けば、利雪は嬉しそうに微笑むのだ。
「字の苦手な姐さんらは、私の書いたものを真似しています」
利雪と宗葉は、これは良い機会だと、彼女について聞き出すことにした。
酔った若い女性を前に狡い考えをする男たちである。
「手習い用の紙は、写本の際に失敗した紙でも回しているのですか?」
「失敗した紙も渡しますが、中途に余って使い物にならない紙を渡すことが多いですね」
「だから綺麗な紙もあったのですね。墨も同じでしょうか?」
「墨は多く仕入れるので、安く手に入るんです。それで少し分けています」
「他にも何かあの妓楼屋に渡しているものはありますか?」
他に……としばし考えて、それから彼女は口を開いた。
「書を配ります」
「売り物を与えているのですか?」
「いえ、私が勝手に作った書です」
後は……とまた少し華月は考えるために黙った。
利雪はその勝手に作ったという書のことが気になったが、せっかく華月が話しているのでおとなしく先を待つ。
「仕事柄、時々差し入れがありまして。食べ切れないものを持っていく日もありますね」
ふわふわしながらも、受け答えは意外にはっきりしている。
酒に弱いのか、強いのか。
「その見返りがお酒ですか?」
彼女は頷いた。しかし、それだけではないらしい。
「朝まで飲みながら、書を読める場所と、そのための灯りもそうですね」
「妓楼屋で書を読んでいたのですか?」
利雪は驚いた。昼間はまだしも、灯りということは、夜もそうだと言っているのだ。
夜の妓楼屋など、読書には最も適していない場所ではないか。
「うるさくないのか?」
宗葉にとっても驚愕である。男ならまだしも、若い娘がわざわざ妓楼屋で本を読むなんて。
「そうでもないよ。……失礼しました。酒と書があれば、どこでも最高です」
官などと、普段酒を飲むことは無いのだろう。
気を抜くと、歳の近い友人に対する口調となる。
「それに、姐さんらが空いた時間に膝枕をしてくれます。あれは本当に気持ちがいい。おすすめです」
そこで少し頬を紅らめたのは、若い男らの方だった。
「禿らの肩もみもいいですよ。あれなら、菓子くらいでやってくれます。疲れたときは頼んでみてください。あの子らはとてもいい子ですから」
なんだかとても良いことがあったように、嬉しそうに笑うから。
利雪は華月を見ていると、不思議な気分になった。
彼女はそれから、言ったことで疲れを思い出したようで、右肩を揉み始める。
「やはり、体に来ますか?」
利雪が心配そうに尋ねてみると、華月は突然顔を引き締めた。
「いえ、いつもは大丈夫です」
いつもは?という言葉が引っ掛かったが、彼女が言葉を続けたから利雪は尋ねることが出来ない。
「宮中の文官様を前に、体が辛いなどと甘えたことは言えません。利雪様、宗葉様の方が、ずっとお疲れでしょう」
確かに普段は忙しい。
しかし今は利雪も宗葉も、山のような書類から解放されている。遊んでいるのだから、いずれ叱られなければならないが。
目の前のこの娘を皇帝の元に連れて行けば、叱られずに済むとはいえ、このような若い娘を差し出していいものか。実は宗葉も少々迷っていた。あの皇帝が思い付きで、会った華月に何を願うか分かったものではない。
「我々は体を痛めるほどには働いておりませんよ。華月殿も今日は、写本師のお仕事はお休みですか?」
「利雪様におかれましては、いつもお待たせしているのに、斯様に遊んでおりまして、申し訳ありません」
利雪は少し寂しかった。明確に客として線を引かれたからだ。
そんな利雪の憂いなど知らず、宗葉は呑気に呟いた。
「あれだけ文字を書き続けるのも、大変だよなぁ」
少しの書類を書くことも嫌いな宗葉には、考えるだけで空恐ろしい作業だ。
「いえ、まったく平気なんですが、玉翠が続けて書くなと煩いので休むようにしています」
