雨真似
高校時代の夏休み。余りにも暇を持て余していたので、そうだ一人でキャンプでもしてやろうとふと思い立ち、東北地方のある山に来ていた。
花のJKに足があるはずもなく、されど移動はもっぱら徒歩であり(最寄りまでは電車だが)、背中に大荷物を担いでやっとの思いでキャンプ場に辿り着く。雲一つ無い青空が忌々しく思えるほど、体中はベトベトだ。
流石の夏休みということで家族連れが多く、静かな大自然を楽しみたかった私は、重い足を動かして遠くの不人気ポイントを拠点にする。
先日大雨が降ったこともあり、地面は多少泥濘んでいたが、たかだか一泊する程度なので問題なしと設営を始める。タープも張りたかったが、風が吹くたびロープが伸びて杭を抜くので泣く泣く諦めた。
いざ完成すれば柔らかすぎる床に所々石が入っていたり、やたら湿気て来たり、蚊が大量に発生していたり、トイレが遠かったり、親切を装ったおっちゃんがテントを開けてきたり、何故不人気なのかをわからされるレベルの不愉快さだった。
だが、この辺りにテントが張られない理由はもう一つある。
そしてそれは、私がこの山を選んだ理由でもあった。
出るのだ。何が?
この世の者とは思えない、恐ろしい何かが。
というのもオカルトサイトに書いてあったもので、曰く、『東北地方のある山でキャンプをする時は、夜に外へ出てはならない』というもの。
恐ろしい何かがいるからで、その何かも人を外に出て来させようとするのだとか。
禁忌は明確だが、それ以上の情報はそのサイトには載っていない。だが、キャンプ場を幾つも調べれば、場所の特定は容易だった。
「こんな場所にテント張ったら危ないぞ」
おっちゃんもそう言っている。いつまでいるのやら。馴れ馴れしい口調のわりに目は真剣だ。こんな可愛すぎるJKを本気でオトせると思っているのか。
「雨も降って地盤が緩んでいる」
「私、雨好きなんで早く帰ってくれます? 警察に通報しますよ?」
つっけんどんに言い返して、スマホの画面を見せる。いきなり襲われてもワンタッチで通報できる。おっちゃんは心底嫌そうな顔をして、ご丁寧にジーッとジッパーまで締めて何処かへ歩いていった。泥濘からキュッキュッと音がする。
さて、キャンプといえば飯である。設営に手間取って、空は未だ青いが時刻はすでに十八時を回っていた。夕飯晩御飯。いや、まだ日が沈んでいないなら昼御飯になるのだろうか。そんな事を考えながら調理を始める。
テント内のリュックからクッカーセットとスキレットを取して、ミニテーブルに並べていく。クーラーボックスからは、下ごしらえ済みの具材を詰めた小さなタッパーを取り出す。今日のメインはアヒージョだ。
私はこれを作りたくて来たと言っても過言ではない。空腹の前では恐ろしい何かなど恐るるに足りない。
スキレットにオリーブオイルをたっぷり注ぎ、にんにくを一片、薄くスライスして加える。焚き火台に火を点けると、オイルがじんわりと温まって、にんにくが白く踊り出す。
時間をかけて火を通すのがコツだ。香りが立つまでは触らない。私の集中を邪魔するものは、ぶんぶんと飛び回る蚊くらいなもの。クラップ。
音が変わる。油がパチパチと細かく弾けるようになり、空気の密度まで変わった気がする。
にんにくの香ばしい香りが鼻腔をくすぐったころ、下処理したベーコン、マッシュルーム、そしてミニトマトを順番に投入する。じゅっ、と音が立ち、オイルの温度が一瞬下がるが、すぐに持ち直してまた軽快にパチパチと音が広がる。
塩ひとつまみ。乾燥バジルを少し。
スゥーッと鼻から脳へ香りが一気に広がる。とろけるような油の匂いの中に、トマトの甘酸っぱさ、バジルの草のような青さが混じる。これが一人用のささやかな贅沢。アウトドアじゃなきゃ出来ない、油と火の対話。
私はゆっくりとスキレットの具材をスプーンで動かす。マッシュルームの内側に気泡が溜まり、トマトの皮が少しずつ裂けていく。頃合いだ。
——パチパチ。火の弾ける音がする。
——パチパチ。油の跳ねる音がする。
——パチパチ。手を叩く音がする。
目を覚ます。夜はすっかり日を飲み込んで、熱だけを残していた。そうだった。晩御飯を食べた後、眠くなってテントで寝ていたのだった。星空の見えないテントは蒸し暑く、地面はしっとり濡れていた。
——パチパチ。何の音だろうか。
火は消した。アヒージョは美味しく頂いた。私以外に人はいない。
寝起きのぼんやりとした脳みそはそこでやっと恐ろしい何かを思い出した。空腹を満たしたせいで全てに満足してしまい、つい忘れてしまっていたのだ。
されど問題はない。禁忌は明確。外に出なければいいのだ。ふと、脳裏にトイレはどうしたらと浮かんだが、大丈夫だ。地面はすでに濡れている。
しばらくすると音は止み。今度は人の声が聞こえてくる。
「おーい。おーい」
若い人の声。あまりにも鮮明な人の声。それが逆に恐ろしい。楽しげで、まるで山彦を呼ぶような明るさ。
「ここに場所にテントを張ると危ないぞ」
聞き馴染みのあるおっちゃんの声。どこか台詞が違うような。まさか、あのおっちゃんは本当に親切心で言っていたのかもしれない。ここに来る客に注意を促していたのかもしれない。
「それでも中に入ってこない分アンタの方がマシね」
今のは私の声。聞こえないほどボソリと呟いたが、それと同時におっちゃんの声は夜の闇に消えていく。
そして、今度は、パラパラと雨の落ちる音が聞こえる。
雷雨。豪雨。昨日の大雨のようなザーザー降り。
まるで今、本当に外で降っているのかと思うほどの臨場感。それでもテントに水滴はつかない。
偽物の雨は好きじゃないのよ。馬鹿にするように心の中でくすりと笑う。
きっと恐ろしい何かは声や音を真似るのだ。そして言葉の意味は理解しているのかもしれない。おっちゃんとの会話も盗み聞いていたのだ。
昼に?
血の気が引いた。体中の熱が何処かへ逃げ出していく。汗で濡れた頭は少しだけ、ほんの少しだけ、冷静になって、気づかなかったことまで気づいてしまう。
何で、臨場感のある、そう、まるでテントの中にいるような雨音が出せるの?
夏なのに肌寒い。
雨が止んだ。大丈夫だ。そう言い聞かせる。
ジーッ