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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

毒舌探偵にカフェラテを

作者: 悠太

『毒舌探偵は新宿が嫌い』第二弾となります。今回はミステリではなく、ヒューマンドラマに近いローファンタジーとなっております。続編ではありませんがアクション要素もありますので、お時間のある際にお楽しみ頂ければ幸いです。



僕の母親は教師だった。

隣町で小学生を受け持っていて、早朝から深夜まで忙しく働いていた。

生徒にも御家族にも慕われていたのだろう。彼女が疲れて帰ると、父兄からひっきりなしに悩み相談の電話が掛かってきたのを覚えている。僕はその足元で独り冷や飯を掻き込んでいた。

朝は食パンが一枚テーブルに置かれていて、給食まで腹が減って仕方なかった。保育園では級友達が今朝はハムエッグを食べてきた、なんて他愛無い話をしていて、ぼんやりと「僕の家は普通じゃないのかな。」と考えていた。

そんな食生活を繰り返していたからか、物心ついた頃から酷い便秘で、検便の時は母親に怒鳴られながら泣いて必死に力んだ。耳にはいつも耳垢が詰まっていて、髪を伸ばして隠した。風呂の入り方が解らず、コンディショナーで全身洗っていたら、汚い臭いと罵られた。母親は仕事と時間に追われていて、僕の世話など意識したこともなかっただろう。

でも苦言を呈したなら、きっと彼女はこう言う。

「貴方に何が解るの?必死に仕事して家事もしてお義父様から奴隷のようにこき使われて……血尿出した時ですら満足に休む暇を与えて貰えなかったのよ?」

父親は地元では有名な武道家で、大きな空手道場を開いていた。早朝稽古で家を空け、深夜まで弟子と共に酒を煽っていた。

彼が僕に興味を持ち始めたのは、四歳の時。彼は息子である僕を道場の良い宣伝材料として、突然厳しく鍛え始めた。

稽古の度に肩まで伸びっ放しの髪を咎められて、万札を握らされて一人で床屋に行った。

地元の床屋のお爺さんはとても優しくて、ぼさぼさの髪を切るだけでなく、無言で耳垢を綺麗に取ってくれた。がさがさの肌に心地良い泡を乗せて、産毛を剃ってくれた。帰りには必ず床屋専用のクレンジングボトルを一本持たせてくれた。

「坊は頑張り屋さんだなぁ。偉いねぇ。」

老齢でかすれた声が僕に語り掛けて、五歳の誕生日に綿棒や子供でも使える耳掃除のキットをプレゼントしてくれた。常連だったお坊さんと仏頂面のお兄さんも祝ってくれて、床屋で過ごす数十分が僕は大好きだった。

稽古はひたすらに厳しく、母親は僕に関心が持てず、それでも僕は必死になって無い尻尾を振って媚びた。唯々愛されたくて、本能に急かされるままに僕は彼らの都合の良い飼い犬として、毎日必死に生きた。

そんな日々が続いて八歳の誕生日を迎えた或る日、父親に全国大会に出て全勝するよう命令を受けた。

「お前なら通用するだろう。励め。」

自分に関心を持って貰えたことが、嬉しかった。

自分に向けて言葉を掛けてくれたことを、幸せに感じた。

僕はもっと彼等に愛してもらえるよう努力しなければいけない、もっと彼等に喜んでもらえるよう闘わなければならない。

その一心で、僕は全国大会を制覇した。




勇猛果敢に闘う一人の少年。体付きは同学年の子供に比べて、やや幼い。ひょろりと長い手足や胴には、想像する身体能力以上の技術と膂力を纏わせていた。

海月(くらげ)、あの子をどう思う?」

祖父が私を見ずに呟いた。私は眉間に大きな皺を寄せ、腹の底から溜息を吐いた。

「泣き叫ぶ声がきんきん高くて、煩い。二度と近寄りたくないですね。」

「初めて会ったのは、もう四年も前か。とっくに限界を超えておるだろうに。」

その悲哀が滲んだ一言だけで、祖父が何を企んでいるか、容易に検討がついた。

「……爺様、情けを掛けることだけが人の道ではありません。我々にも限界がある。共倒れは勘弁です。」

「共に倒れるのは、お主か。」

「言葉は諸刃の剣だと、貴方が教えてくれました。もうお忘れですか?」

私と祖父は武道館の二階席最前列に並んで座っていた。少年の父親が祖父に渡してきたチケットだった。

「……人間なんて大嫌いです。古い苦痛に新しい苦痛を重ねて、自分を誤魔化して生きている。その癖、助けを求める声だけは一丁前と来た。貧乏くじをひかされるのは、もう御免なんですよ。」

