中年ダイアリー
「ふぅ。」
ため息を吐くと、今まで隠していた疲れが一気に体中をめぐって、和夫はそのままベッドに倒れこんでしまった。
この時期は一番忙しい。
和夫は大型デパートで玩具屋の販売員をしている。
この時期、特にクリスマスから1月の上旬にかけての2週間余りは、玩具屋にとって、客の争奪戦を迎える。
本当に目まぐるしいくらいに働かなくてはならない。今の今までクリスマスの売出しをしていたと思ったら、すでにもう、ツリーやサンタはスタッフルームの倉庫に押し込まれて、今日からは『年末在庫一掃セール』とデカデカと書かれた横断幕が客を迎え入れる。
どうせ、明後日にはその横断幕も倉庫に押し込んで、『新年感謝セール』の横断幕を引っ張りださなくてはいけない。
「あぁ、もう!」
言葉にできない言葉をあえて表現してみた。
1LDKの手狭な部屋に情けない声が響く。
日本における祝日は、ほとんどが仕事で消えてしまった。
そのせいで、まぁ一概にそうとは言いきれないが、一昨年、彼女と別れた。
ここ5年余り、クリスマスも正月も自分の誕生日も、ゆっくりとお祝いした記憶がない。まぁ、もし祝えるとしても、一人だから尚つらい気持ちになるのだけれど。
代わりに、そういった日には、和夫はたくさんの人を祝うことになる。
来る人来る人、皆家族連れで、パパとママに手を繋がれて、楽しそうに歌なんか歌っちゃって、店の中を公園みたいに走り回って、見本の玩具をぐちゃぐちゃにして、時には駄々をこねて大声で泣き叫んで、時にはよだれを商品にダラダラこぼして、時には店内でおもらしとかしちゃって、時には夫婦喧嘩なんてはじめちゃって、時には、時には、時には…。
「なぁにが、『お客さまは神様』だよ。」
和夫はそう言うと、わざと足音を踏みならして、冷蔵庫に向かい、発砲酒を取り出して、グビっと一息飲んだ。
最近、酒を飲む機会が極端に増えた。
元々、和夫はそんなに酒に強くない。だけれど、和夫は最近、酒を飲まないと寝付けない日が増えてきた。
昔は、電車内で酔っ払って、大イビキをかいている会社員が大嫌いだった。でも最近は、親近感さえ感じる。それがたまらなく悲しい。
「ふぅ。」
また、ため息を吐いた。
モワッと、酒の匂いが鼻につく。
和夫は、乱暴にジャケットとネクタイを脱ぎ捨てて、ベッドに腰を落とした。
ギシッと鈍い音がする。
飯を食う量は変わっていないはずなのに、体は格段に重くなっている。腹も出てきた。顎の下には肉が備わっている。
一応、高校時代は柔道で県大会まで出場した。その頃の面影は、まるでない。
まるで豚だな、これじゃ。和夫は自分の腹をさすって、へへっと笑った。
時計を見た。もう夜中の11時30分。風呂に入って、飯を食って、歯を磨いて、なんだかんだでもう明日を迎えてしまう。
「ふぅ。」
また、酒の匂いが交じったため息を吐く。
最近、ため息を吐いて物事を締め括ることが多くなった。
どんどんと諦め癖がついてきている。負け組一直線だ、このままじゃ。
でも、それも楽なのかもなぁ。そう思えるようになったのも、いわゆる『中年オヤジ』の考え方なのだろうか。
和夫はまた発砲酒をグイッと一口飲み、そのままベッドに横になった。
風呂も、食事も、もう、やめーた。
あれ?
