表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

六月、夏めいて夢を描く

作者: 穹向 水透

35作目です。そちらはどうですか?



 六月が半分過ぎた。昨日は雨が降っていた。一昨日もそうだ。雨は朝から夜まで、いつまでも過去から脱け出せない弱虫が泣いているみたいに、灰色に、陰湿に、冷たく降っていた。

 昨日、僕は窓の向こうに道路を歩く小学生の群れを見た。無数に広がる傘だけが、灰色の世界の中で色彩を保っているようだった。その小学生の群れの傍を、白っぽい車がスピードも緩めずに通り過ぎた。とても綺麗とは言えない水が跳ねた。見慣れているようで見慣れない、意味も価値もない光景だと思った。

 そんな意味も価値もない日常のワンシーンでさえ、それがいくつもの偶然の重なり合いでできているものだということを知っている。でも、僕は知らない振りで見ない振りをしてしまう。

 僕はカーテンを閉めて、部屋の電気を消した。雲に覆われた午後三時の六畳間は夜のようになって、僕は部屋の中心の、何もない場所に仰向けになった。銃弾のように降り注ぐ雨と取り残されたような部屋。怠惰な空気が満ちて、六畳間が無限に広がっているような気になる。

 読まなくなった小説。

 開かなくなったスケッチブック。

 浅くなった睡眠。

 見れなくなった夢。

 夢を見れなくなったのはいつからだろう。もう色褪せて、襤褸になって、哀しげに歪んでしまった。

 優雅な亜麻色の髪に幼く丸い少女のような顔立ち、華奢だけどトネリコの枝のように撓る身体、入り組んだ刺繍が施された柔らかなマント、そして、何処か遠く神秘的な鹿の角が生えている。そんな少年を想い描き、夢に見ていた。それは僕ひとりでは創り出せなかった夢。あの日を境に見えなくなった君とふたりで創り出した淡い夢だ。

 夕方のチャイムが何処からか聞こえ出して、僕は眠りについた。空腹ではあるけれど、何も入れるつもりはなかった。ただ眠り、夢を見たいだけだ。僕の生きているという心地は去年の六月に置いてきたのだから。

 そして、今日になったのだ。

 僕は午前七時の警報で眼を醒ました。夢でも何でもない、ひたすらに色褪せた浅瀬で踠いて、踠いて、それで時間は過ぎ去った。単一の色の中にいたから、瞼を開けた時に流れ込んでくる現実の色彩が痛いほどに眩しかった。どれだけ眠っても眠い僕は、もしかしたら、生きることを歓迎されていないのかもしれない、と考える。そして、そうかもしれない、と呟く。何度か呟いて、立ち上がる。歓迎されてもいないのに生きるしかない。それはあまりに残酷ではないだろうか。

 六月の半分過ぎた日。カーテンの隙間から見える空は青い。昨日までの雨は嘘のように消えてしまった。あの陰湿な影を作り出していた灰色の雲も何処かに消え、心を入れ換えたように白い雲が、沖虚な大洋の海月のように浮かんでいる。

 僕は今日という日を知っている。昨日まで降っていた雨が止んだのは、何か運命的な作用だろうか。それとも、願ったのだろうか。僕か、それとも君か、或いは僕のように今日という日を忘れられない人たちが。そう考えておこう。そうである方がいいのだから。

 ぼんやりした脳味噌で、ぼんやりした身体を動かして、浴室まで移動してシャワーを浴びた。少し熱いくらいのシャワーに打たれ、僕の可塑性の精神がゆっくり、または急速に変形していく。四季(いちとせ)を経て、何も変われない僕だが、精神だけが変わっていく。青空を見て心臓が痛くなるような、そんな下を向いた精神だ。

 梅雨の始まりの晴れた空に心臓が痛んだのは、玄関の扉を開けたからだ。心拍が跳ねて、耳に煩く鼓動が響く。手に持った鍵束の中のひとつを使う。それは違った。似た形状の鍵を使う。今度は鍵を挿し込めた。

 昨日まで降っていた雨が染み込んだアスファルトからはペトリコールが立ち昇っていた。少し窪んだところにできた水溜まりは欺くように透明で、そこには青い空、白い雲がこれ見よがしに映っている。

 隣家のブーゲンビリアが満開とは言えないが綺麗に咲いている。ブーゲンビリアの花言葉は「情熱」、或いは「あなたしか見えない」で、僕はこれを君と話し合ったことがあっただろうか。いくつもの花言葉を話しては想像に活かした。