武道館を歓声が包み込む。少年の鋭い上段が決まった瞬間だった。礼を払い、父親に駆け寄る少年の表情は歪だった。酷い泣き声が脳を揺らして、海月は舌打ちした。

「反吐が出る。あいつの両親にも……あいつ自身にも。だから爺様の話は聞かなかったことにします。受験勉強があるので、帰ります。」

「爺と晩飯でも食べないか、海月(くらげ)?」

「……都心に来るだけでも辛いんです、察して下さい。」

黙り込んだ祖父を置いて、私は出口を目指して足を進めた。やはり孫の応援に来ていた祖父の知己である空木(うつぎ)ハヤルに後を任せて、武道館を出た。

九段下の駅に向かう人の群れは、黄昏に染まる桜に夢中で泣いていない。

それだけが救いだった。




高校三年の秋の暮れ、祖父が空木(うつぎ)セナを家に住まわせた。

「お世話になります。どうぞ宜しくお願い申し上げます。」

ランドセルとスポーツバッグを抱えて精一杯のセナを、祖父は慈愛の眼差しで見守っていた。人たらしで有名な祖父がどんな手を使ったかなど、最早どうでも良かった。申し訳無さ気に私を見上げる幼子が憎くて堪らなかった。

祖父は苦しむ私よりも、知り合いの孫の窮状を憂いたのだ。




子供が拾ってきた犬猫の世話を、結局母親が担うことになる。よくある話だ。私の場合は、祖父が勝手に引き取ってきた八歳児だった。

まず食事が満足に食べられない。

通常より飢え痩せていることは明らかだったので、初めは柔らかい御粥やスープ類で胃を肥えさせた。温かい食事に驚くセナを不憫に思ったことは一度や二度ではない。

また極度に遠慮がちな為、自分から腹が空いていることを申告しない。

苦慮の末、日々の三食とは別に、朝一でセナ専用のおにぎりを十個握って冷蔵庫に保存することにした。セナ以外誰も手は付けない旨を強めに伝えると、日に日におにぎりの残数は減っていった。御両親との約束で、下校後は道場で厳しい稽古をつけてもらう為か、稽古前によく摘まんでいたようだ。具が数種類あった為、好物がツナマヨだと解った。

所持している衣類が異常に少なく、また薄汚れていてサイズも合っていない。

主に下着類など、私のお下がりでは間に合わないこともあり、週末二人で近所の子供服売り場に向かった。セナの好きな色が赤だとその時知った。

風呂の入り方を教える為に、初日だけ一緒に入浴した。セナは床屋の爺様から持たされたクレンジングボトルを大事に抱えて、稽古で痣だらけの身体を洗い始めた。確かにそれは爺様がセナの窮状を憂いて、わざわざ取り寄せてくれた全身用洗浄剤だった。

私はセナの手を止めて、元貴の風呂にあるシャンプーやボディソープを説明した。

強制した訳ではなかった。それでも悲しそうに俯くセナを見て、私は苦渋の提案をした。

「それはセナの『とっておき』にしておきなさい。大事な試合の前、御両親と会う前、大事な予定がある前日に『とっておき』を使うんだ。そうすれば、きっと床屋の爺様がセナを守ってくれるだろうよ。」

