席に戻るということ
チャイムが鳴る。
教室の空気がわずかに引き締まる。
黒斗は自分の席に座ったまま、机の木目をじっと見つめていた。
久しぶりの教室は、思ったよりも狭い。
思ったよりも、息苦しい。
「……黒斗、ほんとに久しぶりだな」
前の席の男子が振り返る。
悪意はない。ただの疑問。ただの好奇心。
「体調崩してたのか?」
「先生、結構心配してたぞ」
黒斗は口を開きかけて、言葉を止める。
体調。
病気。
家庭の事情。
どれも嘘ではない。
だが、本当でもない。
「……ちょっと、色々あって」
曖昧な返事。それ以上は踏み込ませない。
それでも教室の空気は少しだけ柔らぐ。
だが。
黒板を見ると、理解できない数式が並んでいた。
ノートを開く。
空白。
何ページも、何ページも。
欠けている時間が、目に見える形でそこにあった。
(……こんなに、抜けてたのか)
胸がざわつく。
戦いでは感じなかった種類の焦り。
授業は進む。
先生は黒斗に特別な言葉をかけない。
それが逆に重い。
「じゃあ、この問題。黒斗」
一瞬、時間が止まる。
教室の視線が集まる。
黒斗は立ち上がる。
分からない。
だが、逃げない。
黒板を見つめる。
頭の中で必死に整理する。断片的な記憶を繋ぎ合わせる。
「……ここは、こうなります」
完璧ではない。
だが、間違いでもない。
教室に小さなどよめきが起きる。
先生は頷いた。
「ブランクにしては悪くないな。座れ」
その一言で、黒斗の肩からわずかに力が抜ける。
戦場ではない。
だが、これはこれで戦いだ。
席に戻り、拳を静かに握る。
(取り戻す。ひとつずつ)
窓の外を見る。
校門の向こう、遠くに立つミオの姿が小さく見えた。
こちらを見ているだけ。何も言わない。
その距離が、今はちょうどいい。
その時。
背中の奥が、ほんの一瞬だけ冷えた。
影が揺れたわけではない。
だが、誰かが“見ている”。
教室のどこかから。
黒斗は視線を感じる。
振り向く。
誰もいない。
だが確かに
何かが、日常の中に入り込んでいる。
チャイムが鳴る。
次の授業が始まる。
日常は続く。
だが、静かに、確実に。
何かが近づいていた。