「追想の愛」はハルジオン。

「あなたを許す」はネモフィラ。

「信心の愛」はタンポポ。

「思い出」はライラック。

「希望」はスノードロップ。

 結局語れなかったのはネリネの花言葉。

 半ば放置されたような原付は、背丈の伸びた雑草に囲まれていた。もう数ヵ月乗っていない。ただでさえオンボロの原付がちゃんと動いてくれるかと不安に思ったが、案の定、エンジンは啜り泣くかのようなキュルキュルという音を立てて動かなかった。十分くらいキックスターターを動かして、漸く数ヵ月前に聞いた音を出してくれた。

 原付を押して庭から出し、ヘルメットを被って、手袋をした。車体とヘルメットの無理矢理消した高校のシール痕が汚らしい。磨り減ったタイヤは平坦になっている。オンボロだがライトはしっかりと点いた。久々の起床で不機嫌な唸り声を上げているが、僕はそれに跨がって、ペトリコールの香る今日に走り出した。

 今日という日がやっとのことで動き出した。

 透明な君を追って今日まで来た。もしかしたら、来なかったかもしれない今日。でも、来てしまった今日。

 橋に差し掛かって、そこから見えたのは、遠く遠くの何処かで真っ白な雲が夏めいて膨らんでいる様で、そんな世界の想像も君と語り合ったものだと思い出す。一点の曇りさえない碧落に、無限を思わせる白い白い雲が浮かんでいる、そんな夏の草原の想像。僕らはそこに立って何をするわけでもなく、何かの始まり、或いは終わりを眺めている。そんな振りをする、そんな想像だ。

 風を切って走る中、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえて、それが跳ねる度に鈍く痛む。これが消える時、僕はどうなっているだろうと考える。それは大人になるということなのだろうか。大人になるなら、僕は君と同じ歩幅で進みたかった。でも、君と同じように子供のままでありたいと、いつも願っている。だから、僕らは矛盾していたのかもしれない。

 心臓が痛くて、何だか視界も霞むようだけれど、僕は歌を歌った。君が好きだった曲を、風に交ぜながら。

 待って、わかってよ、と。

 どうせ死ぬ癖に、と。

 第三宇宙速度で揺らいだ、と。

 遠い遠い夏の向こうへ、と。

 美しく健気な合成音声や電子音に乗せられた、綿飴のように儚く、溶けてしまいそうな言葉を声に出した。夏の青い空に似合う歌ばかりだってことは知っていたけど、僕はまた苦しくなった。

 原付は高架線沿いの道路を法定速度十五キロオーバーで走る。街路樹の緑は溢れ、高架線下の空虚な場所には雑多な植物が好きなように育っている。平日の昼だからか、車の通りは多くなく、僕の原付は快調に走った。いくつかの信号を越えて、美しい薔薇がフェンスに絡まる工場前の交差点で左折した。緩やかな坂を上った辺りで、原付の速度を今にも止まらんばかりに落とした。

 坂の上から見た景色の夏色に眼を奪われたのだ。

 眼下に見える緑の田畑は平坦に、柔らかなカーペットのように広がっていた。視界の上部には一繋ぎの空の青が映っている。奥の方に煙突を備えた灰色の工場が見える。その工場さえも夏の風景のひとつとして僕を苦しめる。原付が坂を下って、徐々に視界が移り変わっても、一度見た夏色は変わらなかった。

 少し鈍い原付を後続車が加速して越していった。けれど、僕は何も思わなかった。どれだけ越されても何も変わらない。

 長く平坦な道の先に交差点があり、僕はそこを真っ直ぐ進んだ。僕を越した車は疾うに何処かへ消えてしまっていて、僕の前には僕と同じくらいの速度で走るシルバーの乗用車がいた。

 交差点を過ぎるとまた坂があり、長いトラス構造の橋に続く。

 ここらでは毎年八月に、花火大会が行われている。黝い空に無数の花が開く様は圧巻で、誰もが呼吸を止めて、咲いて散るまでを眺めるのだ。河川敷から見るのもいいが、このトラス構造の橋から眺めるのもまたいい。鉄製の柱の隙間から見える、まるで切り取られたような夜に垣間見える花火の美しさを僕は知っている。いつか、そこから見える光の溌剌とした芸術の煌めきを語り合いたかった。去年の八月は色褪せて見えたから、今年こそはと思ったけれど、今年の花火大会は中止らしい。

