前編
・はじめにご注意を
これは09年、『春・花小説企画』に参加した『稀代のダラ悪文ライター』小田中 慎の作品『リラの花、咲く季節』創作秘話である。 読者は読む前に次の点に注意しなければならない。
ひとつ。
これはフィクションである。 リアルの小田中を知っている者は、事実っぽく書かれていることを信じてはいけない。 また、筆名小田中として知っている読者も、小田中のリアル世界が書かれたそのものと信じ込んではならない。
ふたつ。
屈作(拙作でもいいが小田中は個人的な趣味で退屈な作品という意味で使っている。 念のため。 彼は稚拙なものは出さない・・・すごい過信だ。)をまだお読みでない方はスルーして頂いた方がよい。
お読み頂いた後、まだ読む力の出る方のみ、お読み頂けたら幸いである。
なお、これを自身の創作活動の参考にしようと考える若い方、そんな方はいないとは思うが念のため、止めなさい、と言う。 作者は過去プロを目指し、たった一度ある新人賞という名のレースで決勝に残ったがため、その後新人賞ジャンキーと化し、様々なレースに参加しては何度も予選落ち、ある編集者から、(プロになることは)ありえないからもうお止めなさい、と叩き切られた男である。
ただ、こういう自虐がお好きだという、変わった趣味の方は楽しめるかも知れない。
みっつ。
創作ノートの類を曝す、こういう自惚れと見えるであろう行為が大嫌いなあなたは、すぐにお帰り頂く方がよい。 小田中は感想で叩かれても、企画以外滅多に反応しない懲りないヤツである。
以上を読んでも先に行こうと考える方は、自己責任でこの下に続く本文へ向かわれるがよい。
§日記
日記というものは昔から苦手だった。 夏休みの絵日記も8月分は最後の3日間で描き飛ばした手合いだ。 だから日記をつける人を尊敬する。
日記だけでなく手帳も苦手で、打ち合せや会議や商談の場で、落書きと見紛うばかりの数行のメモしかとらない私を見た方から、よくそれで大丈夫ですね、と揶揄されることも多い。
私は、ものを書くことを趣味とする人間としては最低の部類なのだ。
ものを書く構想を立てる時、私はよくアイテムから入るけれど、リラ咲くを書く時、真っ先にこの苦手な日記が浮かんだのは何故だろう?
多分、誰かの文か、実際に見たのか忘れたが、今回「春・花小説企画」に参加しようと考えた時、白い日記に挟まれた押し花の栞、ふとそれが頭に浮かんだのだ。
日記が浮かぶと、古い日記を見つけた人がそれを読みながら、日記の著者の半生を綴る、というモチーフがすんなりと私の隣に座っていた。 これは手垢に塗れた古典的手法だけれど、前から一度、やって見たかった。
これには小説を書く人なら気付くはずだけれど、おもしろい部分がある。
人が書いたものを書く、という二重構造。 日記の著者と、それについて書く著者の違い。 これをどう組み合わせるか、色々と細工が出来るのだ。
たとえば、物語に変化やアクセントを加えたい時、人は小さな事件を起こしたり本筋から少しだけ脱線してサイドストーリーを加えたりするが、私が『日記追い記述スタイル(以下、日記追いと略す)』と名付けたこの手法では、何か詰まったら「この数日分は大したことが書かれていないから」と数ページ読み飛ばして新たなエピソードに行く、とか、「その部分には何故か何も書かれていなかった」としてしまう手もある。
変化を付けるのは簡単、視点を変えればよい。 日記著者視点から日記追い著者視点へ、またはその逆へと。 そうやって読者を飽きさせないで前へと進ませることが出来る。
さて、リラ咲くを読んで頂いた方、特に女性の方の感想に「女性は日記を残し孫に読んでもらうという発想はない」、また、「祖母の日記を孫が書き残すのはどうか?」という疑問・否定系の感想があった。
確かに日記は個人的な秘密が詰まったパンドラの箱。 それを読まれるのはたとえ死後であっても死ぬほど(スミマセン)恥ずかしい、その感情は良く分かるし、特に著者が女性の場合、そこに過去の恋愛が書き残されていたりしたら(雅枝のケースそのままだ)、オチオチ死んでもいられない、そういったところか。
でも、これには反論もあった。 ある女性の方はメールで「女性が日記を残す事はある。」と書いていた。 「残すというより捨てられない。」と。
今の自分に続いて行く記録、『オバカサン』であっても後悔しない生き方をした雅枝なら大切な思い出は簡単に捨てられず、かと言ってずっと残るのも困りもの。 だから息子と孫に読んでもらい、その後は消し去ってもらう、これはあり得る、と。
作者としては正しくその通りとして書いて来たので、これはとても嬉しかった。 改めてその方に感謝したい。
孫が書く、書かない、の方は、日記追いを手法に選んだ時点で決まっていた。 孫に書かせる、と。 これは単純な考えで、息子・娘だと回想録に近いものになってしまうし、他人だと作者が書いたのと同じ視点、伝記になってしまいそう。 孫の視点が『回想録』と『伝記』のほぼ中間の視点、つまり、『よく知っている身内』と『第三者』との中間が確保される、そう考えたのだ。
しかし、絶好の視点は確保したが、肝心の動機が希薄にみえる。 果たして孫の『忍』はどうして祖母『雅枝』の日記を、自身の感想を含めて記載しようとしたのだろうか? また、最後に彼女が気付いた、雅枝お祖母ちゃんが孫に日記を読ませた理由とは?