「『とっておき』……。」

そのキーワードは随分気に入ったらしく、その後暫くセナの口癖となった。

三人の暮らしが落ち着き始めた頃に、セナの初めての要望で、二人で床屋の爺様に会いに行った。

爺様は少し肉の付いた頬や身綺麗な姿を見て、セナに微笑んだ。

「坊、良かったなぁ。本当に良かった。……ああ、この世にはやっぱり仏様がいらっしゃるんだねぇ。元貴の坊っちゃん、有難う御座います。」

私など一度はセナを見捨てようとした男だ。頭を下げられる覚えはなかった。その夜は爺様が私達と祖父を招いて、小さな宴を催してくれた。

もうすぐ冬になる。

早々に設置された炬燵の中で、私に引っ付いて離れないセナの小さな頭を撫でた。驚いて私を見上げたセナに、自然と笑みが漏れた。

苦しいような、傷に耐えかねるような、常より激しい泣き声が脳内で破裂せんばかりに溢れ返る。それでも頭を撫でる手を止められない程度には、情が沸いていたのだと思う。

必死に頭痛を遣り過ごす私の視界には、セナの表情は写らなかった。ただ子供の涙の匂いが鼻を衝いて仕方なかった。

他人が『身内』になることは、難しい。だが寄り添い合う努力を積み重ねたら、それに近いものにはなれるのかもしれない。

そんな幻想を抱いた。




私は近い将来元貴の家を継いで、僧侶になる。それは遠い昔に亡き父と交わした約束だった。

祖父はそれを知ってか、高校に上がった私に坊守(ぼうもり)の役割を与えた。

檀家との連絡や祖父のスケジュール調整、着物や袈裟の準備、週末に寺を訪れる訪問者との交流を私に一任していた。

海月(くらげ)さんと話すと、心のつかえがすうっと消えてゆくの。流石元貴の跡継ぎさんね。」

「ありがとう、不思議と少しだけ楽になったよ。本当にありがとう。」

私の上辺だけの言葉にも、僅かに癒しの力は宿る。感謝する訪問者の中に拭いきれない泣き声を見つけて、その度に己の未熟と下劣を嘆いた。泣いて吐いて、布団に蹲った。

祖父とは家庭内断絶状態にあった私の背中を撫で始めたのが、セナだった。雪が散らつく頃には、祖父が教えたのか、私の好物のカフェラテを持参するようになっていた。

漸く微笑むことを覚えたセナの精一杯の優しさが温かい。背中を擦る手の柔らかさが亡き父に似ているとさえ思った。

ところで元貴の寺には一匹の子鬼が住んでいる。名を『鬼丸(おにまる)』という。

元々は母が可愛がって名を与えたのだが、母の死と同時に私の部屋に転がり込んできた。赤い首輪をした茶虎の猫に見えるが、額に一本の角が可愛らしく生えている。

セナが来て初めて気付いたのだが、どうやらこの子鬼の存在は私と祖父にしか認識されないようだった。

悪さを繰り返す訳でもなく、良く懐いて私の部屋で自由気ままに過ごしていることが多い。自我も幼く、本能のままに生きる鬼丸に私は救われてきた。己の下劣を嘆く時、常に傍らに居てくれた存在だった。

しかしながら鬼丸とセナは折り合いが悪いらしく、セナが訪れると鬼丸は威嚇して何処ぞに逃げ去る。そしてセナの退出と同時に戻ると、私の布団に潜り込んで腕の中で丸くなった。

