10-1 絶鳴
村人に軽く出立を告げて、シグルーン達は北の大山脈…アリアの、氷の一族の棲む巨大な山麓に足を踏み入れた。
泥だらけでぬかるんだ山道は彼等の足を取り、冷たい雨は彼等の体力を奪っていった。シグルーンがアリアに、王都の雪崩の件をかなり端折って告げた他は沈黙と共に彼等は徐々に高度を上げた。アリアは、話を聞いても何も言わず、ただ少し、顔をしかめただけだった。だが、その沈黙はただ悪路や雨のせいだけだとは言えなかった。
秋のうちに葉を落とした木々の間のぬかるんだ道を抜けると、一年中葉を落とさない木々が林立し始める。そのころには冷たい雨は細かい雪へと変わり、そこここに雪の塊が姿を現し始めた。木々に遮られて、曇天の光すら、射さなかった。
ヒュオォォォ……
雪の積もった木々の間を下ってくる風は甲高い声と共に極寒を運んでくる。風にあおられた木々は一方向にしなったままで固まり、氷柱は斜めに垂れ下がる。風はますます強く、足元は凍った雪に覆われた。
凹凸の大きな軍靴の底も、すぐに凍った雪が詰まって滑り止めの意味をなさなくなった。吹き付ける吹雪で体の全面は真っ白に染まりあがり、半ば凍った外套が足を踏み出す度にきしんだ。
光が差した。
曇天の重い灰色の空から絶え間なく雪が吹き付けてくるのだが、真っ白な地面が光をはじいて、その天候とは裏腹に明るかった。
「うっわ…。おい、シグ!これ以上は…キビシイ、んじゃねえ?」
先頭を歩いていたジャックがシグルーンの方を振り返って大声で叫んだ。風の叫ぶ声に半ばかき消されながらシグル-ンが答えた。
「ちょっと待て!そこに行く!動くなよ!」
「言われなくても!」
シグル-ンとアリアがジャック達が立ち止まっていた稜線上にたどり着いた。
どこまでも白かった。吹雪が耳元でうなり、足元の雪は凍りつき、はるかに頭上では風が渦巻いていた。
「何も、見えんな…。」
細い、断崖絶壁のはずの稜線は、凍りついた雪と切れ目のない吹雪の境界が完全に見えなくなり、行くべき先も、帰るべき道も、何もかもが白一色に塗りつぶされていた。
不意に、どさり、と音がした。
「っ!」
隣にいるはずの人影も満足に見えない白の中で、ばっとシグル-ンが腰を落とす。
「…動かない方がいい。下手に動くと、崩れ落ちるか…滑り落ちる。」
アリアの声がシグルーンの耳元でささやくと、紅い瞳が真っ白な吹雪の壁の中に消えた。
「どうしたの?」
「ん?ああ、アリアか…くっそ、何も見えねえ!ヘンケルだ!あいつ、歳だから…。」
「落ち着け、何言ってるかわかんない。」
「だから…そこに…ああくそ、口が回んねえ!」
「ああ、そこに。ヘンケル、聞こえる?…だめだ、聞こえてない。」
「…おい…こえるか?…ック…返事…ろ!」
吹雪の向こうから、かすかにシグル-ンが叫ぶ声がする。無論、離れているわけではないだろう。風と、雪とに遮られて、声が届かない。
「シグ!だめだ!ヘンケルが倒れた!ワイザー!お前は?聞こえるか?」
ジャックが大声で叫ぶ。
「なんとか…」
ジャックのすぐそばで声がした。頭の先からつま先まで雪に覆われて、吹雪の空間と一瞬見間違う。
「これ以上はだめだ!進めない!」
シグルーンの声が少し近づく。
「だけど、帰ることもできない。」
アリアの声がした。
だが、アリアの姿は見えない。
「アリア!ジャック!ヘンケル!ワイザー!」
シグルーンの目の前に、紅い瞳があった。それと同じくらい、紅い唇が開く。
「ジャックは無事だ。ワイザーも何とか。ヘンケルは意識がない。低体温症かな…?」
真っ白な顔には何の表情も浮かんでいない。真っ白な空間に、紅い瞳と、紅い唇と、かすかに真っ赤な耳飾りが揺れた。
「…なんだ…?」
「助けて、欲しい?」
ふっとシグルーンの顔からも表情が消える。
「おい!シグ!やべえって!」
ジャックが叫んでいる。
「…何をすれば良い?」
ジャックの方を見て、シグル-ンが歯を食いしばる。
「…何を隠してるのか、教えてくれない?話は、それからだ。」
「何を隠している…だと?」
「何もかもがおかしい。そもそも…王都で雪崩なんかおこったこと、今までなかったはず。なぜかも、知らないんでしょ?」
ジャックがヘンケルを抱え起こしながら、シグル-ンを見ていた。ワイザーは沈黙したままだった。
「選べ!ここで死ぬか、話すか…2つに1つだ!」
アリアはシグルーンの胸ぐらをつかみあげた。パリパリと氷がはげ落ちた。シグル-ンは、アリアの細い手首をつかんだが、すぐにかくんと頭を下げた。そして、食いしばった歯の隙間から絞り出すようにつぶやいた。
「…頼む…。話す、から。ヘンケルは…。」
アリアは震える掌に掴まれたままの両手をシグルーンの胸元から離した。
雪の乗ったシグルーンの頭に一瞥を投げると、アリアは踵を返した。その瞳は決して冷たい色だけではなかったが、アリアは唇を引き結んで歩き出した。
「ついてきて。…私の足跡以外は踏まないようにね。」
ジャックが支えていたヘンケルをアリアが半ば担いで起こし、先頭に立って歩き出した。
凄まじい吹雪と、極寒の風が行く手を遮っていたが、アリアは何もないかのように頓着なく歩いてゆく。
やがて、真っ白な世界の中に、ぽっかりと黒い穴が姿を現した。
アリアがジャック、ワイザー、そして、シグルーンを振り向いた。
真っ白な長い髪が風にあおられて大きくはためく。肩を貸したヘンケルの黒い外套とアリアの青白い顔。黒と白の世界の中で、唯一の赤が、紅い瞳と唇が同時に開く。
「ここは、この山脈の内側への入り口。私の一族の、秘密。」
黒々とした横穴は風を吸い込み、かすかな音を地の奥、深く、深くまで響かせていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
ジャック&その他だったのがヘンケルとワイザーになりました。作者のキャパシティーが限界です。名前…忘れそう。
いわゆるホワイトアウトという現象です。視界が全部真っ白になってかなりヤバいです。