(19)決別
はじめに視界に入ったのは、キラリと光る金色の薬莢だった。
ひとつだけ、打ち棄てられたように床の上を転がっている。
――周囲には静寂だけがあった。
薬莢に手を伸ばし、掴んだ。ほんのすこしだけ熱が残っていた。
カラン、カラン、とすきとおる音を立て、無数の薬莢が宙から降り注ぐ。私は周囲を見回して、そして突如として自分の足もとに広がった血の海を発見した。
視線を前方にむける。血だまりのなかに、誰かの姿があった。特徴的な灰金色の髪。白い横顔。生あたたかい風が吹く。地から生えた剣がその男のからだを貫いた。
その背中は焼け爛れ、双頭の鷲が翼を広げる。
彼は目を閉じている。
今は見えないそのむこうの瞳の色を、私は知っていて――――。
――そこで、私は目を覚ました。
暗闇のなか、天井にむかって手を伸ばしていた。呼吸は乱れ、胸が大きく上下している。寝間着はぐっしょりと濡れて――今まで見たどんな悪夢よりも、ずっとずっと嫌な寝ざめだった。
動悸がおさまらない。頭を抱えて手足を縮こまらせると、私は寝台のなかでちいさく身を丸めた。自分の身を守るように。
「……いやよ」
瞼裏に、いつまでもあの光景が焼きついている。
目を閉じてなお鮮明に浮かび上がる、血の海とザムエルの死体。私の心は、彼の死体を発見して――あとからやってきたクラエスにすべての処理を任せ、いくらかの日が経った今となっても癒えてはいなかった。
日夜、たとえ夢のなかであっても、彼の死体は私につきまとった。
――あの日、私は気が付いてしまった。ザムエルの死体を前にして。
すべての《元凶》が私であることを。
私の背中にきざまれた焼き印を知るのは、クラエスを除けば、『彼』くらいのものだった。桑雨も数少ない知る側の人間に含まれるが、ザムエルを殺すほどの動機を持つ可能性があるのは彼しかいない。
――バラドは、私のためにザムエルを殺したのだ。
それはきっと、復讐というかたちで。
私に泣かないでくれと懇願した彼の顔が、頭を過ぎる。あのとき目にしたぎこちない笑みが。そして「死神のようなやつさ」と言った、桑雨の声が。
全身が震えた。そのことは理解できても、心が追いつかなかった。私は結果的に、自分のためにザムエルを見殺しにしてしまったのだ。
――私が、殺したも同然なのだ。その事実が私のからだにこびりついて、けっしてぬぐい去ることができないのだった。
◆
「――ユリアナ。いますね?」
一度悪夢で目が覚めてしまうと、その日はもう寝付くことができなかった。
窓のむこうが白み、そして陽が昇ってゆくさまをぼんやりと眺めていたそのとき――扉のむこうから、クラエスの声が響いた。
私が答えないのをいいことに、彼はずかずかと部屋のなかに入り込んでくる。
私は寝台に横たわりながら、それを出迎えた。扉に背をむけて、クラエスの顔を見ないようにして。
「いい加減何か食べたらどうですか。まったく、皇帝直属軍の私にこんなことをさせるのは貴方くらいですよ」
クラエスは食事のトレイを持っているようで、焼き立てのパンの香りがした。それでも私は身動きをせずに、いらない、とかすれた声を返す。
私の態度に、クラエスは明らかに苛立ったようだった。彼が近くにある椅子を蹴飛ばす音が聞こえたからだ。それがわかっても、食事を口にする気になれなかったが――そもそも、食欲をまったく感じないのだ。
これまでいろんな目に遭ってきて、それでも、今以上に打ちのめされたことはなかった。バラドに裏切られたこと以上の衝撃が、自分の不始末や迷いが招いてしまった結果が、ついに私の心を折ってしまったのだ。――そんな私を見て、『消極的な自殺』であると、クラエスが昨日あたりに評していたようなおぼえがある。
「そろそろ悲劇のヒロインぶるのは止めたらどうですか」
これまではすなおに引き下がっていたクラエスだが、今朝は虫の居所が悪いらしかった。ガシャンと荒々しい音を立てて、トレイを机かどこかに置くと、彼は寝台にむかって歩み寄ってくる。
「ザムエル・ファランドールが殺されたことの何に落ち込んでいるかは知りませんが、私に言わせてもらえばバカらしいことこの上ないですよ。貴方がそう沈んだところで、何のメリットが? 何が変わるわけでもないでしょう」
「……逆よ。何もしないほうがいいのよ、私は。私と関わらなければ、ザムエルだってあんな殺され方はしなかったわ。もっとマシな……。……私が……」
そこで言葉が詰まった。抱きしめた枕に顔を埋め、頭を左右に振る。
――私は、どうしたらよかったのだろう?