こうして奇妙な子供と子鬼に助けられて、私は忙殺の師走を駆け抜けた。




元旦の夕方、祖父に謝られた。

「……爺は海月(くらげ)に甘え過ぎていたの。すまなかった。」

何度も頭を下げられて、セナが不安な面持ちで私達を見上げていた。どうやら受験生に坊守を任せたことを、少々悔いているらしい。

「お兄ちゃん、何処かに行くの?」

「ああ。大学を受験するんだ。」

「お寺を出て行くの?」

「いいや、此処から通うよ。」

「………そう。」

それでもいつか、私はこの寺を出てゆく日がくるのかもしれない。

「セナはこれから、どうしたい?」

「………ずっとこの寺で暮らしたい。父さんと母さんと、御二人が許してくれるなら。」

「成程成程。」

うーんと腰を抑えた祖父が大きく伸びをした。

「儂からハヤルさんに話してみるかの。」

「御祖母様は優しいけど、遠くにいらっしゃるから。」

空木(うつぎ)ハヤルはセナの祖母で、生ける伝説と化した武道家の一人だ。祖父の知己とは伺っているが、彼女は早くに夫と別居している。

「……そうか、セナはハヤルさんを余り存じ上げないのだな。ならば此処は儂ら老骨に任せるといい。」

にやりと僧侶らしからぬ笑みを浮かべる祖父を見て、私は溜息を吐いた。




宵の帳が下り、空木(うつぎ)ハヤルが美しい紅色の道行と袴を纏って訪れた。

私は丁寧にもてなすと、祖父とセナの待つ仏間に案内した。ハヤルは道行を私に預け、挨拶を済ませる。仏門の恒例行事である。

「お久しぶりです、ハヤルさん。」

祖父は位の高い袈裟を掛けて、出迎える。セナの頬は喜びで上気していた。彼は今日、私のお下がりとなる元貴家の紋付き袴姿だ。

セナの胸元にある元貴家の紋を見つけ、ハヤルは柔和に微笑んで孫の頭を撫でた。

(はな)さんと海月(くらげ)さんに御礼言ったかしら、セナ?」

「……ハナ、さん?」

もしやと振り返ると、セナの後ろで罰が悪そうに笑う祖父がいた。

「爺のことじゃよ。元貴花笠(もときはながさ)……それが儂の本名じゃ。皆は法名で呼ぶからの。」

「まだ御自分の御名前を、恥じてらっしゃいますの?お変わりのない。」

「法名の方が好きなだけじゃよ!」

若者の様に憤慨する祖父が見られるのは、この日の特権である。砕けた祖父の物言いが、私は好きだった。

「私は一年で元旦が一番好きです。楽しいし…何より美月(みつき)に会えますから。」

仏間の天井近い梁に添うように、幾つかの遺影が飾られている。左から享年が古い順で、最後が私の祖母だ。父母が亡くなった数年後に、病死した。名を美月といい、大変慕われた坊守だった。ハヤルの親友でもあった。

「ハヤルさんが来てくれると、昔を思い出しますな。……美月、良かったの。」

「老け込むには早過ぎますよ。引退するつもりなんか、露ほどもありはしないくせに。」

「それはハヤルさんも同じじゃないですかの?相変わらず酷いお転婆だと、良く耳にしますがね。」

「貴方こそ相変わらずの人たらしだと有名ですよ。何もしなくても、檀家さんが離さないとか。……セナ、この生臭坊主には気を付けなさい。」

さて、そろそろ台所に戻らねば。

巻き込まれそうなセナに目配せすると、そろそろと小さな身体が寄ってきた。

「あの二人、仲悪いの?」

「いや、違うね。あれはいつもの仲良し漫才だよ。放っておくに限る。」

セナを伴って台所に下がると、二人で食事と酒の支度を整え、騒ぐ老骨には内緒でカフェラテとコーラで乾杯した。

「お兄ちゃん、案外悪い人。」

「私は元々、こんなもんだ。」

祖父のとっておきの蜂蜜を指で掬いながら瓶の口を向けると、セナも笑って指で掬った。

瞬間、家屋の明かりが全て消えた。

咄嗟に暗闇の中、隣のセナを抱えてテーブルの下に隠れる。災害の前触れかと、緊張が走る。

縁側からからりと窓が開けられる小さな音が転がり、廊下が僅かに軋み始めた。

何者かの接近。

混乱した頭で腕の中のセナを抱き締めようとした時、目の前の大きな瞳が苛烈な戦闘意志を放っていた。

唖然とした私の眼前で、蜂蜜を一口で舐め取ると「此処に居て。」と囁かれる。影の如く腕から消え、信じられない膂力で遮光カーテンを引き千切り、机下の私を覆い隠して走り去った。その小さな足音は全くの無音だった。

