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福永先生の畑は学校に隣接している。と言っても、学校の周囲はほとんど畑で、違いがあるとすれば、誰の持ち物かというくらいだった。
学校の東側は、福永先生が先祖代々受け継いでいる畑だ。学校から離れた区画は住宅用に売り払っているが、先生に言わせると相続税のための泣く泣く売ったのだという。そこに住んでいる人もいるわけで、あまり恨めしい顔で見ないほうがいいと思うと、誠人はいつも思っていた。
「先生、呼んでいたって」
「ああ、そこの野菜を、甲賀さんのところまで運んでくれるかな」
「またですか」
「そう、また。山のほうのことは、君たちのほうが詳しいだろ? な?」
「たち?」
誠人が後ろを振り向くと、当然のような顔をして、桃子が立っていた。
「私も呼ばれた」
「はあ」
「というわけで、ふたりでよろしくな」
「はあ」
誠人は学生鞄を桃子に渡し、背負う籠に手をかけた。中身は福永先生厳選の新鮮な夏野菜だ。
「じゃ、行こうか」
「うん」
誠人と桃子は並んで歩き始めた。誠人の目には、桃子の足取りがいつもより軽いように見えた。
「……ねぇ、さっきの話だけど」
「ん?」
「紀美とのこと。誠人は、紀美のことも気にかけているの?」
「もちろんだよ」
「そっか……」
「紀美は、桃子の大切な友達なんだろ? 桃子には、友達と仲良くやって欲しいから」
「うん、ありがと。ところで、誠人」
「何?」
「紀美のこと、どう思っているの?」
「えっ! ? どう思ってるって?」
誠人は動揺していた。まさかここで紀美のことを聞かれるとは予想していなかったからだ。
「どうって言われても、普通の同級生としか……。紀美は僕にとっては、本当にただの同級生でしかないよ」
「でも、私より、紀美のほうが、その……胸、おっきいし。さっき、見てたでしょ」
「み、見てないよ。桃子は気にしすぎ!」
「そっかなあ」
「そうだよ」
それっきり、桃子は黙ってしまった。胸のことはさておき、誠人は桃子の泳ぐ姿を美しいと思っていた。それでは駄目なのかと疑問にすら思っていた。
ふたり並んでろくに舗装のされていない道を、山に向かって歩く。道は狭く、両脇は背の高い草で覆われていた。時折、遠くから虫の鳴き声が聞こえてくる。
しばらくすると、前方に小さな建物が見えてきた。それは、古い木造平屋建てで、周りにある他の家とは似つかわしくない雰囲気を持っていた。
誠人と桃子は、玄関の前に立った。
誠人は扉をノックした。
中から返事はない。もう一度、今度は少し強めに叩く。
やはり反応はなかった。
誠人と桃子は顔を見合わせた。
この辺りの家は、基本的に鍵をかけていない。誠人も桃子も、勝手に入ればいいと思っているのだが、一応礼儀として声をかけることにしている。
しかし、今回は誰もいないようだ。
誠人は肩を落としてため息をついた。
そのとき、背後から、がたがたっと音がした。
誠人と桃子は振り返った。
「すまない、留守にしていた」
「甲賀さん? !」
ひどくがたいのいい中年男性が立っていた。野菜の届け先は、この男性だ。だが、今日はどうしたことか、疲れた顔をしていた。
誠人と桃子は、野菜の入った籠を渡した。
男性は、野菜の袋を手に取ると、それを脇に抱えた。
そして、ふたりの顔を見て言った。
「今日もトレーニングしていくか?」
「はい!」
ふたりは口を揃えて答えた。
「よし、ついてこい」
甲賀は、誠人と桃子を連れて、家の裏手へと歩いていった。
大きな岩に囲まれた池がある。直径が5メートル近くといったところか。水面は静まり返り、魚影ひとつ見えない。いつものトレーニング場だ。
「投げてみろ」
甲賀が渡したのは、クナイであった。紡錘形をした金属で、昔の忍者が使う武器だ。普通な博物館に並んでいるような物だが、どういう経路で入手したのか、甲賀はクナイや手裏剣を数多く所有していた。
「甲賀という名前で分かるように、俺は忍者の末裔だ」
という、嘘か本当は分からない説明をしていたが、甲賀という名字を信じるのならば、忍者の血筋だというのも信じてもいいかもしれないと、ふたりは思っていた。
誠人と桃子がクナイを投げる。ふたつのクナイは、まっすぐ飛び、池の水面で跳ねたかと思うと、勢いを落とさずに池の対岸に向かった。
カンッ! カンッ!
