(8)後悔
心地よい夜風に身を委ね、ユリアナは古城の庭園を散策していた。
ポルトカリウ城の敷地内に複数ある、小規模な植物園――そのうちのひとつに設置された、小さな薔薇園だった。夜明けごろまで続くオークションの喧騒は遠く、巡回する警備兵の足音が時折聞こえる以外に人気は感じられない。
趣向を凝らした電飾によって煌びやかに彩られた庭は、近距離であればはっきりと互いの顔を視認できる程度には明るい。たとえ遠くからでも、銃の照準を合わせることは用意だろう――
「あら、この薔薇……」
美しく整えられた庭園のあちこちで、夏咲きの薔薇が頭をもたげている。世界から集められた薔薇のひとつに目を留め、ユリアナは足を止める。
「クイーンズランド産だわ。最近の品種で、名前は《アナマリア・ジェーン》ですって。とてもきれいだわ」
薔薇の株に添えられたキャプションを読み上げるが、背後の青年から反応はない。
ユリアナは溜息をついた。
夏咲きの〝アナマリア〟は複色の薔薇で、紅と淡いオレンジが混ざり合った色をしている。小ぶりでかわいらしい薔薇の頭を掬いあげ、「棘のない品種なのね」とつぶやく。
「アナマリアって、たしか先代女王の――……もう、クラエス。いつまでいじけているのよ」
振り返って、嘆息とともにそうこぼす。視線の先に佇むのは、つい先ほどまで《商品》にされていた男だ。
関係者から服を借りたので、今は裸同然でなく、いたって普通の格好をしている。しかしその表情は浮かないを通り越し、深い憂いを帯びているのだった。
「……いじけているわけでは。ただ、自分が情けなくて……」
俯きがちに、覇気のない声が響く。「しゃっきりしなさいよ」と肩を竦め、「燭台にされなくてよかったじゃない」と続けた。
クラエスを思っての言葉だったが、傷口に塩を塗り込んでしまったらしい。青い顔をした青年を前に、ユリアナは慌てて話題を切り替えた。
「それより、本当に誰だったか覚えていないの? 迷路園であなたを昏倒させた相手のこと」
「後ろから殴られたので……。銃声音が聞こえたあと、レーザー光が見えて――近距離に敵がいるのは明白だったので、考えるよりも早く動いていました」
「ふうん。おびき出されちゃったのね。でも実害がなかったのが不思議だわ。あなたもオークションで売られただけだったじゃない? ふつう、始末するでしょ」
「今もこうして外にいるけど、危険が迫っているわけでもないでしょう?」とユリアナがつけ加えると、クラエスもうなずく。
決して何の目的もなしに、会場を出て庭をぶらついていた訳ではない。「君を狙う者がいる」――バラドの言葉の真意を確かめるため、あえて人気のない場所を選んで散歩をしている。本当にユリアナに危害を与えたい人物がいるとすれば、オークションで人目のない今が絶好のチャンスに違いないからだ。
「ええ、まあ……。尾行されているわけでも、待ち伏せされているわけでもない。まだまだ油断は禁物ですが、一方で奇妙ではありますね。まあ私のプライドはズタズタになったので、実害がないというのも――」
「ま、それはいいわ。いい加減部屋に戻るわよ」
一連の事象について、ユリアナはひとつの仮説を立てていた。
――鍵を握るのはこの場にいない人物だ。そして現在進行形で、自分たちは彼の手のひらで転がされている。
意気消沈とした様子のクラエスを連れ、ユリアナは主塔に用意された宿泊部屋に戻った。
後ろ手に扉を閉める。カードを滑らせると、問題なく施錠された。
その場からは動かず、しばらく思案するように俯いた少女は、突然頤を上げ――「よくよく考えたのだけれど」と真剣な顔つきをして言い放った。
「この城で起きていることは見逃せないわ。もともと、曰くつきではあったけれども、明らかに人道を逸したことが行われているもの。ルスランの遺作が入手できることに目が眩んでいたけれど――たとえ《商品》が人間じゃなくても、ここで流通しているのは正規のルートを外れたものよ。本来利益を享受すべき人が享受できていないとう点でも問題だわ」
一息に言い、だから、とユリアナは結論を口にする。
「――ぶち壊すわ」
クラエスはぱちぱちと淡青色の目を瞬いた。ユリアナの宣言に面を食らったようだった。
彼は逡巡するように視線をさまよわせた。そして渋い顔をすると、ユリアナに対してゆっくりと首を横に振ってみせたのだった。
「何を言い出すのかと思えば……。わざわざ危険に頭を突っ込みに行く馬鹿がどこにいるんですか。ああ、すみません。ここにいましたね」
「バカじゃないわ。見過ごせないの」
「――ユリアナ」
低い声で呼ばれ、ユリアナは顔を顰めた。
クラエスは無言で膝を折り、少女の擦り傷の残る腕を掴んだ。「貴方の気持ちは十分わかります」――宥める声が続く。
「貴方がルスラン・カドィロフの遺作を欲しがっていたことも同じく。私のせいで、手に入れることができなくなってしまって、心から申し訳なく思っています」
「お金のことなら、使うべきタイミングで使っただけよ。あなたが気にすることなんて何もないわ。……まさか二回もあなたを買うことになるとは予想もしていなかったけど」
クラエスは目を細めた。
「……貴方のそういうところを、私はとても好ましく思います。でも……今回のところは、このまま帰りましょう。
