(18)めざめ
――クラエスは走っていた。
風が吹きすさび、黄色い砂煙が立つ。それに入り混じって黒い粒子が舞いあがると、あたりは黒い靄に覆われ、彼の視界を容赦なく遮った。
クラエスは巨大な穴の周縁を走っていた。非常用通路を使って脱出したそのときに、遺構の東側ブロックが壊滅し――地上に出てその惨禍の結果を確かめたとき、そこにはもはや何も残ってはいなかった。虫が葉を食い散らかした後のように、東側ブロックが位置していたはずの場所はがらんどうの空洞だけが残っていた。そして地震の衝撃で引火した燃料タンクの火だけが、ごうごうと渦巻いていたのだった。
「――ユリアナ」
その炎を前に――巨大な穴を前にして、クラエスは恐怖に駆られた。
再会を約束した少女が、あの場所にいるはずなのだ。
居てもたってもいられず、クラエスは飛び出した。
炎の勢いは弱まり、既に鎮火しつつある。それにともない、あたりの見渡しもよくなっていた。彼は穴の周辺をさまよい、あるいは穴の中を覗きこんでは、何度となく、少女の名前を呼び続けた。
「ユリアナ、……ユリアナ!」
――やはり、あのとき別れなければよかったのか。
クラエスの心に生まれた後悔は、なかなか消え去ろうとはしない。
煙にむせかえりながら、彼は歯噛みをした。別れ際の少女の姿を、幾度となく反芻していた。抱き締めた体は震えていて、すがりつくように伸ばされた腕は、ほんとうは怖くてたまらないとと訴えかけているようだった。それでも、彼女はみずから身を離し、自分に背を向けた。そして「行って」とつぶやいた。
それが彼女の選択で、歩むと決めた道なのだと思った。
彼女の姿勢をまぶしく思ったし、それを尊重することだけが、自分にできる唯一のことだと思った。彼女はまだ庇護下にあるべき年代の子どもで、時として無力で、騙されやすくて、生意気だが根はお人よしだ。正直、クラエスはけっこう頼りなく感じている。それでも少女は精いっぱい生きている。挫折しても、手酷く傷つけられても、拳を握りしめて何度となく立ち上がる勇気がある。
その姿を、クラエスは何よりも大切に思っていた。
――しかし自分の判断が正しかったのか、自信を持てなかった。
そのときだった。
風がやみ、視界がひらけた。そして視界の隅にあるものを捉えた――黒い外套に包まれた、少女の姿だった。
「……っ」
言葉もなく駆け寄り、地面に横たえられた体を抱き起こす。
そのあまりの軽さに愕然とし――あわてて首筋に手を当て、まだ息をしていることに安堵をした。それも束の間。彼女は予断を許さない状況だった。
まず、左足が無かった。電気メスの代わりか、傷口を火薬で焼いて処置した形跡がある。その先には少女の体格に見合わない長さの義足が繋がっていた。
意識はなくぐったりとしていて、肌はいつも以上に青白い。呼吸も細い。見慣れた黒髪は首筋で焦げてなくなり――背中には熱傷があった。おそらくは先ほどの炎に襲われたものだろう。
クラエスは彼女を抱き上げた。
ここではないどこかに連れて行かなければ。適切な医療処置を受けられる場所に。しかしここは山の上で、近隣都市のステパナケルトは廃墟だ。医者を探しているうちに、この命は絶えてしまうかもしれない。
――どうすればいい?