残念ながら、いくら楽屋落ち駄文でも、そこは書く事が出来ない。 それこそがリラ咲くのテーマだし、私が書きたかった部分だからだ。 それは屈作・リラ咲くをぜひ読んで頂き、それぞれの想いを抱いて頂きたい(あ、上手くまとまった!)。
§ライラック(リラ)とマルギャリタ
書いてしまおう。 私はリラの花の現物を覚えていない。
いや、確かに見たのだ、札幌や函館に5月と6月に行っているのだから。 でも、覚えていない・・・。 普段は花よりだんごだからだろう(これでよく花小説企画などに参加したものだ)。
日記を使って祖母の話を、孫を狂言回しとして語らせる。 この骨組が出来てから、次は『花探し』だった。 だってそうだろう、花小説で花言葉を据えるルールなのだから。
多分、今回参加した方は、花言葉・花を選んでから話を起こした方、話があって(大分出来て)から花言葉・花を選ばれた方、色々あったと思う。 どちらがどうのこうの言う訳ではないけれど、この辺り、書く方の性格や傾向が分かりそうで興味深い。
私は正に前者だった訳だけれど、この時点ではまだ雅枝や忍に名前もなく、雅枝がパリに行く話も出ていなかった。 ただ祖母と孫、日記。 この段階で花を選んだ。 後から考えれば、これは良かったと思う。
さて、企画主催の文樹妃さんがリンクされた花言葉のサイトや、ググってリストアップした花や花言葉のサイトを眺め、候補は2つとなった。
まずはライラック。 これは花自体に惹かれた。 以前から気になっていた花でもあった(見たのを覚えていないクセに・・・)。 匂いがいい、と言うのも春っぽくていいかな、と。
そしてマーガレット。 これは花言葉に惹かれた。 「恋を占う」「貞節」「誠実」「心に秘めた愛」「真実の友情」「予言」「真実の愛」・・・ギリシャ語で「真珠」を意味するという。 もちろん花弁を一つずつ外して占う、あの花占いの元祖である。 スキ・キライ・スキ・・・。 春の花の王道だ。
さて、どちらか。 私は迷うことなくライラックに決めた。 マーガレットは誰かと被るだろう、と予測したこと、もう一つ、ライラックの花言葉が私にとってハードルが高かったからだ。 結果、被る点では企画初日、短編にそのものズバリ「ライラック」(作者;尚文産商堂さん)を見出し、爆笑したが・・・。
それはそれとして、ライラックの花言葉、「友情」「思い出」「初恋」「初恋の感激」「愛の芽生え」「無邪気」「若さ」「美しい契り」「青春の喜び」「若き日の思い出」「謙遜」・・・どれも小田中カラーではありえない。
まあ、だからいいか、位に考えていた、と思う。 今回企画に参加したのは、自分のカラーを少し変えたかったからでもある。
余談だが、実はライラックも花の色により花言葉が違う。 紫は「初恋」「初恋の感激」「愛の芽生え」、白は「無邪気」「若さ」「美しい契り」「青春の喜び」「若き日の思い出」、野生種「謙遜」だという(出典;花言葉事典・ライラック)。
私は特に色に拘らないことにして、これらの言葉から連想するストーリー、プロット、アイデアを出していった。
さて、マーガレットの方は話の途中、あの待ってました雅枝初体験!の直前で登場しているが、あのジャンの持って来た花は、本当のマーガレットではない。
あれは「フランスギク」という、日本で言う「マーガレット」とは違う花。 だからリラ咲くで忍が書いている、「日本ではマーガレットと言う花で・・・」は誤った情報である。 これは分かっていて書いている。 今のところこの「間違い」を指摘する人はいないから、それはそれでいいけれど、ここで断わっておく。
なぜ、そうなったのか。 サイト巡りでマーガレットを調べるうちに、シャスターデイジーやフランスギクというマーガレットのそっくりさんを知り、調べるうちに、特にマーガレットとフランスギクは名前まで似ている、というか近年まで一緒(Marugueritae)だったと知り、こいつは面白い、と使わせて頂いた次第。