今の貴方は感情だけが先走って、状況をよく理解していないようにみえる。貴方ひとりでは、この問題は解決できないでしょう。仮に今回のオークションをどうにかしたところで、根本にあるのは属領に対する搾取構造だ。帝国がその構造を保つかぎりは、同じことは何度でも起きるし、繰り返される」
クラエスの言葉は的確で、鋭い矛先となってユリアナの胸を穿った。
属領の文化財が流出するのも、人身売買が横行するのも――《彼ら》が弱者だからだ。文化にしろ、人間個人にしろ、守るべき体制や力がないものは、狡猾な強者に搾取される。それには帝国の同一化政策と異常なまでの選民思想もすくなからず影響している。――帝国文化、帝国人以外は劣等種であり、排除されるべき対象であるという考えだ。
ある意味で、ファランドールもそのシステムに則ったものだと言っていい。遺失技術を独占し、家が供給する安価な武器は各地での争いを過熱させる。選抜試験も、ファランドールの名のもとに属領人を保護するといえば聞こえがいいが、実際は安価で優秀な労働力を使い倒すための仕組み同然だ。皇帝直属軍の兵士たちと本質的に変わらない。
――わかっている。ちゃんと、理解しているのだ。
ユリアナは爪が食い込むほど拳を握りしめた。返す言葉がなかった。
「――今の貴方は無力だ。できることは何もない」
あえてクラエスが厳しい物言いをしているのだと、頭の片隅ではわかっていた。
しかしユリアナは頭を左右に振ると、「でも」と声を張り上げた。
「いや、いやよ、クラエス。私、ちゃんと分かってるわ! あなたに言われなくたって、誰よりも無力なのは知ってるわ!」
「何も分かっていないでしょう! 今の貴方はただ無謀なだけだ! そうやって危険に身を晒して、今度は体のどこを失いたいんですか!?」
クラエスの言葉に、ユリアナは息を呑んだ。しかし怯まず、目の前の青年を睨みつけた。
「――どこを失ったってかまわないわ。私はずっとそう思ってる。どうでもいいもの。親から授かった大切な体だなんて思わない。私の体は私のものだし、何よりもつらいのは肉体の痛みじゃなくて、理不尽な暴力を前に、自分の信念を貫けないことよ」
一言一言を噛みしめるように囁く。
ユリアナは早鐘を打つ心臓を押さえつけ、前のめりになって続けた。
「あなたに言われなくたって、わかっている。でも、嫌なの。一歩間違えれば、今頃私だって売り物にされて、ボロ雑巾みたいに使い捨てられてたかもしれない。その前に紛争で死んでいたかもしれない。私が今ここにいるのは、私自身の力じゃなくて、運が良かっただけ。ウルヤナが私を拾って、バラドが私を育ててくれたから」
もちろん自分で選び取った道であるとユリアナは自負しているが、それは恵まれた環境にいて、選択肢を持つという幸運があったから。
――クラエスは皇帝直属軍に入るしかなく、バラドはずっと育て親の駒にされる生活だった。禍福はそれを受け取る本人にとって相対的なものでないにしても――彼らの置かれた状況は、明らかに彼らの人生を他者がコントロールし、疎外した結果に違いない。たとえ本人が受け入れていようとも、だ。
「確かに、生まれや育ちで制限されてしまうことって、たくさんあると思うの。でも、それとは全然違う話だわ。私は義足がないと歩けないけれど、それで自分が損なわれていると思ったことはない。でも誰かが同じ状況になったとき、同じように感じるとは絶対に思わないわ。
誰もが搾取や暴力に耐えられたり、乗り越えられるわけじゃない。あるいはもっと悲惨な状況に陥って、あっけなく死んでしまうかもしれない」
――だから、とユリアナは小さな声で囁いた。
項垂れ、深呼吸をする。唇が震える。
手袋越しに、クラエスの体温を感じる。
「そう、怖いんだわ……。みんな怯えた目をしていて、自分の身に起こることへの恐怖心をかき立てられて……でも、私は無力で……私は、誰も助けられないんだって……そう思うと……。……今の私が、甘えているのはわかってるのよ……」
脳裡を過ぎったのは、自身の後見人――バラドのことだ。
「バラドだってそう。私は私にとって都合のいい論理を押しつけて、あのひとを生かしたかっただけなの。ほんとうは、あのひとが私と一緒に死にたがっていることを知って、その気持ちをおざなりにしたの。あのひとは誰よりも私に共感してほしくて、私に慰めてほしかったのを分かっていたのに。……また逃げるのだと思うと、つらくてしょうがないの」
ユリアナの震える手を握りしめ、そうですか、とクラエスはうなずく。
「貴方はバラドのことを理解したくて、ルスランの遺作を手に入れようとしたんですね」
「――そうよ」
「……私も嫉妬しないわけじゃないんですが、それはひとまず置いておきましょう。貴方の熱意は十分理解しました。せめて人身売買だけでも叩くことはできないかと、実現可能なプランについて考えてみましたが――やはり帰りましょう。もともと非合法の催しですし、下手に通報すれば社交界の怨みを買う」
「何よ。泣くだけ泣いて損したわ」
「そうは言っても、武器も何も無いのでは――」クラエスの言葉に勢いよく顔を上げると、ユリアナは首を振った。
「武器ならあるわ」
「全部取り上げられたでしょう」
ユリアナは無言で高い位置にある飾り棚を指差した。
――その上には、クラエスに取り上げられた化粧箱があった。