対岸の木の幹にクナイが刺さる。その木の幹にはいくつもの傷がついていた。何回も何回も的になった跡だ。
誠人と桃子は、次々にクナイを投げ続けた。三〇分後、ようやく休憩となった。
「どうだ? 何か腕前に変化はあったか?」
「ふたりとも、四本同時までは投げられるんですけれど、そこまでですね。片手で三本以上持とうとすると、命中率ががた落ちです」
「そうか……」
甲賀は腕組みをして考え込んだ。
誠人は、ふと疑問を口に出した。
「あの、どうして僕たちに訓練してくれるんですか?」
「暇つぶしだ。俺は表には出れないから、こんなことでもしてないと退屈で頭がおかしくなる」
「表に出れないって」
「忍者ってことだ」
この冗談を、甲賀は真顔のまま言うのだ。黒の作務衣を来た強面の男が、自分は忍者の末裔だと言う。滑稽としか言いようがないのだが、逆に真顔で言われてしまうと、実はそうなのかもしれないとすら思えてくるから不思議だ。言い切ったほうが勝ちなのかもしれない。
誠人と桃子が、いつからか山沿いの家に住み着いた謎の男、甲賀に忍術に似た技の訓練を受けることになった経緯は、本人たちすらも忘れてしまった。閉鎖的な田舎町の住人にすら、この人は昔から住んでいるのだと錯覚させるような、不思議な存在だった。
甲賀は、独特の雰囲気を纏った、壮年の男性である。その体格や筋肉のつきかたから、あきらかに何かしらの競技か武術を身に着けていると思われたが、真実は誰も知らない。
彼が住んでいる家は、町から少し離れた場所にあり、周りには山々が連なっていた。
誠人と桃子は、甲賀が教える忍術(と本人が主張している技)に興味津々で、訓練に熱心に取り組んでいた。最初は、水の特性と絡めた忍術を操ること自体に苦戦していたが、甲賀の厳しい指導によって、次第に上達していった。
「水の動きを味方につけるには、水の流れを読むことが大切だ」
と甲賀は教える。二人は、その言葉に耳を傾け、水の流れをじっと見つめた。水面を自在に操る技術を学び、手裏剣や鎖鎌、縄などを駆使した忍者らしい技を身に叩き込む。
日が暮れる頃まで練習することもあった。それくらいの時間になると、二人は疲れ果て、体中が痛みに覆われていた。しかし、甲賀は満足しない。
「まだまだこれだけでは足りない。もう一段階上の訓練を行う」
と言いながら、甲賀は続けた。
「相手の思考や感情を読み取り、相手の動きを先読みする。これが真の忍者の技術だ」
そんなことを真顔で言われると、まだ子供心がどこかに残っている誠人と桃子は、驚きと興奮が入り混じった気持ちになり、熱心に訓練に取り組んだ。甲賀の厳しい指導によって、次第に二人は忍者としての技術を身につけていった——と言ってもいいくらい、様々な道具を駆使した技に熟練していった。厳しい訓練は、二人にとってきついものでもあったが、それ以上にスポーツが武術を学ぶ時のような楽しい経験でもあった。実際、彼らは、甲賀から学んだ技術を磨き、一部においては甲賀を上回る技を持っていた。
訓練が終わり、甲賀の入れた水出しの緑茶を飲み、二人は甲賀の家を出た。
甲賀は何か得心したような笑い方をして、手を振って二人を送り出した。
「お前たちは、自分たちが何を目指しているのか、もう一度考えてみるといい。そして、自分たちがこの先、何を成し遂げることができるのか、自分自身に問いかけるといい」
最後にいかにも師匠らしい言葉を、彼らに送った。