「うらあぁぁぁっ‼‼」

仏間から知らない男の叫び声が響いて、直後に襖が倒される音がする。

「ババアは引っ込んでろっ‼」

「しゃいぇぁっ‼」

ハヤルの鋭い気合が響き渡る。そうだ、あの方が居るなら祖父は大丈夫だろう。しかしセナは何処に……。

カーテンの向こうから、鬼丸(おにまる)の威嚇が小さく響いた。

「おい、黙って出て来い。」

いつの間にか、分厚いカーテンが豆腐の様に直線に切り裂かれていた。隙間から覆面マスクを被った二人の男の声と血走った四つの眼。

無音で刃物が走り、頬が一筋熱くなった。そのまま喉元に宛がわれる感覚に、呼吸が凍る。

「大人しく出て来い。解ったら一回頷け。」

こくりと頷く。カーテンは完全に切り裂かれ、余りの恐怖で震えながらゆっくりと机下から這い出た。

男達を見上げたその時、紅い眼光を走らせる小さな獣が闇の中、男達の背後を舞っていた。

ごきりと延髄付近の骨が折れる鈍い音が響き、傍らの男の首が背後に45度曲がってどさりと倒れる。動揺したもう一人が喉元に宛がったナイフを鋭く走らせ、私は小さく呻いて咄嗟に手で覆った。思い余ってナイフが私の指先を浅く削り、喉元を裂いた部位からも指からも、熱い血がぬるりと溢れる。

暗闇に慣れ始めた視界の中、獣は鼻をすんと鳴らし、燃え盛る感情を露わにして、台所に置かれた日本酒の瓶を真横に薙いだ。150センチにも満たない身長からの大太刀が、もう一人の覆面男の顔を薙ぎ、私の視界で酒と血飛沫が生臭く飛び散る。ぺちゃりと音を立てて、男の何処ぞかの肉片が舞い落ちた。声にならない咆哮が、台所を暴れ回った。

その中をのそりと私に近寄って傷を確認した途端、獣は生きている男の身体を確実に破壊し始めた。

逃げられないよう脛と腿の骨を猿臂で穿ち、未だ元気の余る両腕を立てた腿でへし折ろうとした時、空木ハヤルの声が静かに響き渡った。

「そこまで。」

ぴたりと獣の動きが止まり、覆面男はひゅーひゅーと呻きながら痙攣している。ハヤルからは清廉な闘志が放たれていた。

ハヤルが私に近寄り、傷の具合を確認する。

「そのまま強く押さえていなさい。傷は浅い。指先は喉に立てて。今、止血します。」

灰色の伊達襟を引き千切り細かく裂くと、私の指の付け根周辺を的確に、しかし喉の傷には響かないよう、ハヤルの細い指が小さく舞った。

若干乱れた着物の懐からスマホを取り出し、ハヤルは冷静に警察と救急車を呼んでいる。小さな獣はセナに戻り、泣きながら私の腰にしがみついてきた。振動で傷が痛む。

通報を終えたハヤルが、落ち着いた声で囁いた。

(はな)さんは無事です。空木(うつぎ)の者は夜目が効きますので、ご安心を。……セナ、離れなさい。傷が深くなる。」

即座に離れたセナを見据えて、ハヤルは声を荒げた。

「何故海月(くらげ)さんの元から離れたのか、説明なさい。……この未熟者がっ‼‼」

傷が深くなる恐怖から声が出せない私の傍で、セナが固まった。固まったまま視線だけが私の傷を見遣り、はらはらと涙が溢れた。

「お兄ちゃん、ごめんなさい。僕、僕……。」

「攻めることだけが闘いではありません。息子の教えも足りなかったのでしょう。……それでも守るべき方の傷で、己の未熟さを嘆くなど愚の極み。」

「……はい。」

「………ですから、貴方は息子夫婦の家でも元貴の寺でもなく、私の道場で修行なさい。私が貴方を完璧な武道家に育て上げましょう。約束します。」

弾けるようにハヤルを見上げたセナの表情は、赤子が親を求めるそれだった。セナが初めて他人を『身内』と判別した瞬間だった。

死体と咆哮と血肉が散乱した空間で、私は独り唇を噛んだ。肉体の痛みなど、気にもならなかった。

「お兄ちゃん、救急車着いたよっ!」

私はセナに慕われこそすれ、認められることは終ぞ無かったのだろう。




元貴の家に侵入した賊の話は、あっという間に広まった。

その中で武道家・空木(うつぎ)ハヤルとその幼い孫・空木(うつぎ)セナの一大活劇は、この街を大いに沸かせた。

セナに殺されたと思い込んでいた男は、首から下が麻痺した状態で懲役に服した。顔面を破壊された男は何とか片目だけの失明に留まり、警察病院で長い治療に専念している。退院後は彼も長い懲役に服す予定だ。ハヤルに相対した男は心神喪失状態で、治療後は専門の懲役に服する。