「玉翠殿が?」
「玉翠は、少々書き過ぎたのでしょう。長時間筆を持てず、今はのんびりと一冊を仕上げているようです。私には同じことがないようにと」
玉翠は父親ではないだろう。年齢差的にはあり得るのだろうが、名も違うし、なにより似ていない。彼女からは異国の香りを一切感じないのだから。
あちらが店主ならば、雇用関係か、師弟関係だろう。
「斯様に飲み歩いている不真面目な写本師ですが、利雪様、これからもご贔屓いただけますか?」
利雪は、手を振りながら、懇願するように言った。
「お願いされることではありません!むしろこちらからお願いしたい。私の依頼など、ゆっくりで構いませんから、どうか体を痛めませんように」
「お気遣い頂きまして、有難きに御座います」
急速に余所余所しくなっていたのに、利雪はまた態度を変えた。
「そうです!この書のことです!まだすべて読んでいないのに、せっかくお休みのところ、尋ねてしまって申し訳ありません」
「そりゃあ、さっき姐さんらに会いに行く継いでに届けたからね」
また華月の口調が軽くなって、利雪は喜んだ。出来ることなら、このまま語り合いたい。
「はじまりから、もう違っていますね。これまでの訳書はどうなっているのでしょう?」
「訳したのは、医官の方ですよね?医の言葉には詳しいのでしょうが、知っている単語から意味を予測したために、あのようなことになっているのではないかと」
華月は笑い、利雪は眼を輝かせる。
しかし宗葉にとっては楽しい話題ではないので、昼間からたんまりと酒を味わってやろうと決意した。これでも皇帝からの勅命を受けて、特別任務遂行中だ。少しくらい許されよう。
「それで体を冒険していたのですか?」
「えぇ。どうしても体の部位とか、手術道具とか、そういう想像から始まるので。なんだか変てこな話に」
「まさかそのようなことがあるなんて。もしや、他の訳書も同様に?」
「どうでしょうか?原書を見てみないことにはなんとも」
二人が訳書の違いに盛り上がるなか、宗葉は適当に酒やら肴となる料理を注文してやった。
華月がよく飲み、食べるのだ。線が細いわりに、腹にはよく収まるらしい。
「華月殿の文章は、素晴らしいですね。少し読んだだけですが、表現が自然で、物語が美しくなる言葉選びです。どの文字も美しく、それが文章の美しさを助長させ、物語の質を高め……」
気が付けば、利雪は華月を称賛する言葉を並べていた。
女性を口説くことのない利雪も、写本師相手にはこうなるのだ。
華月を見れば、嬉しそうに微笑んでいたから、悪い気はしていないと思われた。
「しかし、このように素晴らしい書を知ってしまいましたから、私はこれからどうしたら良いものかと考えておりまして。華月殿はすでにある二つの間違った書をどうすべきだと思いますか?」
「私が決めることではありません」
華月の声が一転した。ぴしゃりと子どもを窘める大人の声だ。
顔も厳しいものに変わって、笑みがない。
利雪がしゅんとしているのは、叱られた気持ちになっているのだろう。
「世に偽りを広めたままで良いものでしょうか?」
「偽りとて、一つの物語に違いありません」
「本当はこんなに素晴らしい書であるのに、それを知って黙っているなんて」
「それだけはお辞めください。利雪様、私は写本師ですよ?どうか、そのままで」
華月はとても迷惑そうだ。
しかし……とまだ何か言いたげな利雪の言葉を遮るように、華月は言葉を重ねていく。
「後になれば、それに見合う立場のお方が正しく訳すこともありましょう。私などが訳したことを知られては、今の書を訳した方らにあまりに失礼というもの。どうか今はそのままに」
訳者一名は、まだ存命だ。生きているうちに、指摘してやることもないだろうということか。