ちなみにフランスギクの花言葉は「忍耐」「寛大」「寛容」。 マーガレットとは違う。 ジャンがレイモンのことを語る時、あの熱血漢のレイモン、自国より出身国に愛情を覚えるレイモンを示すのに、なんとも皮肉な花となっている。 レイモンもこの花言葉を知ったら苦笑したかも知れない。
発音も書いておく。 マルギャリタ、と記載したが、皆さんがよく知っているフランス語表記は「マルグリット」。 作家にもいる、「ラ・マン(愛人)」の作者。 でもフランス人の発音を聞くと、私にはマルギャリタとしか聞こえなかった。 ただそれだけで深いイミなどない。
§パ リ
正直に言う。 私はフランスにもパリにも行ったことは、ない。
見たように書く、とのお褒めの言葉も複数の方から頂戴したが、その通り『〜たように』書いている。
特にフランスに思い入れがある訳でもない。 今回の話も結局、ライラックを選んだから舞台がサッポロかパリか、になって、エイ、両方入れちゃえ(勿論、忍の住む街はサッポロをイメージしている)となっただけ。
フランスのパリが主要舞台となったのは、果たしてよかったのかどうか、書いた本人も首を傾げている。 随分、現実と乖離した(又は、しているであろう)風景や描写を入れたからだ。
ただし、映画『冒険者たち』(67年アラン・ドロン、リノ・バンチュラ主演/あの要塞島にノックアウトされた)や45年の独軍からのパリ解放のドキュメント『パリは燃えているか』が好きだったので、パリ舞台と決めると、そこから登場人物のキャラやエピソードのアイデアがブワっと湧いて来たのは事実。
人物については後に別章で話すので、ここではパリの話に戻す。
パリは余りにも有名だから、別に観光ガイドを書く訳でもないので地名や風景はさらっと描写し、自分の頭の中の「パリ」を書いていった。
とはいえ、資料は多少参照した。 いつものウィキはもちろん、紀行文やブログ、フランスの制度、休日や風習を扱った文章などなど。 今ここに書き記すことは控える(論文やノンフィクションではないので)が、感謝しても仕切れない。
しかし、それら資料は参考にしたり形だけ持って来たりしただけ、リラ咲くのパリは本物のパリではない、架空のパリという街だ。
私が創作に当たって勝手に作り上げた最たるもの、それは地形。
パリはセーヌの蛇行地点、特に川中島のシテ島を中心に、ほぼ楕円に広がった街だがその北の部分、モンマルトルが丘であることはすぐに分かる。 どこにも『モンマルトルの丘』と記してあるし、眺めが良いとも書かれている。
しかし、他の地区の起伏に関してはほとんど記述がない。 締め切り時間に追われた小田中はこうして大罪を犯すのだ。 あのナポレオンやヒトラーもやらなかった(やれなかった)パリの改造(あ、ナポレオン三世はやったが)を小田中は筆一本、いや、キーボードとマウスで成し遂げた。
地形改変?で一番はクロードの家のあるパッシー。 蛇行したセーヌが湾曲した中にあり、西側はブローニュの森だから川が廻り込む、ということは多少高台と推理される・・・ひょっとすると、坂があるかも知れない。 そうでなくては困る。 雅枝がルフェーヴル邸へ向かう途中、坂の途中からパリの街が見えなくてはならないから。 そしてクロードの部屋から『宝石箱をひっくり返した様な』パリの夜景が見えなくてはならないからだ。
その他にも事実を無視して弄ったのはいくらでもあるが、あまりやると完全に興醒め(これだけでも十分興醒めだが)、以下は物語の主要舞台と事実のパリでの位置を箇条書きにしておく。 なお、パリの行政区は数字で示されている(名前でも呼ばれる)。 中心から時計回りの渦状、というか巻貝みたいに外へ向かって1から20まで。 詳しくはウィキペディア、パリのページを別窓で開けて見るとよろしい。