 僕は橋の手前で原付を止めた。そして、橋の中央付近まで歩いた。そこで欄干に寄り掛かって、遥かに続く六月の山並みを眺めた。遠方には相変わらず、積み重なった白い雲が見える。その雲と接する山々について、きっと生涯で訪れることはないと知っていても、そのひとつひとつの風景を想像してしまう。例えば、ある山には朽ち果てた神社があり、そこには人ではない何かが長い長い間、愛しい人を待っている……そんな月並みで幼稚な想像だが、それが僕らにとってどれほどの意味を持っていたか、知っているのは僕だけになった。

 僕はきっと絵を描くだろう。人に棄てられて久しい神社を背景に、あの華奢で色の白い異形の少年、僕らの夢を跳梁する健気な彼のことを。きっと、彼は朽ちた石段に腰掛け、かつては狛犬だったであろうオブジェに挟まれている。その眼は優しげにこちらを向いている。その瞳は深い青、或いは緑で、光の加減によって変わるらしい。

 想像は湿気を孕んだ梅雨時の風によって滲んで、僕は現実に戻された。さらさらと流れる水面を見下ろすと、飛び込みたい気持ちに駆られたが、顔を上げて原付を停めてある場所に戻った。

 原付のエンジンを掛けて、橋を渡った。トラス構造で区切られた空のひとつひとつが別の世界に思えた。

 橋を渡り切って、緩やかな坂を下った後、交差点を右折した。明確なルートは決めていないので、適当に夏の風景に想いを馳せながら行くことにした。道を進んでゆくにつれ、あの膨張した大陸のような雲が近付く。山と山の間に覗くそれは、恰も古の城を隠しているような、遥か昔から人間が考えていたようなお伽噺の世界を彷彿とさせた。

 信号で止まり、進んでまた信号に引っ掛かる。幽かに聞こえ始めた蝉の声は山の方からであり、今年も愈々夏が始まったのだと、改めて知ることができた。信号が青に変わり、僕は交差点を右折して、橋を渡った。今度はトラス橋ではなく、シンプルな桁橋である。こちらでは壮大な絵画のように切れ目がなく、近くなった山々と雲、それのバックに広がる蒼穹が視界に絶えず映り込んだ。

 僕はまた歌っていた。稚拙な歌声は擦れ違う風とぶつかって消えていく。だが、それでいい。夏の隅に向かう僕に最も必要なのは、せめて今日という日を生きようという意思なのだから。

 橋を渡って、線路沿いの道に出た。ちょうど電車が過ぎ去るところで、思わず倒れるかと思った。たった三両編成の電車で、記憶に残らないカラーをしていた。僕は電車を追うように原付を走らせた。線路と土手に挟まれた道を僕以外に通るものはいなくて、僕はぐんぐんと速度を上げた。

 泣きそうになった。

 各駅停車の鈍行は僕の視界で止まった。原付が追い付くと、電車は誰かの乗降もないまま走り出した。

 電車に取り残されたのは無人駅の簡素なホームで、売切の表示がひとつもない自動販売機が寂しく佇んでいた。ホームの錆びた時計が正しいのなら今は午後の二時で、なるほど、確かに陽射しは強くなりつつある。僕は手袋をした手で頬を擦った。ひとつ年が重なる度に強まる夏の熱のため、六月なのに汗が額を伝う。思えば、五月も暑かった。さらに遡れば四月だって暑かった。春なんてなかったみたいだ。

 春も夏も秋も冬も愛していた君からすれば、少しずつ四季が失われつつあることは悲しいだろう。僕もそうだ。四季があるからこそ、僕らの夢は語れたのだから。

 僕は原付を停めて、ホームの自動販売機で水を買った。冷たい水が身体の奥で分散していくのがわかった。僕はそれとなく設置されたベンチに腰掛け、空を仰いだ。ホームに屋根はないので、空が遮られることなく広がっている。どうしようもないほどに憎らしい青さだ。どうしても届かないから、僕にはどうしようもない。

 どうしようもない。

 どうしようもないことばかり。

 それでも、こうして、無理して、生きている振りをすればいいのだろうか。僕は人が思うよりも、無理をして生きている。本当はとっくに終わらせたいのだけれど、僕は臆病だから終わらせることができない。勝手に消えて、その後、周りに厄介事を残すのが僕は嫌なのだ。死後、生きていた記録が全て消えてしまう世界なら、そんな風に思わないし、きっと、君のことも忘れていただろう。その方が楽なんだろう。