それに……と彼女が続ける。
「私のような変人が願えば、自ら原書を訳すこともありましょう。気にしないことです」
華月がふわぁっと気の抜けるような独特な笑い方をして、酒杯を傾けたとき、利雪は華月の本当の姿に触れた気がした。
末怖ろしいものが、目の前の娘の中に眠っているようで。
「やはり、私を利用しようとしましたね?」
「あなたも私を利用しましたよ?」
利雪も華月も、恨めしさを感じられない声でそう言った。微笑み合っているのだから、喧嘩ではない。
利雪は、薄紫の背表紙の、分厚い異国の書を取り出して、卓に置く。
彼女の手が伸びていき、その書の表紙をそっと撫でた。味見でもするように。
「この書はご迷惑でしたか?」
「いえ、有難かったです」
そう言ったのに、華月はわずかに眉を歪め、口を尖らせた。明らかに不満そうだ。
それなのに利雪はまた嬉しそうに美しく微笑んでいる。
「こちらの訳書は確かに未完でしたね。空白が多いのは、分からない言葉があるからですか?」
「そうですね。こちらの国の書は、あまり見たことがないので。分からない言葉は、そのままにしてあります。想像で愉快な物語を作ることもできますが」
また思い出して、二人は笑った。市中に出回る『東国 一寸漢物語』は、よほど原書とは違った物語になっているのだろう。あとで少し読ませてもらおうかと宗葉は考えるも、まだ借りた書は数頁しか進んでいなかったから、それもいつになるやら怪しい。
「これは、どのような書なのでしょう?」
「推測でしか言えません」
それで構わないと言うと、華月は自分の考えをすらすらと述べていく。
とある小さな国の、古い伝承か、あるいは今も残る伝統を説明しているという。王家などの特別な人たちのための、指南書の可能性もあった。もしくは、そのような国など存在せず、物語の世界観を示すための補足的な書でもあり得るし、誰かの絵空事かもしれない。
自分の読みなどすべて外れているかもしれないことを忘れないで欲しいと、彼女は三度も言った。
素直な子だな。仕事をしやすそうだ。と感心していたのは、利雪だけではない。
自分が間違っている可能性を認められる者は、案外少ない。特に知恵ある者ほど、それが出来ない傾向が高い。宮中には、仕事のしにくい者たちが溢れている。
「私が面白いと感じた部分は……」
利雪から自分で書いたものを受け取ると、ぱらぱら開き、とある頁で手を止めた。
「指輪の説明のところです」
指輪の説明とは何ぞやと、宗葉も面白そうに身を乗り出した。自分にも分かりそうだったからである。
「解読出来た部分だけですが」
右手と左手の中指に付ける指輪は、それぞれ位を示す。右と左で位の意味も違うらしい。まだその違いを表す単語の意味は分からないという。
左手の小指と薬指には、指輪を贈る習慣があるようで……。
「小指は友情の証。薬指は愛情の証だそうです。愛情と表すよりは……」
華月は良い言葉はないかと思案してから、やがて言った。
「あなたは、私のものです」
静かに言って、目を閉じてから、また考える。
その間から、言葉を大事にしている娘だと利雪にはよく伝わった。
「相互の気持ちの確認と、周囲への宣言でしょうね。虫よけにもなるのでしょう」
彼女はそれから、「結婚する気のない者も使えそうだ」と言って笑った。
利雪もその手は使えそうだと、ひっそりと思う。
『あなたは、私のものです』
その言葉は、利雪の心に強烈な余韻を残した。何度も眺めてきて、いつでも頭に浮かべられるようになった、美しい文字のように。
「そんなに指輪をしていたら、大変じゃないのかなぁ?」
呟いた後、華月は乾いた声で笑い出した。何がそんなに可笑しいのだと指摘したくなるほど、笑い声は続く。
題名で遊び始めた。
一章を急ぎ終わらせましょう。