あの日、バラドに出会わなければよかった? すなおにクラエスに助けを呼べばよかった? それとも、もっと最初の段階で、バラドを突き放していればよかったのか? わからない。――正解なんてわからない。
背後から、ふいに片腕を強い力で引っ張られた。私は身をよじって、クラエスの手を振り払おうとする。
「やめて、クラエス」
「――バラド・ヴィ・サフサーフがあの男を殺したと?」
「そうよ、違うとでもいうの?」
「いいえ、彼が殺したでしょうね。私だってそう思うのだから。でもそのことの責任は貴方には無いはずでしょう? 罪の所在は考えるまでもなく明らかだ。貴方ではなくバラドだ。その罪を贖うべきはね」
「ちがうわ。私が……私が、バラドに殺させたようなものよ!」
声を振り絞って、私は叫んだ。クラエスの腕をはねのけ、寝台の上で後退をする。背に壁が当たると、私はすべてを拒絶するように両膝を抱えて身を丸めた。クラエスに見向きもせず、頭を左右に振る。
「――いやなの。すこしくらい、やすませてちょうだい」
震える声で、私は続けた。
「……もう無理なのよ。結局、私が何かしようとしたところで、いろんなひとの思惑が私を越えていくの。私ができることなんて、何もないんだわ……無力なのよ。いままで、頑張って歩いてきてみたけれど……何かしようとしたところで、こうやって裏目に出て……」
弱弱しい私の訴えに、クラエスは何を思ったのか。
しばらくして周囲を見渡すと、彼の姿はなくなっていた。
――ついに、見捨てられてしまったのだろうか。不安が頭を過ぎる。
同時に、こんな態度では見捨てられても仕方がないと思った。
そもそも、ユリアナという存在は亡霊のようなものなのだ。地に足をつけてしっかり立っているようで、その実、偽装された戸籍に、本物ではない名前で呼ばれて、帝国人らしく暮らして――それでやっとはじめて、私という存在は周囲に承認される。演じることで、はじめて本当になる。普段は『演じている』ことさえも、忘れているだけで……。
幼い頃はそのことが怖った。深夜ふと目を覚まして、自分という存在が夢やまぼろしのように消えてしまうことを恐れて、隣で寝ているバラドにしがみついたものだった。――今は、震える私を抱きしめ返してくれるバラドも傍にはいなかった。
私はゆっくりと体を起こし、おぼつかない足取りで部屋を歩いた。
窓から射す光がまぶしく、目を細める。何と無しに歩み寄ったテーブルの上には、冷めた朝食が鎮座していた。
そして――。
その隣に置かれたものを、私は手に取った。いつの間に、クラエスはこれを持ってきたのだろう? それは一匹のテディベアだった。意外とずっしりとした重みのあるクマは、ふわふわの黒い巻き毛で、両目は青い硝子玉でできている。
その首もとには、サテンの白いリボンが巻かれていた。
「おや……着替えたのですね。ようやくグズグズとするのをやめたんですか?」
昼頃、クラエスが戻ってきた。
私は寝台から長椅子に移動をして、その隅で膝を抱えて小さくなっていた。昼食のトレイをテーブルに置く彼を横目でみやって、頭を振る。
「別に。ずっと寝間着だと気持ち悪いもの。……劇的な気分の変化があったわけじゃないわ」
「まだごねますか。その根性だけは認めたいところですがね」
あからさまな溜息をついて、クラエスは肩を竦めた。そして私の隣に座らされたものに目を留めると、踵高の靴を鳴らして近づいてくる。
「いいから。……放っておいてちょうだい」
「そうは言われても、私には監督責任があるんですよ。エレノアからは目を離すなと言われているし――」