和夫は今日の退勤時の様子を思い出した。
今日の退勤の時、確か俺は、新入社員の森口にこう言ったはずだ。
「いいか、森口。この時期は、この店にとって大きなイベントだ。俺たち店員は、お客様に気持ち良く買い物をして頂く、それが使命だ。
いいか、明日は髪の毛にフケの一つもつかないように、しっかり洗ってこいよ。歯もだぞ。歯も。
お客様を引き込むのは第一印象が大事なんだ。このお店で買い物をしたいなぁー、って思わせるのが、俺たち店員の仕事であり、それがプロってやつだ。」
随分と面倒臭いことを言ってしまった。巷の若者からしてみたらこういうのを『ウザイ』と言うのだろう。いや、それとも『ネッケツー』だろうか。
どちらにしても、森口には今日言ったことは、忘れてほしい。
『うるせぇーなー、中年肥満豚が。』と聞き流してほしい。
でも、それも多分無理だろうなぁー、と和夫は思った。
森口は元気が取り柄の、いわゆる『熱血体育系』だ。口癖は、『はい!』、『すぐにやります!』。
なんべんもなんべんも、風呂場で髪を洗う。そんな光景が、簡単に思い浮べられる。
「まいっちゃったなぁー。」
別に言葉にすることもなかったが、つい言葉になってしまった。
「はぁ、ぁー。」
和夫は、わざと大きなため息を吐いて、発砲酒の缶に手を伸ばした。
ものぐさをして、横になりながら缶を取ろうとしたのがまずかった。
脇においてあった、鞄を落としてしまった。中のものをぶちまけてしまった。
「あぁー、もう!」
誰に当てるわけにもいかない感情を表現して、ベッドから起き上がった。
ふと、鞄の中から出た紙袋が目に入った。
手帳だ。
帰りの電車が来るまでの暇つぶしに寄った、書店で購入したものだ。
別に欲しくて購入したわけでもない。現に、今の今まで、つまり鞄から姿を見せるまで、買ったことさえ忘れていた。
ただ、買ってしまった。手帳の前に置いてあったポップの『新しい年を書き記してみませんか』というフレーズに妙に引かれてしまったからだ。
和夫は、乱暴に紙袋を破り捨てた。
中から手帳が姿を見せた。
オーソドックスな、黒の手帳。なんてことない、その他大勢のサラリーマンが手にする手帳だ。
ふと、何か書いてみようと思った。
和夫は、鞄から転がり落ちたボールペンを手に取った。
さて、何を書こう。
しばらく考えてみたが、仕事のスケジュールしか思い浮かばない。
いざ書いてみようと思うと、つまらないことしか思い浮かばない。
誕生日でも、書いて見ようか。思って、すぐに否定した。
やめろ、やめろ、誰も祝ってくれない誕生日なんか書いても、むなしいだけだ、と。
その後も、しばらく考えてみたが、やっぱり書くことが思いつかない。
いや、なにか書くことがあるはずだ。
和夫は、手帳のページをめくった。自分が忘れているだけで、何かあるに違いない。
「なんだこれ?」
思わず声に出してしまった。
手帳をめくる手も止まった。
「頑張る!!」
確かにそう書いてある。
一月の月間予定を書くところ、つまり、カレンダーの縮小コピーみたいなぺーじに、黒いマジックで殴り書きで書いてある。
お世辞にも上手い字とはいえない。いや、はっきりいって下手だ。『張』が離れすぎて『弓』と『長』に見えるし、『る』も妙に曲がっている。
一応、他の月間スケジュールのページも見てみたが、やはり『頑張る!!』の文字はない。
どうやら、落書きらしい。
和夫はその文字をじっと眺めた。
「へへっ。」
思わず、笑みが言葉になってしまった。
なんだか、嬉しくなった。
『頑張れ!!』じゃなくて『頑張る!!』なところも、たまらなく嬉しい。
和夫はボールペンで、『頑張る!!』の下に小さく文字を書いた。
「へへっ。」
また、笑みが言葉になる。
しばらく、眺めた後、和夫は立ち上がって、残っていた発砲酒を一気に飲んだ。
「ふぅ。」
ゲップ混じりのため息を吐く。
「よし、明日も頑張ろう!!」
和夫は鞄からぶちまけられた書類やらペンやらを丁寧に鞄に入れて、ほっぺたを2回軽くたたいてから、風呂場に向かった。
今日はちゃんと髪の毛を洗わなくちゃいけないなぁ。
それに風呂から出たら、前に買って冷蔵庫で冬眠中の、体脂肪を抑える緑茶をちゃんと飲もう。
ふと、時計を見た。
時計は、もう深夜1時が過ぎたことを教えてくれた。
『明日を頑張る』んじゃなくて、『今日を頑張る』じゃねえか。
和夫は苦笑いを浮かべて、風呂場へと向かった。
今日は、忙しくなるだろう。
多分、明日も忙しくなるだろう。
それでも、和夫はため息を吐いて頑張る。
それでも、和夫は今日を頑張る。
頑張る!!中年オヤジ
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