三人共、厳しい人生が待っているだろう。

祖父は都立病院で治療を受ける私の傍で、その後の話を吶々と語り始めた。

ハヤルとセナの活躍は、セナの祖父や両親を説得するに至り、事情聴取を受けた後にセナはハヤルの元に落ち着いた。父親や祖父は祖母には逆らえず、母親は不気味なものでも見るかの如く、極端にセナを避けながら変わらず悪態を吐いた。

感情を殺して語る祖父が、セナの未来を案じたのか、セナの消えた寺を憂いたのかは解らない。

それでも毎日病院に駆けつけて、私の床に顔を突っ伏す姿を見て、私も初めて祖父を『身内』と判別したのかもしれない。

傷が完全に癒えぬまま、大学受験を無事にクリアし、私は正式に祖父の弟子となった。四月から、大学の文教学科に通う日々が始まる。大学で学問を終えた後は、祖父も修行した総本山で修行を積み、やがて得度し、晴れて僧侶となるのだろう。

父母を亡くした後、嵐の様だった年月を思うと、この忌まわしい癒しの力の使い方もマシになるのではないかと思えた。

時折床屋で出会っていたセナとハヤルは、或る日突然海外へと旅立った。挨拶も碌に出来なかった無礼を詫びる手紙が寺に届いて、祖父は「塞翁が馬。」と呟いた。

「元気なら、それで充分ですよ。」

床屋の爺様の更にかすれた声が、寂しげにセナを語った。

そして数年が経った。

何故か私は、祖父の勧めもあって、新宿で探偵業をこなしていた。

法名を得た後も、年々強まる癒しの力はマシになるどころか、じわじわと私の首を絞めていた。

「海月の力は既に人外の域に達しておる。毒を吐くことのみが、お主を守るのは理解しておるよ。だがのう……強過ぎる力を寺で持て余すのも、海月の中の神霊に背く行為じゃろうて。この先は悩み苦しみ自力で立ち上がることも出来なくなった人々を救う時のみ、その力を解放するが良い。」

祖父は檀家から譲り受けた新宿高層ビルの一室を私に生前贈与し、そこで修行に励むよう試練を下した。

まさかの新宿、まさかの阿鼻叫喚。

私は毎日毒を吐き、浴びるようにカフェラテを飲んだ。

波旬(はじゅん)さま。」

新宿に移ってから急激に成長し始めた鬼丸(おにまる)が、時折私を母の如く呼ぶ。

母の言葉は半分正しく、恐らく祖父も薄々気付いていただろう。

私の言葉は癒しではなく、天魔(てんま)の誘惑に過ぎなかった。苦しむ人間の魂と記憶に潜り込み、最も誘惑せしめる言葉を選んで、成長の糧となるだろう障害から人々を逃がしてやる。

そんな私の言動を、人々は『癒し』だと称した。

苦しみは既に『成長の糧』等ではなく、人間を死に至らしめる猛毒と化していた。天魔(てんま)を有り難がるとは、皮肉な御時世だ。

救いを求め続ける数多の泣き声は、常に私を苛んだ。




その日は祖父からの依頼人だった。

約束した時間までに、コンビニで買った牛乳とインスタント・コーヒーを使い、乱暴にカフェラテを作っていた。

鬼丸(おにまる)は愛車のロータス・エキシージで都内を駆け回っている。

控えめなノックに気怠く返事をすると、制服姿の凛々しい少年が飛び込んできた。

「お兄ちゃん、僕です。……お久しぶりです。」

『おにいちゃん』等と気軽に呼んでくれるな、少年。随分昔に出逢った子供を思い出す。

「貴方が祖父から頼まれた依頼人ですかね?」

「はい、ご無沙汰しております。空木背無(うつぎせな)です。」

空木(うつぎ)…………背無(せな)

昔の傷が開きかける。

「お願いがあります。僕を此処に住まわせて下さい。」

………セナ。平和に暮らしていた筈じゃなかったのか。何故また、私の前に現れた?

