Icy memory 1
昨日の夕べのうちに新しく積もった新雪が、凍った山の斜面をふっくらと覆っていた。断崖にも見えるその斜面を、弾むように一人の子供が下ってきた。真っ白な服に、顔も手足も、髪も真っ白なので、遠目に見ると真っ白な、まりが弾んで落ちてくるようにも見えた。
野生動物のような身の軽さで、斜面の中腹ほどまで下ってくると、深く積もった新雪に埋まるようにして止まった。それから、さくさくと小気味よい音を立てながら一部だけ、木々の密集している、とはいっても雪に押しつぶされかけて大きくたわんでいたので、周囲の雪とほとんど同化してはいた、場所に向かって深い足跡をつけながら歩いていった。子供なものだから、背は低い。しかし、雪は深い。真っ白な斜めの雪原にひょこ、ひょこと小さな白い頭が見え隠れしながら、たわんだ木の根元辺りまで歩いていった。
「きたよー!」
子供が木々の前で大声を張り上げた。すると、
「なんじゃい。誰かいの?こんな時分に来るたぁ・・・。」
とぶつくさいう声が雪の奥から聞こえてきた。
「はやくあけてー!」
ドカン!
雪の底から大きく破裂するように両開きの戸が開いた。
雪の重さに耐えかねてたわんでいた木々から衝撃で雪が滑り落ちる。
ぱぁん…と大きく木々が伸びあがり、次いで、どさどさと木々の枝に残っていた雪の塊が落ちてきた。
「…なんじゃ、誰もおらんじゃないか。」
斜面の中腹に空いた横穴から老婆が顔を出した。まぎれもなく、先程内側から扉を蹴飛ばした老婆である。真っ白な髪にしわだらけの、これまた白い顔。紅い瞳でじろり、とあたりを見回すと、再び扉を閉めようとした。
「いるよー!ひどいっ!だしてよー・・・。」
老婆の足元の雪の中から、もごもごと声がした。
老婆がまがった腰をさらにかがめて足元の雪を払う。
と、勢いよく真っ白な頭が飛び出してきた。ぶるぶるっと頭を振って雪を払うと、
「ひどいじゃない!いきなりうめなくてもいいでしょ!」
首から下は雪の下に埋まっていても、元気はよかった。
「なんじゃ、お前か。も暫く、埋まっとれ。」
そして、またも横穴の中に帰っていこうとした。
ぱしん。老婆の白髪に雪の塊が当たった。
「だしてってば!」
「腕まで抜けたんじゃったらもう抜けるじゃろうが…。」
「え?あ、ほんとだ。」
もぞもぞと子供は雪から這い出して来ると、すたすたと横穴の中、老婆の住居の中に入っていった。
「全く…勝手に入るなというんに…。ほれ、雪を落としてから入らんか。わしの家が濡れるじゃろうが。」
諦めたように老婆も後を追って家の中に入っていった。
「ほいで、今日は何の用じゃ?」
家の中に入り、雪を落とした子供は老婆の前に座っていた。外から見ると崖の中腹に空いた穴にしか見えなかったが、内側はきれいに整えられていた。床は滑らかな木張りで、壁は土の上に滑らかな氷が厚く張っていた。採光口から入る光が壁や天井に反射して、横穴の中とは思えないほど明るかった。
「まさか、わしに嫌がらせをしに来たわけじゃあるまいしの。」
老婆は自分の方へ敷布を引っ張りながら続けた。
「それもあるけど。」
「なくていいわい。」
敷布の上に座った老婆はようやく子供の方へ向き直った。
「あのね、あしたね、山の下にいくんだ。」
老婆の敷布を見て、子供はものほしそうな顔をした。
「ほお。なんじゃ、もうそんな時期か。誰と行くんじゃ?」
仕方なさそうに老婆はもう一枚敷布を引っ張り出す。
「かあさま。」
嬉しそうに子供はその上に座る。
「それなら安心じゃの。元気か、母御は?」
老婆はため息をついた。
「うん。男の人たちはおまえのかあさんの目は赤いほうせきみたいだって言ってた。」
「わしゃ元気かと聞いたんじゃがの。きれいか、と聞いたんじゃないんじゃがの。」
老婆が眉をひそめた。しわが増えた。
「ばあさまよりはきれいだよ。」
「やかましいわ。」
子供は、落ち着かなさげに目を泳がせている。
「はぁー。わかった。お前…山の下にいくのが怖いんじゃろ?」
老婆はにや、と笑った。
「そんなんじゃないもん!」
慌てたように子供は老婆をにらみつける。
「そうかそうか。そうじゃったの、お前山を下りるのは初めてじゃったもんのぉ。」
子供は頬を膨らました。
「なに、大丈夫じゃ。母御と一緒に行くんじゃろ?」
老婆ふっと優し気にに笑った。
「だけど…。」
子供は、今度は口をへの字に曲げた。
「大丈夫じゃ、そうじゃったのぉ…確かわしが娘時分の頃じゃったかの、わしらは人間と協定を結んだんじゃ。」
くる、と子供は老婆に向き直った。
「娘?ばあさま、わかかったころってあるの?きょうていってなに?」
また老婆は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あるわい…。約束みたいなもんじゃ。わしらが人間を守ってやる代わりに人間はわしらを襲ったりしない、という約束じゃ。」
「ふーん。まもってあげるのに、おそってくるの?」
「人間はいっぱい居るんじゃ。それこそ、雪の数くらいの。わしらじゃ、人間には勝てんからの。」
「雪のかず!そんなに?…でも、まもってあげるってなにしてんの?」
「なに、わしらがここにいる、というだけで人間には大きな恩恵があるんじゃよ。」
「おんけい?」
「いいこと、じゃ。」
老婆は溜め気をついた。
「明日は早いんじゃろう。はよう帰って眠っとけ。」
老婆は子供に向かってひらひらと手を振った。
「まだ昼だよ。」
「明日の準備を母御だけにやらせるつもりかの?」
「…はーい。」