○ルナール夫人のアパルトメント
雅枝の学校近く、でも少し離れている、としてセーヌ右岸、12(ルイイ)区にした。 郊外にヴァンセンヌの森や動物園もあり、いい環境に思える。 あのデモ隊が向かう広場は当然バスティーユだろう、と思うかも知れないが、捻くれ屋の私はナシオン広場を想定している。 彼女がパリを去る時に使った駅、リヨン駅もある。
○雅枝の学校
セーヌ右岸、11(ポパンクール)区にした。 この学校は私の創造なので、探さない様に。 北側は繁華街。 東側20区との間の地区ベルヴィルは移民が多いそうだ。
○クロードの家
セーヌ右岸、16(パッシー)区。 先程書いた通り。
○クロードの大学
セーヌ左岸、6(リュクサンブール)区。 もちろん実在のあの大学だが、ストレートに書くのは止めておく。
○三郎の最初の店
同じく6区。 カルチェ・ラタンにはビストロが多いらしい。
○三羽の野鴨亭
文中にも出てくる東駅のある10(アントルポ)区。 庶民的な街だというが、本当のところ、どうなのか? なお、ピザニや私は「レストラン」と呼ぶがフランス人は「ビストロ」と呼ぶだろう。 ピザニは国際人だからそう呼ぶのだろう。 この区も随分と弄くった。
○雅枝2番目のアパルトメント
クロードとの幸せと絶望のアパートの位置は、実は曖昧。 文中から想像するに、多分シテ島のある4(オテル=ド=ヴィル)区か。 ここは東京なら千代田区で、まあ、お金持ちのルフェーヴルさんならこんなところの高級アパルトメントを借りそうだ。
○雅枝3番目のアパルトメント
これは10区。 本当にゲイが多い地区に近いらしい。
○三郎のアパルトメント
マリアンヌと住んでいたアパートも10区か・・・いや、11区の方が都合が良い。雅枝の学校近くである。 何故ならマリアンヌの働く市場を12区、ルナール夫人のアパート近くと想定しているからだ。 ちなみに、雅枝は暫く三郎とこのアパートで暮らすが、数ヶ月後北の10区のアパートへ(59年新居としてちょっとだけ登場)移っている。 やっぱり昔の女の匂いのする家は厭だろう。
○写真屋2階の貸衣装屋
実はこれは場所の特定が出来ない。 多分セーヌ右岸、11区に近いと思われるが、そんな場所はリアルのパリ右岸にあるだろうか? これは全く作者の想像の産物であり、街も全て作者の頭の中で捏ね繰り回した代物である。 まあ、一つくらいミステリーがあってもいいだろう。
§本多家
雅枝の家柄については、最初は何も考えていなかったが、この彼女をいよいよパリに立たせようとする段階で、唐突に旧家のお嬢様にしようと決めた。
名字も決めていなかったから(やはり呆れるほど設定を決めて掛からない堕作者だ)、ふと最近ブームの戦国武将から家康の四天王の一人、『蜻蛉切』の本多忠勝の末裔がいいや、と決める。
伊達とか鍋島とか松平、細川、島津は有名過ぎだし、公家や宮家では恐れ多い。 しかも実在に近過ぎるのはイメージが付きまとうから、だったら空想でよかったのにやっぱり本物っぽくなくっちゃね、等と一人悦になど入るから、後で焦ることになる。
日本は明治政府が基礎を固めると、旧大名家や新政府に功績のあった者たちを貴族に列して華族と称する制度を始めた。 何せ封建制度は中央集権に取って変わったのだから、元勲たちに領地を与える訳にはいかないし・・・はい、山県ハン、あんた頑張ったから山口と島根の半分あげるね、なんてやってたら戦国に逆戻りだ。 だから貴族に列して特権を与えた訳だ。 自動的に国会議員(貴族院)にもなるし特典はいっぱいあるし。
