―追想Ⅱ―
――もっとも古い記憶は、雪をかぶる尾根を見上げているときのもの。
自分を拾った男の背を視界の片隅に置き、バラドは凍りついた山の尾根を見上げていた。そうするように養い親が言ったからだった。
みわたす限りの雪景色のなか、曠野にそびえ立つふたつの山。
「――聖山アララト」
アラムが呟いた。大きさの異なるふたつの山を指差して、あれが大アララト、あれが小アララト、と言葉少なに説明をする。
「アラクセス人が還るべき場所だ。われわれアラクセス人は離散し、世界のあちこちで暮らしているが、すべての根源はあの山にあるといっても過言じゃない。われわれがアラクセス=カラバフを取り戻すとはすなわち、あの山の麓に還るときのことだ」
アラムのまとう防寒用外套の裾が揺れる。小高い丘を吹き荒れる風に心もとなさを覚えて、ふいに、バラドはその裾を掴もうとした。
しかし小さな手は虚空を切るだけで、外套にはたどり着けない。
踵を返して歩き出した男の背をふりかえって、バラドは問いかけた。「そうしたら、ぼくはどこに帰るの?」と。
アラクセス人ではない自分は、彼らが《帰還》するとき、どこへ行くのだろう。年の割に利発な少年の質問に、アラムはふりかえることさえなかった。
そして、普段どおりの冷たい声で言い放つ。
「――お前はただ、俺の言うことを聞いていればいい」
そうすれば、いつかはアララト山への道が拓かれるかもしれない。お前にも――荒れ狂う風のなか、アラムの声はほとんどかき消されてしまいそうだった。
雪煙のなかに吸い込まれてゆく男の背を追いかけて、バラドは走った。雪に足を取られないように、男の残した足跡を踏んで。丘を駈け下りて、その先でまたアラムの姿を探す。見当たらず、途方に暮れる――そこで記憶が途切れる。ひどく寒かったことだけを、感覚として頭の片隅に残して。
◆
【十年前】
属領アラクセス・カラバフ――副王領府所在都市ステパナケルト
バラドは床に転がされた状態で呻いていた。寒さが骨身に染みるような夜で、軍用倉庫の地面には薄く氷が張っていた。
――遺構関連の文書を探すつもりで、軍用倉庫に忍び込んだ。親しみを演出することに慣れた彼を門番は気やすく迎え入れたが――その矢先、背後から襲撃を受け、このような有様になっていた。
「――薄汚い野良犬」
革靴の底で頭を踏まれた。ほぼ同時に降ってきたのは、涼やかな女の声――地に臥した彼が睨んだ視線の先に、もつれながら肩を流れる赤毛があった。
きっちりとした軍装に身を包んだその女は、まだ二〇代そこそこだろう、ひどく若い面差しをしていた。
「まったく――こそこそ嗅ぎまわっているな、バラド。お前がアラクセス独立派の人間であることは知っている。泳がされていたんだとこれで理解したか? ――それくらい、お前がファランドール家で得た《義肢》の技術と知識は、他には代えがたいものだったんだよ」
「……エレノア・ハクスリー」
――数年前、自分を迎えにやってきた数人の軍人のなかに、士官したばかりの彼女が混ざっていたことを思い返す。苛烈な赤色の髪をした、《女王》の系譜を継ぐ女だ。
「俺を殺すのか?」
「まさか」
そうだろうな、とバラドは内心うなずいた。
《アラクセス独立派》の人間として、バラドは二〇年あまりの人生を過ごしてきた。ファランドール家に入ったのは、バラドの頭脳を見込んだ養い親のアラムが命じたから。内紛の要因のひとつでもある遺構第二〇二を奪取するためには、かの家の『知識』が必要だというのが彼の言い分だった。
目的はふたつ。遺構第二〇二の鍵となる義足――白鳥の内部構造を識るため。そしてもうひとつは、《設計図》の在処を探るためだ。