 消えた方も、残された方も。

 小さな小さな粒の集まりである僕らは、死んでも物質として残る。どうして、そんな残酷な設定に神様はしたのだろう。青白い煙になって地球に粒子の痕跡ひとつさえ残さなければ、僕らが生きることや死ぬことで泣いたり笑ったりすることなんてないのに。

 僕は少しの間、ぼんやりと空を眺めていた。

 水入りのペットボトルが水滴に塗れるくらいの時間だった。

 立ち上がって、水を飲み干して、ホームから出て、原付のエンジンを掛けた。走り出したタイミングで滑り込んできた電車は、さっき僕を置いていったものと同じに見えた。僕は電車の顔を一瞥してから加速した。どうせすぐに追い付かれるのだろうけど。

 蝉の声は大きくなったり小さくなったりする。それは粗くて、拙くて、今がまだ夏の始まりでしかないことを教えてくれる。

 予想していた通り、電車はすぐにやって来て、僕を越して走り去った。電車を追い掛けるように走って十五分。また駅が見えてきた。ここも無人駅で、ここで降りる人の姿は確認できなかった。

 僕は原付を停めた。

 けれど、ホームには行かなかった。

 ひとつ、深めの呼吸をして、また走り出した。視界の隅に映った、ホームの端の供えられた花やお菓子たちが何も変わっていないことを告げる。現実だったことも冷酷に教えてくれる。これが夏の作り出した幻であるなら、僕の生きてきたひとつの年は何だったのだろう。でも、本当はそうでありたい。消えてしまったのは僕でよかったのに。

 夏めいていくから胸が苦しい。

 僕はずっと怖かった。

 君がいなくなってから一年が経った時、僕はどうなっているだろうか、と。何もかもを忘れてしまうのだろうか、それとも、何も変わらず下を向いたままなのだろうか、と。

 正解は後者だった。

 結局、僕は僕のまま、希死念慮を心の何処かで燻らせている。君の存在が、僕の一部だったことを君は知らないかもしれない。僕の世界のひとつの方角を作り出していたのは君だ。

 ほら、苦しい。

 喪失ってこんな感じ、と受け入れようとしたのに意味なんてなかった。所詮、死なんて全てに訪れるものだと斜に構えようが、何も変わらなかった。何も変わらなかった僕を、君は笑うだろうか。いや、寧ろ笑ってくれたらいい。その方が気楽だ。

 僕は方向なんか知らず、ぼやけたことを浮かばせながら、ただただ原付を走らせた。橋を渡り、山と平行に進み、限界まで膨れ上がって弾けそうな雲を眺めた。節操なく鳴る踏切が何かを急かすようで、距離感も不明瞭な蝉の声と重なって、僕の意識を遠くに押し遣ろうとする。

 やがて、青かった空は少しずつ赤くなり、西だと思われる方角が煌めき、そして、静かに藍色が押し寄せた。

 今は黒い山が太陽を呑んで、藍色に暗色の雲が浮かぶようになった頃、僕はまだ原付を走らせていた。ガソリンのメーターがEにこれでもかと近寄っているが、まだ走れることを僕は知っている。

 どうせなら、今日という日がまた一年先になるまで帰らないでいようと思った。だから、原付を停めて、誰もいない河川敷に腰を下ろした。

 ここには灯りはなく、まだ仄かに青さの残る空には、弱々しくも光が点々と見えていた。何処からか来た夕闇の雲は素早く流れていて、まるで遥かな空に川があるように思えた。

 僕はまた歌詞を口ずさんでいた。

 君が横にいたら一緒になって口にしていただろう。

 僕は眼を閉じる。

 絶えず聞こえる川のせせらぎ、もう聞こえなくなった蝉の声、代わりに聞こえるようになった草原の虫の声、記憶の片隅で鳴り響く踏切の警報機の赤い音、少し冷ややかで湿った風、緩やかに下がる夜の幕。

 僕らが好きな世界の音。

 肌を撫でる夜の静けさ。

 いつも描いている夢が色付いていく。

 僕らはただ無限に広がると思しき緑の平原に、何も持たないまま立っていて、視界の上に創られた薄紫の蒸気の天井に浮かぶ青や赤、または緑の星々を眺めていた。君は星を見て何か呟いたようだったが、それが何か僕にはわからない。きっと、星の名前だったのだろう。君はそういう人間だったから、きっとそうなんだ。