からだを包む皇帝直属軍の外套ごと、少女をそっと抱き締めて、クラエスは途方に暮れた。……そして自分の顔を覗き込もうとする第三者の存在に、ワンテンポ遅れて気が付いた。
「――お困りのようだね」
白い襯衣の裾を風にはためかせ、黒髪の少女が笑った。
クラエスは少女を守るように抱え、距離を取ろうと、一歩後ずさった。
「そんなに警戒しないでよ。助けてあげようって言ってるのさ」
「……お前は、」
――たしか、陳桑雨という名前だったか。何度か見えたことはあるものの、敵対勢力に属する少女であったはずだ。
警戒心をあらわにして睨みつけるクラエスを前に、彼女は片目を瞑ってみせた。
「僕の目的は果たされた。これはちょっとした慈善事業さ。まあ、あとできっちり代金はファランドール家に請求させてもらうけどね――ほら、グズグズしていると、死ぬよ? その子」
「貴方に何ができるというんだ」
「ふふ、こう見えて何でもできるんだよね。――西側のブロックはまだ生きている。そっちの処置室に運ぶよ、最低限の設備はあるはずだ。僕が手当てをしている間に、きみはファランドール家に連絡を取るんだ。近郊の病院はどこも搬送用の足を持ってない。だからお家にかけ合って輸送用ヘリを出させるんだ」
果たして信頼に値するのか。クラエスは不安を抱いたが――じっと少女を観察する翡翠色の目は、その飄々とした態度とはかけ離れて、真摯な色を帯びていた。
「……一〇年前に僕の兄さんが救った命だ。見捨ててはおけないよ」
――小さな声で、桑雨はつぶやいた。
そしてクラエスは腹を決めた。一度うなずくと、少女の体を抱え直す。そして桑雨に指示されたとおり、西側ブロックの処置室を目指した。
地下施設に入り、その天井の低い廊下を走っているとき――ふいに、桑雨が思いだしたように言った。
「そうか、ユリアナはアラクセス人だったね。やっかいだ。血液型によっては、輸血ができないかも」
「――どういうことですか?」
「アラクセス人はA型のRHマイナスが多いんだ。病院にはあるだろうけど、ここにはストックがないかもしれない……たまたま別の血液型という可能性もあるし、やれるだけはやるけど……」
ぶつぶつとつぶやいたかと思えば、ふと何かに気が付いたように、桑雨が駆け出した。不審に思ったクラエスがそれを追えば、廊下の曲がり角で彼女は立ち止まった。振り返って、悪戯っぽく目をすがめてみせた。
「――みてよ、アラクセス人の大盤振る舞いだ。こんなおかしなことってある?」
笑いをかみ殺しながら、桑雨は言った。――曲がり角の先、処置室の扉の前には、気絶した《難民解放戦線》の構成員が積み上がっていた。一瞬、緊迫した状況を忘れて――ぽかんと口を開いたクラエスに、桑雨はついに吹き出した。
「馬鹿みたい。ほんとうにあの男は馬鹿だなあ」
「いったい誰が……」
「さあ、妖精のたぐいじゃない? まっ、これだけいれば適合する血液型もいるでしょ。手間が省けたよ。
――さあ、クラエス。部屋に入って。その子をベッドに横たえるんだ」
――妖精か、とクラエスは口のなかでつぶやいた。妖精だろうが何だろうが、今はそれに感謝するしかない。
桑雨が開いた扉のむこうへと足を踏み入れ、目についた処置台に少女のからだをそっと横たえる。泥と血の絡んだ黒髪を撫で――一瞬、片目をすがめた。
すぐに手を離すと、桑雨を振り返り、頼みます、と頭を下げた。そして通信機を探すべく、外の廊下へと出て行った。
◆ ◆ ◆
誰かが立っている。扉の前で、私を待っている。
「――ウルヤナ?」
呆然と立ち尽くして、彼の名前を呼んだ。するとウルヤナは両腕を広げて、にこりと笑った。
「ウルヤナ、待って。私――」
彼のもとに駆け寄りたいのに、両足が動かなかった。――そうだった。もう無いものなのだ。
必死になって腕を伸ばし、声を張り上げた。
「私、あなたに伝えたいことがたくさんあるの。だからまだ行かないで、ウルヤナ。――ウルヤナ!」
ウルヤナは困ったように肩をすくめて、「大丈夫さ、アンナ」と、懐かしい声を響かせた。
「君が選んだのは苦難と絶望の道だ。でも、不安に思うことはない。君であれば、ちゃんと歩いていける。それに、絶望の最後には希望がつきものだ。
――僕は道の果てで待っているよ」
踵を返し、背を向ける。私はなおも彼を呼んだが、けっして振り返ることはなく、片手をひらひらと振ってみせただけだった。「心配することはない」とでも言いたげに。
ウルヤナが扉を開く。そしてその先にむかって足を踏み出す。
私はその背を目に焼きつけた。
眼球の奥が熱くなり、涙がこぼれ落ちる。私はスカートの裾を握りしめながら、彼の姿が消えるまで、ずっと――。
「……ユリアナ?」
意識が浮上した。と同時に、ハンカチらしきもので目もとをぬぐわれ――ぱちりと目を開けた私は、驚いて、目の前にあったクラエスの顔に頭をぶつけた。
「――っ」