「あー、駄目じゃないですか。こんなインスタントなんか使って。牛乳もレンチンだし。こんなの不味いに決まってますよ。」

別にカフェラテのレベルになんか、拘っていない。飲めればいいんだ、飲めれば。

「ハヤル御祖母様と数年イタリアに行ってきました。なんでも瀕死の愛弟子に突然乞われたそうで。僕は学生しながら稽古つけてもらって、夜はバールで働いていました。ちゃんと強くなって帰ってきましたよ。」

「そんな事はどうでもいい。何故、私を訪れた?」

再びノックが鳴って、配送業者が社名を叫ぶ。

セナが扉を開けると、大仰なマシンが4人がかりで運び込まれてくる。後ろにも珍妙な装置を抱えた男が数名。

「じゃあ、換気扇の下にエスプレッソマシンを。ミルは隣で、それ以外は此処と其処に。……あー、電子レンジは処分して下さい。」

「だ、駄目だっ!勝手なことをするな、クソガキっ‼」

細い二の腕を掴むと、途端に少年の顔が幼子に戻った。

反射的に私は「すまない。」と謝ってしまった。言葉の棘は薄く、深くなった眉間の皺が僅かに戻って、この子供に甘い自分に舌打ちした。

少年は頬を上気させ、途端に涙を溢れさす。相変わらずの激しい泣き声に、頭痛がきんと走った。

「……お兄ちゃん。」

うーっと呻いて、セナは私の胸で泣き始めた。配送業者は淡々と仕事を進め、最後に了解とサインを貰いに来た。セナは片手間に済ませて、泣きじゃくる。

「あざーしたっ‼」

配送業者が退出してゆく。鼻を啜りながらバイバイと手を振って、セナは私に向き直った。

「今日からお世話になります、空木背無(うつぎせな)です。特技は武道と本場イタリア仕込みのエスプレッソを淹れること。カフェラテ、カプチーノ、アメリカーノ……何でもござれ!ミルクのスチームは師匠のお墨付きです。『とっておき』の豆はフィリピン産カペ・アラミド。」

「……お前、今何歳だ?」

「15歳です。明日から東新宿の高校に入学予定です。」

ああ、そういえば季節の感覚なんて失って久しいな。窓外を見下ろせば、桜並木が道路を縁取っている。道行く人々は幸せそうに笑っていた。

「これは元貴のお爺様からの進呈品です。どうぞお納め下さい。」

風呂敷の中には、赤と緑の箱で有名な最高級マヌカハニー。

「学費や生活費はハヤル御祖母様が大学まで出して下さるそうです。お兄ちゃんが随分危険な仕事に就かれていると伺い、居ても立ってもいられず事務所に来ました。見習いで充分です。どうか僕を雇って下さい。………必ずお役に立って見せます。」

紅い眼光が、鋭く走った。それだけで覚悟の程が解る自分に、再度舌打ちする。

他人が『身内』になることは、難しい。だが寄り添い合う努力を積み重ねたら、それに近いものにはなれるのかもしれない。

それを幻想で終わらせるか否かは、いつだって自分次第なのだろう。

肺の奥底から疲労を吐き出して、私は応えた。

「二度と『おにいちゃん』等と呼ぶな。私も君を『セナ』とは呼ばん。それから明日一緒に床屋に行くぞ。……これが条件だ。どうする、空木(うつぎ)?」

「望むところです、海月(くらげ)さん。」

幸せそうに微笑む少年は、そうして私の『身内』に近しい存在となった。

珍しく緩んだ口元を、私は慌てて片手で覆い隠した。











御感想など戴けますと、嬉しいです!勉強になります<(_ _)>

第一弾『毒舌探偵は新宿が嫌い』はこちら➡ https://ncode.syosetu.com/n8538fa/

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