 僕は始まりを思い返していたけれど、果たしてどうだったか。僕は憶えてないけれど、君はどうだろう。きっと憶えていないだろう。

 ふと、生温い風が優しく、東らしい方から吹いて、僕らは瞬きした。その一瞬の暗闇の後、視界の、果てなどない草原に彼がいた。遠くからでもわかる優しげな亜麻色の髪に、幼い少女のような丸顔、大きくてビー玉みたいな眼、少し躊躇いのある口元、そして、特筆すべきなのは、異形らしい二本の角。彼は戸惑った顔で回りを見て、僕らのことを見つけたらしく、大きく手を振っていた。

 彼は僕らに近寄ると、僕らの間に入り、僕と君の手を握った。柔らかく、温度のある幼い手が愛しい。

「何処へ行こう?」

 彼が言った。辿々しい英語だった。

 僕らは何も言わなかったけれど、視界は再構築され、僕らが立つのは草原から煉瓦の道に変わった。見上げれば、青白く美しい星が、まるで落下しているかのように近くにあった。

 エンケラドゥス。それが星の名前だ。

 煉瓦の道の脇には低木が植えてあったが、花はまだ蕾の状態だった。

 道を歩くと、緑青に覆われた建物が現れ、僕らは少年に続いて中に入った。中はいくつもの半透明な石柱が不規則に立っていて、灯りは吊り下げられたランプの白い光だった。少年は度々振り返って、僕らがついてきているかを確認していた。

 やがて、空気が切り替わり、半透明の石柱さえもなくなって、星降るバルコニーに出た。そこには金属の洒落たテーブルひとつと椅子が三つあった。バルコニーから見える景色は言葉にすることも憚られるような、非常に素晴らしいものだった。

 僕の拙い語彙で述べることができるとしたら、今は距離を遠退かせた青白いエンケラドゥスがあるが、それを隠すように赤や青のオーロラが展開し、夢のような朗景を作り出している。オーロラの下に広がるのは黒い海で、極光の色を受けて輝いている。ここから浜辺は見えないが、その手前にある緑の低木群が蕾を開かせた様子は見えた。遠くて何の植物かはわからない。視界の右端に古びて動かなくなったバス、或いは電車の残骸が見えるが、それはあまりにも遠い。

「ねぇ、お話しようよ」

 少年が椅子に腰掛けて言った。僕らは頷いて、椅子に座った。夏の夜に吹く、何もかも忘れてしまいたくなるような仄かな熱風がバルコニーを撫でた。建物が僅かに軋んだ。

「お話ってどんな?」

 君は訊ねた。

「お姉さんとお兄さんのお話」

「僕らの? ぼやけたテーマだけど、どうしよう」

「じゃあ、『これから』なんてのを話してみる?」

「君がいいならいいよ。僕は何でもね」

 風が吹き、僕の耳を隠すくらいの髪と、君の肩まである髪が揺れた。バルコニーの灯りは遠い遠いオーロラの光だけで、お互いの表情がどうなっているか明らかではなかった。

「『これから』って提案したのは私だけど、何だろうね」

「僕にもはっきりとはわからない。正直、考えたくはないんだ。時間が進むってことは、どんどん大人になっていくってことだし、君の思い出がどんどん過ぎていくから」

「ずっと子供でいたい?」

「うん。あの決して軽妙洒脱とは言い切れない夢の世界の話は子供にしかできないから。大人になったらどうしても理屈が前に来る。こうだからこれはおかしいとか、夢には要らないでしょ?」

「要らないね。要らない」

「僕だって、少しずつ大人になりつつあることはわかるんだよ。段々と絵のモチーフもつまらなくなってきて、小説だってそう。僕には絵本は書けないし、描けない」

「大人になったって君は君だと思うけど」

「それだったら嬉しい。僕は僕であることが一番だから」

「君はそうだね」

「君はそうじゃなかったっけ?」

 僕が訊ねると、幽かに君の笑う声が聞こえた。

「どうだったかなぁ」

「君も君だった。少なくとも僕はそう思うけどね」

 薄暗い極光の下で君が微笑んだ。

「それでさ、『これから』どうするの? 生きている限り、時間は進んでしまうんだから」

「どうしようかな。少なくとも学びたいことはあるし、まだ絵や小説だって描きたい。そうだね、やりたいことがなくなるまでは生きてみようかなって思ったりする。でも、別に今すぐ死んだって構わないんだ。やっぱり、大人にはなりたくないから」