「クラエス?」
「……の、石頭……!」
鼻頭を押さえて、クラエスが悶絶する。ぱちぱちと目を瞬きながら、私は体を起こそうとして――失敗した。おぼえのある痛みだった。背中でも火傷したのだろうか。
かすかな機械音とともに、体の下で砂が流れるのを感じる。熱傷患者にはこういうエアーベッドを使うと聞いたことがあるから、たぶん、その推測ははずれていないはずだ。
「……ここはどこ? 今はどういう状況なの?」
「属領アラクセス――イェレヴァンの私立病院です。遺構第二〇二から緊急搬送されてから三日ほど。その間、貴方はずっと寝こけていたというわけです」
突拍子もなく私が目を覚ましたせいだろう――クラエスはやれやれといった調子で答えた。たぶん、彼はもっとロマンチックな展開を期待していたはずだけど。残念ながら相手は私なのだ。再会の余韻を味わう隙も与えられなかったというわけだ。
「……ふうん」
なんだか現実感がない。消毒液の匂いがしみついた殺風景な部屋、エアーベッドに寝かされた自分、椅子に腰かけて、私を見守るクラエス。窓のむこうからは小鳥の鳴き声が響いていて、やさしい木漏れ日が溢れていた。
呆然とする私に気が付いたのか、クラエスは悪戯っぽく微笑んだ。そっと、ベッドの腕に投げ出された私の右手を握りしめた。
「遺構第二〇二は事実上の機能停止。今は所有者のファランドール家が後始末に追われていますよ。近々、貴方のお父さまが見舞いがてら小言をこぼしくるかと思います」
「そう……。全部、終わったのね……」
――あっけないものだ。思い返してみれば、記憶は曖昧で、もう細部は思い出せそうにない。それくらい、必死だった。
全身から力を抜くと、強い疲労感を覚えた。私はベッドに身を沈ませながら、クラエスの手を握り返した。そして、問いかけた。
「……バラドは、どこに?」
クラエスは淡青色の目をすがめた。逡巡するように視線をさまよわせたかと思うと、意を決して私の顔を覗きこみ、額にかかった前髪をかきあげてくれる。
「どこにもいませんでした。あの後、遺構の捜索が行われましたが――見つかったのは、《難民解放戦線》のリーダーの遺体だけ。バラドは影も形もありません。まあ見つかったところで、拘束は免れ得ませんね。彼は重罪人だ」
「――そうなのね。ありがとう、教えてくれて」
クラエスから視線を外し、天井を見上げた。
白い天井には、木漏れ日がまだら模様に光を映していた。
しばらく無言でその光を眺めた。
私は複数の医療用チューブに繋がれていた。下半身は布に覆われており、確かめることもできなかったが、そこにはもう何もないことを知っている。一度は装着したはずの《黒鳥》も、処置のためか、機密の問題か――今は外されているようだ。たぶん、一生私のもとに戻ってくることはないだろう。
けれどもふしぎと、私は自分が損なわれてしまったとは思わなかった。
両足を無くしたことが、私のこれからの人生に対する代償だとも思わない。ただ、こうなってしまっただけなのだ。両足を無くしても、私の人生は続いていく。それだけの話だ。たとえ生身の足がなくとも、その先を歩いていける確信がある。
「ねえ、クラエス」
何ですか? とクラエスが首を傾げた。
私は「水が飲みたいわ」と言った。彼はうなずき、サイドテーブルから水の入ったグラスを取った。
上体を起こしてもらうと、クラエスが口もとにグラスを寄せてくれた。その行動に、「これじゃ嫌よ」と唇をとがらせる。
「はあ? ワガママ娘ですね。何が気に食わないんですか」
「前みたいにしてくれないと嫌よ」
「前みたいにって――」
あなたが私をズタ袋同然に扱っていたとき、と答えれば、クラエスは青い顔をして――それから耳まで赤く染めて、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「病人相手にはできませんよ、今は‥…」
「ふうん。じゃあ今はこれで我慢してあげるわ」
意気地なし、となじれば、クラエスはフンと鼻を鳴らした。傾けてもらったグラスから水をもらうと、口の中を湿らせる。
その様子を、クラエスはどこかハラハラとしたようすで見守っている。心配性だ。
十分に水を飲むと、私はふたたびベッドに横たえられた。「いい加減医者を呼んできますね」とそう言って腰を上げた彼の服の裾を掴む。
そして微笑みかけた。
「……私、ちゃんと帰ってきたわ」
やわらかな光が射すなか、クラエスの白金色の髪がきらきらと輝いている。
そのまぶしさに目を細める。
てっきり笑い返してもらえるのかと思ったが――ふいに彼はうなだれ、唇を噛みしめた。そしてコクリと小さくうなずき返した。
私の顔を覗き込んだ淡青色の瞳は、苦しそうに細められていた。
「ずっと、待っていた」と、震えた声が響く。そして優しい手つきで再度私の前髪をかきあげると、そっと、額にキスを贈ってくれた。