ある特殊な槍を地上にむかって投擲する軍事衛星は、それが目的地に達したとき、宇宙由来の微生物を飛散させる。常に冬眠状態にあるそれらは、槍が地上に達する際の莫大なエネルギーを食らってはじめて活動状態に至る――彼らは根付いた土地を汚染し、むこう一〇年は人が足を踏み入れられない場所にする。
それが終わるころ、彼らはひとつのコロニーを築く。その《コロニー》こそが、ルスラン・カドィロフの描いた舞台の最終形だ――彼はそのものには名をつけず、ファランドール家の文書では、帝国の魔精の伝承にのっとって〝ドヴッジャイラ〟と呼ばれた。《設計図》とは、そのドヴッジャイラを制御する機構――黒鳥の設計図を意味している。
数年間でバラドが得られた知識は少なかった。それでも《義肢》の分野では才覚を発揮し、まずまずの収穫があった。そこに目をつけたのが皇帝直属軍だった。専用の科学機関をもたない彼らには、遺構第二〇二の解析に有用な技術工が必要だったのだ。
バラドは迷うことなくその組織に身を投じた。属領出身の自分では、ファランドール家で得られる知識にも限りがあった。
ならば場所を、視点を変えるほかないと思った。
――すべてはアラクセス独立のために、と自分に言い聞かせて。
「――そう、俺には利用価値がある。お前は俺を殺さないだろう。俺に何をさせる?」
「話が早いと助かるよ」
足を離したと思えば、靴の先でバラドのおとがいを上げる。視界に、青い目をすがめて酷薄に笑う女の顔が映った。
「単純だよ。お前はただ、お前が信じてきたものをあざむけばいい」
「……二重スパイというわけか」
「ああそうだ。アラクセス独立派が遺構を手にしたところで何になる? あれは軍事兵器だ。あれを手に入れ、制御権を得るならば、正しい形で運用されなければならない。しかるべき国が、しかるべき意思をもってして、《抑止力》として行使するのが妥当だ」
「これ以上、帝国が力を得てどうする? お前たちは搾取し、あらゆるものを破壊し尽くす。国も、民族も思想も共同体も、《属領》の名のもとに粉々に砕け散る。そのお前らがさらなる力を手に入れたところで、いったい何が抑止させる? 戦争は止まらないだろう。内紛も……アラクセス人も……」
起き上がろうと顔を上げたバラドの脇に、銃弾が飛んだ。冷たいものが突き刺さった感覚がしたかと思えば、次の瞬間、沸騰したかのような熱を帯びる。
「……知るものか。帝国は力こそがすべてだ。そうでなければ生きていけない。死んでいくのは、不利益を被るのは、ただ弱いからだ」
痛みに呻くバラドを無表情に見下ろしながら、その女は頭を振って、もつれあう赤毛を背に流した。
「『ここ』で生きていくには鋼のような頑強さが必要だ。身も心も。すくなくとも私はそうあらなければ、私個人の存在さえ認めてもらえなかった。――《女王》の娘など!」
拳銃を握りしめ、女はさらに弾を撃った。それはバラドの真横を跳ね、倉庫にある物資の箱へと突き刺さった。
「お前も生きたいならば、その覚悟をもってして味方をあざむけ。――いいや、お前の信じるそれは本当に味方なのか? お前はアラクセス人でさえない」
「俺は……」
「可哀想な奴。私が何でも無いお前を必要としてやろう。薄汚い野良犬。無様に駆けるんだ、ここを生きのびたいならば。属領の者が帝国で生きつづけるかぎり、孤独はつねに添うだろう。どこにも居場所はない。帰るべき故郷もない。心は砂漠の砂となり、血は凍り付く。それでも生きるということだけが、お前をあなどる人間たちに対して唯一の反抗となるさ」
バラドは黙って唇を引き結んだ。
――いったい、誰に対して反抗すればいい?