「死んだらどうなると思う?」

「さぁ? 何もないんだろうね」

「私は何だろう?」

「想いの残滓だろうね。誰かが君を憶えている限り、君は居場所があるんだ。だから、心配はしないでよ。僕は忘れたりしないから」

「本当?」

「本当。忘れられるわけがないよ」

「そっかぁ、それは嬉しいなぁ……」

 君は顔を少し伏せた。照れているようだったが、その顔は見えなかった。少しずつオーロラの光は弱くなっているらしく、バルコニーは深く青い闇に沈み掛けていた。

「移るよ」

 ずっと黙っていた少年がそう言うと、すぐに変化が生じた。闇色のバルコニーが激しく歪曲して、空も海も何もかもがぼやけていった。かつてバルコニーだった部分には大きな穴が開いて、僕と君はそれに呑まれてしまった。何処からかピアノの音が聞こえた気がした。

 気が付いた時、視界は白かった。その白が色を取り戻して、何処か作り物のような青を湛えた空になった。僕は草原に倒れていた。最初に訪れた場所とは違うらしく、辺り一面に葉のない、花と茎だけの植物が無秩序だが鮮やかに咲いていた。

 君は僕から少し離れた場所に倒れていた。その顔は何もない晴れた日の昼下がりに眠っているような、とても穏やかなものだった。透明になり掛けているのは爪先からで、それは君の存在、そして、このふたりの世界が閉じ掛けていることを示していた。

 少年は何処にも見えなくなっていた。

 僕は君を起こそうと、その存在を失いつつある身体を揺らした。君は永い眠りから醒めるように眼を開いて、身体を起こした。困惑したように周囲を見回して、全方向の鮮やかな花に微笑んだ。

「ここは?」

「わかんない」

「この花は?」

「ネリネだよ」

 君は手元に咲いていた一輪を摘んで、観察し始めた。やはり、君は君なんだと僕は再認識した。もう二度と変わることはない。それがどれだけ羨ましいことか、君は知っているだろうか。

 君の眠たげな顔を見て、声を聞いて、少しずつ今日という日の終わりが近付いていることを知る。君の身体は腰の辺りまで半透明になっている。足はもう見えない。

「ねぇ、もうそろそろだね」

 君は言った。

「そうだね。また一年。きっと、僕は変わってしまうんだね。ああ、嫌だなぁ。ここで死んでしまいたい。何も変わりたくない」

「姿が変わっても君は君だって知ってるよ」

「……それだけが救いかな」

 僕は無理矢理に微笑んだ。

「今日が終わったら、また『これから』を考えないといけない。どうして未来が来るのか、僕はわからないんだ」

「未来が来るのは当然だよ。人間は進むことしかできなくて、過去には進めないんだから。未来しかないんだよ。私は期待してるんだよ。君が進む未来で、君が何をするのかって」

「……重いなぁ」

 僕は笑った。

「でも、期待してくれるなら進むのも悪くないのかな」

「そうだよ。私だってみんなと同じ時間で進みたいけど、もう叶わないんだから。君はしっかり進んでね」

「そんなこと言われたら……ダメだなぁ」

 僕らは互いに笑った。

「……そろそろ、今日が終わるね」

「うん。終わる」

「また逢おうね。約束」

「勿論。少しは歩く努力をするから、期待してて」

「うん」

 君の身体はもう殆ど透明になって、青と緑の背景が見えていた。

「ねぇ」

「何?」

「ネリネの花言葉って何?」

 僕は答えようとしたが、最初の文字を口にした瞬間に君は消えてしまい、僕の意識も歪んで、ぼやけた。次の視界は深い夜だった。僕は眼を閉じた時の姿勢のまま夢を見ていたらしい。夜空に燦爛として浮かぶ星々が時間の経過を雄弁に語った。

 時刻は零時を過ぎていた。

 今日が終わっていた。

 僕は夢で話した『これから』を考える。もし、本当に期待してくれるなら、僕は少しだけ生きてみようと思ったりする。まだやりたいことはあるのだから、もう少しだけ。

「また逢う日を楽しみに……」

 僕はそう呟いて、誰もいないような、梅雨時に珍しく晴れた夏の夜の下で、川のせせらぎに消える声のまま僕らが好きだった歌を歌った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです! すごい投稿ペースですね! 僕も頑張ります!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