(23)終わりを告げるもの
目を覚ましたとき、私は礼拝堂の床に横たわっていた。カビ臭い絨毯から身を起こし、何事もなかったように静まり返った周囲を見渡す。
すべて悪い夢であったかのように、忽然と――何もかもが消え失せていた。
けれども私は、それが夢ではないことを知っていた。思い出した、というほうがしっくりくる表現かもしれない。これまで記憶の暗渠に押し込めて、自分さえも正しい形を思い出すことができなかったものたちを……。
内側から門扉の鍵を外して、朽ち果てた礼拝堂を出る。すると、広場にはクラエスが佇んでいた。どこか浮かない表情をした彼は、私を前に強ばった笑みをみせた。
「帰りましょうか」
そう言って、手を差し出してくる。その手と彼の顔を交互に見やると、クラエスはばつが悪そうに鼻を掻く。
「嫌なら結構です。ただ、貴方が妙に心細い顔をしていたから……」
「嘘よ。あなたのほうが私と手を繋ぎたいんでしょう?」
そう言って、私はクラエスの横に並び、むりやりその右手をたぐりよせ、握りしめる。驚いたようにおとがいを跳ね起こした青年に、ニヤリと笑いかけた。
「そんな顔をしていたわ」
「……していません」
私の発言にクラエスは顔を背けた。しかし私の指が振り払われることなく、そのまま歩き始める。
夕焼けのせいだけでなく、ほのかに赤くなった耳の先をみつめながら、私は思わず笑い声を漏らすはめになった。
「あなたって素直じゃないわよね。私にしてほしいことがあるなら、ちゃんと言いなさいよ」
「何でもしてくれるんですか?」
「検討するだけならね」
「じゃあ――」
狭い路地をずんずんと進んでいたクラエスが、ふと足を止めた。私の腕を振り払ったかと思えば、肩を押される。
ほとんど身動きすることもできないまま、私は背後にあった建物の壁へと押しつけられた。間を置かず、クラエスの顔が近づいてくる。
清潔な石鹸の匂いが鼻をくすぐった。
薄暗い路地に射す西日のか細い明かりが、彼の白金色の髪をきらめかせていた。その長い横髪の先が頬に触れ、淡青色の瞳が至近距離に迫る――いつ見ても、彼の美しい顔立ちはくずれることはない。思わず息を呑んで、私はその透き通る目を見つめた。
「ここで、あなたを攫うというのはどうでしょう?」
「……どういう意味?」
「ただの思いつきですよ。深い意味はない。夜のうちに首都を出て、属領なり海外なりに逃げる。そこで別人となって暮らすのは?」
「答えはもちろん〝いいえ〟ね。ばかげていると思わない? いったい何から逃げているつもりなの?」
クラエスは目をすがめた。それがふと――痛みをやり過ごしているような、そんな表情に映り、私は口をつぐむ。
「……そうですね。ばかげている。言ったでしょう、思いつきだって。――じゃあ、この誘いがバラドからのものだったら? すべてを忘れて、一緒に逃げようと――」
次の瞬間、私は眼前に迫ったクラエスの頬を、平手で思い切り叩いていた。
乾いた音が響くのを聞きながら、声を張り上げる。
「あなたがバラドを語らないで。――それとも、私を試しているつもり? 不愉快だわ」
「…………そうですね。すみません」
「あなたがバラドの何を知っているのか、知らないけど。でも、そんなの関係ないわ。私がバラドと過ごした一〇年は私にしか分からないし、この先、何があったってそれが損なわれることはないの。誰にも奪わせないし、変えさせない。バラドが私を裏切ろうと、過去や今に何をしていようとも…………っ」
私はクラエスの襟を掴んだ。その顔を引き寄せて、とぎれがちになる声をなんとか奮い立たせて怒鳴りつける。
「でも、だからと言って、私はあのひとに同情しているわけじゃないの。私、ずっとあの人に嫌われたくないと思っていたわ。だからそういう風にふるまっていたけど――今は違うの。バラドが今私をこの場所に立たせてくれていることは事実でも、ほんとうは別の人間であることをわかっているから。私は自分の頭で考えて、判断して、自分の道を決めるわ」
そうですね、と再度クラエスはうなずいた。――どこか安心した顔つきだった。
襟を握りしめる私の手に自分の手を重ねてほどいていく。そして感情を制御できずにうなだれた私の顎を、そっとすくいあげた。
乾いた指の先で、おもむろに唇を撫でられた。
「ユリアナ。あんまり唇を噛むと、傷が――っ」
反射的にその親指に噛みつけば、クラエスが目をすがめた。
「何で噛むんですか!? そういうことしますか、ふつう……」
「私がふつうだと思ったらおおまちがいよ……。そう何度も、この私をクマちゃん扱いなんてさせないんだから……」
「そういう意味では――、っ、もう、噛まないでください……」
がじがじと彼の親指をつけ根まで噛んでから、その手を腕ごと振り払う。
そして彼に背を向けると、頭を振ってもつれた髪を背に流した。一度、二度と深呼吸をして平静をとりつくろうと、「帰るわよ」と声をかけた。
それから、背後のクラエスにむかって腕を伸ばした。
◆
――彼女がやってきたのは、ファランドール家の屋敷に帰り、クラエスとともに夕食を摂っている最中のことだった。
その日の夕食は、私のリクエストで羊肉とサフラン、玉ねぎで作ったミートボールだった。指についた柘榴と蜂蜜のソースを舐めたところをクラエスに見咎められたとき、部屋の扉が予告なく開け放たれた。そのむこうから、すらりとした長身の赤毛の女性が――エレノアが入ってくる。
