少女は五感を、少年は世界を知る
世界は、無音の闇だった。
七瀬は、それが比喩表現ではなく、文字通りの現実であることを知っていた。彼女の五感――視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚――は、五年前に起こった原因不明の事故以来、すべて機能を停止している。色彩も、風の囁きも、焼きたてのパンの香りも、温かいコーヒーの味も、隣に座る母親の体温すらも、彼女には届かない。
彼女にとっての世界とは、ただ存在するだけの、感情を伴わない「無」だった。
今日もまた、規則正しい人工呼吸器の駆動音だけが鳴り響く、無菌室の白い天井を見つめている(実際には見えていないが、視線だけはそこに向けられていた)。医師たちは「奇跡的に脳波は安定している」と言うが、七瀬自身は、自分が生きているのか、それとも長く続く夢の中にいるのか、区別がつかなかった。
そんな、何の変化もない、永遠に続くかと思われた灰色の日々に、突然の「異変」が訪れたのは、午後の三時を少し過ぎた頃だった。
個室のドアが、静かに開く音がした。七瀬には音は聞こえない。しかし、肌を撫でるわずかな空気の動きで、誰かが入ってきたことを察した。いつもなら看護師か両親のどちらかだが、今日は違った。空気の動きが、いつもの人物よりも少しだけ、鋭かったのだ。
「……こんにちは」
七瀬には、その声が聞こえなかった。だが、その言葉が発せられた瞬間、彼女の止まっていた時間と感覚が、わずかに、本当にわずかに、震えた。
「僕の名前は、ハルト。君に、僕の『視覚』を貸しに来たんだ」
少年の言葉とともに、七瀬の目の前に、突如として「色」が現れた。それは、長い間閉ざされていた世界の扉が、乱暴にこじ開けられたような衝撃だった。白と黒、青と赤、世界は鮮烈な光と影で満ち溢れていた。彼女は生まれて初めて、いや、五感を失ってから初めて、世界の「美しさ」に触れた。
これは、五感を失った少女と、五感を人に分け与える能力を持つ少年の、境界線を巡る物語の始まりだった
「……視覚?」
七瀬の口から、掠れた声が漏れた。五年ぶりに発した、意味を持つ言葉だったかもしれない。
目の前には、白い無菌室の壁。しかしそれは、以前の彼女が想像していた「白」とは全く異なるものだった。光を反射して輝き、わずかな陰影が立体感を生み出している。これまで認識していた「世界」がいかに貧弱なものだったかを、彼女は思い知る。
そして、彼女のベッドサイドに立つ少年。年齢は自分と同じくらいか、少し年上に見えた。癖のある黒髪に、好奇心と不安が入り混じった瞳。その顔立ちは、彼女が最後に見た、ぼやけた記憶の中の人間よりも遥かに鮮明で、生の感情に満ちていた。
「すごい……見える……」
七瀬は思わず、彼の方へ手を伸ばそうとした。だが、その腕は重く、動かない。長期間寝たきりだった体は、彼女の意志を拒否した。
少年――ハルトは、七瀬の反応に少し驚いた様子で、一歩身を引いた。
「ああ、ごめん。急に強引だったよな」ハルトの声が聞こえる。これもまた、彼女の記憶にある声とは違う、鮮やかで、温度を持った音だった。「感覚を貸すのは初めてで、加減が分からなかった」
ハルトは七瀬の腕に触れた。その瞬間、七瀬の視界から「色」が消え、再び無音の闇へと戻った。
「え?」
「視覚をオフにした。同時に全部貸すと、キャパオーバーになると思って」ハルトは説明した。「僕の能力は、僕自身の感覚器官を一時的に他人に渡すことができる。今、君は僕の目を通して世界を見ている。だから、僕が目を閉じたり、僕から離れたりすると、感覚は途切れる」
七瀬は混乱した頭で、彼の言葉を反芻した。つまり、今この瞬間、ハルト自身は何も見えていないということか?
「あなた、見えてないの?」
「うん、真っ暗。でも慣れてるから平気」ハルトは明るく言った。「その代わり、君には僕が見たままの世界が見えてるはずだ。ねえ、この部屋、どんな色してる?」
七瀬は再び彼を見た。視界は戻っている。
「白……すごく、鮮やかな白」
「だろ? 病院の白って、なんか冷たいんだよな」
ハルトは七瀬のベッドの隣に椅子を引き寄せ、腰掛けた。彼の動きに合わせて、七瀬の視界もわずかに動く。まるで自分がハルトの中にいるような、奇妙な感覚だった。
「僕がこの能力に気づいたのは最近なんだ。親にも秘密にしてる。でも、君のこと聞いて、どうしても試してみたかったんだよ」ハルトは続けた。「君は全部失ったんだってな。俺は全部持ってる。なら、ちょっとくらい分け合ってもいいだろ?」
その言葉は、七瀬の心を深く揺さぶった。同情でも憐憫でもない、ただ純粋な「共有」の申し出。
彼女は五年間、世界のすべてから隔絶されていた。しかし今、この見知らぬ少年が、境界線を乗り越えて彼女の世界に色を持ち込んだ。
「ねえ、ハルト」七瀬は、自分の唇が動くのを感じながら言った。「次は……音、聴かせてくれる?」
ハルトは少しだけ躊躇したが、すぐに笑顔を見せた。
「いいよ。今度は、音楽みたいな感覚をあげる」
その瞬間、人工呼吸器の単調な駆動音とは違う、世界が持つ無数の「音」が、七瀬の意識に雪崩れ込んできた。それは、途方もなくうるさく、そして、途方もなく美しい、世界の旋律だった。