で、ちゃんと調べないで本多さん家を華族にしたら、本物の本多さんの末裔もちゃんと華族になっていた。 しかも分家入れて8家も! 第二次大戦後GHQによって華族制度が廃止されるまで子爵家であらせられた家も多い。 よく考えれば当然じゃないか、江戸末期まで徳川譜代でも名門中の名門なんだから・・・
参った・・・でも今更変えられない。 気付いた時にはもうラストの追込みだったから。 「多」の一文字を「田」にしようかとも思ったけれど、自分の作品には「田」の付く人物ばかりで確か本田もいたかな、と。
潔く?そのままにした。 ここで強調する。 私の書くものはほとんどがフィクションだ。 実際の人物なり歴史なりが一致しても、それは偶然の一致―。
・・・これからは気を付けないといけない。 反省である。
§忍が住む北の街
アイスランドポピーの神では、ほとんどはっきりとサッポロだと分かる描写もある。 これを読んでいて、今、札幌にいる方にはスミマセン、と言う。 この街も勝手に描写している。
ただし、本物の札幌は幾度も訪れているから、問題はなかった。 特に深くは描写していないし・・・
ただし、雅枝の店兼家や、ライラックの樹がある墓所のルーテル派教会などを探さないで頂きたい。
また、マナと忍の通う「少しヘンテコなアレンジの入ったセーラー服」が制服のミッション系私立女子高や、マナの「厄病神1号」のススキノのキャバレー(クラブよりは大きそう。 特殊浴場と思っていた方、そんな店にいくらオーナーの娘で勝手口からでも女子高生は入れないだろう)や「2号」のお店など、ゼッタイにモデルを探してはならない。 これら全てモデルなどないからである。
話はパリに戻ってしまうが、三羽の野鴨亭にもモデルなどはない。 私は実在をモデルに書くのはコワイので、やらない。 実在の人物や店舗、建物などが似ていたら、それこそ偶然の一致である。
でも札幌は大好きな街で、何度でも行って見たい街だ。 食べ物やビールはうまい。 都会なので私の様な都会好き人間でも大丈夫。 なのに自然に溢れ、緑がきれいな街だ。
いつかこの街をモデルに何か書くかも知れない(モデルはないと言ったのに・・・)。
§人物/アントワーヌ
主役級については書くのは野暮。 そこで脇役系で描写の少ない人物にスポットライトを当てる。 まずは彼女、アントワーヌ。
うーん、モデル級のパリジェンヌ。 金髪ですらりと手足が長く、お母様もお近付きになりたい舞台女優さん・・・完全過ぎる背景キャラだ。
なんだかフランスの女性って、やっぱり知的で行動的、美人で怜悧、みたいな印象がある。 クロードの義母・イレーヌ夫人も25年前はこんなだったろう。 ルナール夫人はまた違うが。
私は実在をモデルにしない、と言ったが、白状すると、このアントワーヌには漠然としたモデルがいる。 といっても『実在』ではないから許される?か・・・
パリの項にも記したフランス映画「冒険者たち(LES AVENTURIERS)」のヒロイン、レティシア(ジョアンナ・シムカス)だ。 彼女は前衛芸術家の卵で、クズ鉄でいろんな作品を作るが売れない。 結局有り金叩いて個展をやるがウケはしたものの失敗・一文無し、そして・・・と後はgoo映画で調べて頂くとして。
とにかくフランス女性と言えば、私は真っ先に彼女を思い浮かべてしまうほど。 女優さんのシムカスさんはあの黒人名優シドニー・ポワチエの奥さんとなって引退してしまうが、レティシア役は彼女のキャリアでも最高だろう。 うーん、ドロンとバンチュラ2人と戯れる金髪とスレンダーな青いビキニの彼女、溜息が出る・・・オッホン。
興醒めな事を一つ。 実は彼女はカナダ人だが。 そんなことはどうでもいい、彼女はスクリーンに残る事で永遠にフランス女性の美しさを具現している。
そんな同級生、いてもいいだろう、と加えたが、うん、出番は少ないけれどタダの背景でなかった、と思うのは生みの親(作者)だけだろうか・・・