以前見かけた白色のスーツではなく、外套の下には見慣れた軍装を身につけている。彼女は挨拶もなく――外衣を脱ぐことさえなく、のんきに食事をするクラエスを一瞥して、彼の名を呼んだのだった。
「食事中にすまない。――いい加減、体も休まった頃だろう? クラエス」
彼女の青色の瞳を、クラエスは無言で見つめ返した。
「職務復帰だ。正式な辞令は本日中に速達で届く」
「――なるほど」
「上官がわざわざ報せに来てやったんだ。泣いて喜ぶところだろう」
エレノアの軽口に応えることはなく、クラエスは立ち上がった。そして椅子に座ったままの私を見下ろすと、柔和に笑ってみせる。
「どうやらお別れのようですね。貴方との時間は楽しかった」
「……クラエス?」
――何故だろう。クラエスは笑っているのに、強烈な不安が私の心を埋めた。
私の困惑を感じ取ったのか、エレノアは大仰な溜息をついた。そして説明を加えてきたのだった。
「こいつは休職中に皇帝直属軍の名をかたり、任務外においてその権利を行使した。耐火製強化装甲を盗み、あなたを女学院から連れ出した。これは軍の信頼を揺るがす行為にほかならず、軍紀に反している。――処分として、職務復帰の上、グラナダ戦線送りが決まった」
「多少のお咎めはあると思いましたが、アラクセスの件が片付く前に激戦地に送られるとは予想もしていませんでしたね。――何があったかは知りませんが、あなたにとって私は用済みになったわけだ」
「――クラエス」
エレノアに睨みつけられ、クラエスは肩を竦めた。
私は彼らを交互に見やり――それから必死に頭を働かせた。
――グラナダ戦線? ユーラシア大陸の西の果てにあるイベリア半島は、現在、帝国とアンダルス王国による激しい攻防戦が繰り広げられているという。その場所を指しているにちがいなかった。そしてそれは、ふたりの口ぶりをみるに、到底幸運な赴任地ではないだろう。
――気にかかるのは、クラエスの発言だ。
彼は自分のことを「用済み」だと言った。それも、エレノアにとって。
クラエスは、キナアとともに私を女学院から連れ出した。彼が言うには、《リエービチ》の存在が露見する前に、私を属領へと逃がすことを目的として。
そもそも、その計画が失敗したのは――何故だったのか?
思い当たるのは、エレノアの存在だ。彼女に《リエービチ》の存在が露見したため、計画は失敗した。身代金を得るというクラエスの目論見もろとも。そもそも、リエービチが鍵となるという遺構第二〇二は皇帝直属軍にとっても国の権益を賭けた重要な場所だと聞いた聞いたことがある。つまり、エレノアが《リエービチ》を狙う使命下にあってもおかしくない。
ではなぜ、私を逃がそうとしたクラエスが傍にいたのか? ――何か理由があったはずだ。護衛として? それならば別の人間をつければいいだけだ。
もっと、別の……クラエスでなくてはいけない理由が……。
そこまで考えたところで、はたと思い当たる存在があった。
――――キナアだ。
私の傍にいることで、計画の本来の首謀者であったキナアが接触をしてきた。キナアがどのような存在であるかは分からないが、エレノアは、彼を泳がせて何かの利を得ようとしていたのではないか? そしてその『利』を得たからこそ、クラエスはもう「用済み」になったのではないか?
そこまで考えたところで、私は膝の上に置いた拳を握りしめた。
「――お願いがあるのだけれども」
息を吸った。そして、エレノアの目を見据える。
クラエスと違って、彼女はとても威圧感のあるひとだと思う。頑強な鋼鉄のように冷たくて硬くて、そして一切の隙がない。甘さがないのだ。
そんな彼女に対峙することは、とても勇気がいる。――でもだからといって、ここで、諦めるわけにはいかなかった。
「私、そこのひとにひどいことをされたのよ。さんざん足蹴にされたし、良いようにされて、体に消えない傷だってつけられたわ。私をぬいぐるみか何かのように扱うのよ」
「――なるほど」
エレノアが、チラリと横に立つクラエスを一瞥した――何かを察したらしく、顰め面をした男が肩を竦める。
「無力な娘は体のよいストレスのはけ口でしたよ」
「……グラナダ戦線って、よく知らないけど、大変なところなんでしょう。――死んでしまう可能性だってあるんでしょう?」
「その可能性は高い。そういう場所だ」
「ふうん。どうせ死ぬなら、私の目の前がいいわ。みるもむざんに死ねば、私の気持ちもスッキリすると思わない? この人に首輪かなにかつけて、思うぞんぶん、引きずりまわすして、それから死ぬところを見る。――アラクセスでね」
極悪非道の『ファランドール』――その家名を意識しながら、私はゆっくりと身を乗り出して、挑むようにエレノアの目を見る。そして、笑ってみせた。
正直、この《演技》が通用するとも思っていなかった。しかし私の出した『アラクセス』という単語に、彼女は明らかに反応した。
「そうしたら、私もあなたに従ってあげる。――この〝足〟がほしいんでしょう? それに、私なら……」
自分の右足に手を重ねる。
そして、誘いかけるように言葉をつむぐ。
「《黒鳥》は存在する。私にはその居場所がわかるわ。
――本当は、あれが私の足になるはずだったのだから」