養い親のアラムか――異邦人である自分を疎んじる、独立派の人間たちか。あるいはもっと別の、大多数の他者からの「まなざし」か? バラドにはわからなかった。孤独を内在化できるほど、彼は自分の境遇を憎んではいなかった。
――目の前の女のようには。
「身を起こせ。私の言うことを聞くならば」
バラドは黙って膝を立て、ゆっくりと身を起こした。脇腹からはまだ血が流れている。床に貫通した弾が転がっているのを見つけた。
「うなずくんだ」
言われるがまま頭を垂れ、そしてうなずいた。それに対して女が「行っていい」と言うのに、ふらりと両足で立ち上がる。
どこへ行けばよいのかもわからない。バラドは黙って倉庫の裏口から外へと出た。そして霧氷の吹き荒れるステパナケルトの夜闇のなかへと、身を投じたのだった。
――いつでも、自分を迎え入れてくれる場所を探していて、あてもなく彷徨っていた。
どこにも根付くことができなかった。つねに疎外感をおぼえていて、そのことを受け入れられなかった。生きるだけではいい、とは到底言えなかった。――「何か」がほしかった。養い親からの期待でもなく、孤独に生きるための強い精神でもない。生きるためのよすがとなるような、「何か」が……。
――ひらめきを得たのは、冷たい拳銃を握りしめ、数発の弾を撃ち終わったあとのときだった。
硝煙の匂いが鼻をくすぐる。視界の先に、血だまりのなかで横たわる幼い少女の姿があった。
たまたま目についた――ウルヤナが連れていた子どもだ。苛立ちをこめて、彼女の右足を撃った。命は損なわない程度に、生涯、自分の欠落した身を呪えばいいと思いながら。
けれどもふと――痛みに呻くその体を見たときに、ある言葉が頭を過ぎったのだった。ウルヤナの《試行》の言葉が――どれほどあがいても得られることのなかった『何か』を、自分も得ることはできるのだろうかという疑念が。
誰に愛されることもなかった。愛することも。他者と緊密に繋がることができなかった。アラクセス人でなければ、帝国人でもなかったから。誰かを愛するための「何か」が自分の心にはない。そう思っていた。
これほどまでに弱い少女であれば、自分を脅かすことはない。《試行》ができるのではないか――自分のあさはかな考えに、バラドは笑みをこぼした。自嘲の笑みだった。ばかげていることは自分でも分かっていた。
少女を置いて、バラドは踵を返した。まだ「仕事」が残っていた。
◆
――バラドは列車の中に居た。自分が撃ったあの少女とともに。
結局、遺構は半壊し、汚染物質が飛散したことで誰の足も踏み入れられない場所となった。自分の役割を失い、その上運よく生き残ってしまったバラドは意気消沈として――ふと、あの少女の存在を思い出したのだった。
再度自分の役割がめぐってくるのは、すくなくとも一〇年は先になるだろう。――その間に、あの《試行》を試すのも悪くはない。そんなふうに思った。
周辺の難民キャンプを当たって、運よくあの少女を見つけた。そしてなんの因果か、彼女が義足を身につけているのを目にした瞬間、どうやっても逃れえない運命の上に自分がいることを知った。
「ユリアナ」
――悩んだ末に、名前をつけた。どう名付ければいいのかわからずに、結局ウルヤナの名に近しいものを、少女の名前の音で当てただけだった。
コンパートメントの席に小さく収まりながら、彼女は食べていたサンドイッチから顔を上げた。「パン屑がついている」そう言って差し出した指を、じっと見つめる。
――彼女の記憶は混濁していた。バラドが彼女の記憶の奥底に残る『保護者』になり替わるのは容易なことで、その目に不安や恐怖といった感情はない。
「……っ」
ふいに、少女がバラドの手に噛みついた。
とっさに手を振り払い、目の前の頬を叩く。
「――やめろ」
「……ごめんなさい」
少女はそう言って、青い目を伏せた。死海の色をしたその瞳が、今にも涙をこぼしかけて揺れている。
バラドは一瞬、その目を鬱陶しそうに見つめ――しかし頭のなかにウルヤナの姿が過ぎると、ふいに苦々しい気持ちが胸にこみ上げてきた。
「……いや」
――演じなければ。
そう思った。《本当》にするためには。バラドは引っ込めかけた手を再度伸ばして、「噛んでいい」と小さな声で言った。少女が弾かれたように顔を上げる。
「おこらない?」
「……怒らないよ」
「ほんとう?」
うなずくと、少女は小さな口を開いた。眼前に差し出された指を、カリ、と噛む。バラドの反応を伺いながら、甘噛みを続け――ふいに力を強める。
サンドイッチを膝に落とし、バラドの手を両手で掴み取ると、彼女は渾身の力で、口に含んだ数本の指を噛んだ。奇異なものをみつめる目で、バラドは彼女を眺めた。――少女は目を閉じていた。その瞳から大粒の涙をこぼして、嗚咽をこらえながら、自分の指を必死に噛んでいるのだ。
生ぬるい涙がバラドの手の筋を流れ、揺れる列車の床へと滴る。それが何を意味する涙なのか、バラドには分からなかった。――自分は《怒らなかった》のに? 何が不服なのか、さっぱり見当がつかなかった。
「……あのね、こうしているとあんしんするの。……うれしいの」
バラドの手を離して、ユリアナは言った。彼の困惑を感じ取ったように。
そうか、とバラドはうなずいた。
そして、無意識のうちに言葉を返した。それなら、時々こうしていい、と。