「《リエービチ》がほしいなら、持っていけば」
私の『価値』ってそれくらいでしょう? と呟いて、私はぞんざいに右足を投げ出した。人工皮膚のカバーさえ外したそれは、窓から射す光を浴びて七色に煌めいている。――今は、それさえも私の心を暗澹とさせた。
あんなに大切だったのに――今でももちろん、それは変わらないけれども――どうしても複雑な気持ちになってしまうのだった。
「……まったく。貴方らしくもない」
クラエスは小さく舌打ちをした。そのまま、荒々しく私の隣に腰を下ろした。しばらく何かに煩悶するように頭を抱えていたかと思えば、ふいに顔を上げ、早口で何事かをまくしたて始める。
「いいですか、ユリアナ。私に甘えようと思っても無駄ですよ。ご存知かもしれませんが、私は末っ子気質で――ああ、別にエレノアが私を溺愛していたとか、そういう気持ちの悪い過去はないんですが――他人を慰めるとか、気遣うとか、そういういかにも優しそうなことをするのは苦手なんです」
「急に何? 別にあなたに優しくされたいなんて思ってないわ」
「ああ、そうですか。それは私も同感です。だれがあなたみたいなペンペン草に優しくするもんですか。――……だから、そういう話をしたいわけではなくて……。…………私は、貴方の『味方』になるって、言ったでしょう?」
最後の方はほとんど聞こえない声量で囁いて、クラエスは私の隣に座るテディベアを手に取った。
その首に巻いたリボンだけを外して、ぬいぐるみ本体はポイと投げ渡してくる。
反射的にそれを受け取ってしまい、私は不審に思って顔を上げた。その瞬間、ずい、とクラエスが体ごと近づいてくる。
彼は手に掴んだリボンを、するりと私の首に巻きつけた。
「何よ……!?」
淡青色の瞳が、無言で私を睨みつけた。クラエスは私の疑問を目で制し、黙々と首に巻いたリボンを蝶々結びにした。左右のわっかのバランスを整えて、満足そうにうなずくと――「だから」、と、声を張り上げる。
「貴方は今だけ私のクマになります」
「はあ? 何よ、急に? クマ? いかれているわ。やっぱり頭がおかしいんだわ、あなたって……っ」
「――クマは喋りません」
間髪入れずにそう返され、鼻先に指を突きつけられる。勢いに気圧され、私が口を引き結べば、彼は鮮やかに笑ってみせた。
ゆっくりと肩を押され、体が長椅子に敷き詰めたクッションの上に沈んだ。私は慌てて胸もとに黒いテディベアを抱き締め、それから信じられないものを見る目でクラエスを仰いだ。
クラエスはしばらく無言のまま、険しい顔で私をみつめていたが――ふいに、その目もとを和らげた。彼の中で、私が『クマ』になった瞬間だった。
節くれだった長い指先が、そっと頭に触れる。
髪を梳かれたかと思えば、次の瞬間、鼻先に唇が降ってきた。
「…………っ」
それだけではない。間を置かず、前髪をかきあげられては額に、頬に、その唇は降ってくる。羽のように優しい口づけだった。しまには乾いた涙のこびりついた目もとをぺろりと舐め、「塩辛い」と彼は文句を垂れる。その声さえも、どこか柔らかく、砂糖菓子のような甘さを帯びていた。
クラエスは私の頭を撫でながら、顔のあちこちにキスの雨を降らせた。彼の言葉を借りるなら――私は困惑したまま、彼の『クマ』よろしく、人形のように身を硬直させていた。震える腕で、ぎゅっと胸のテディベアを抱きしめる。
間近に感じられる彼の体温、そのいつになく優しい行為は、私がひそかに抑圧しているものを、徐々に緩ませていった。はじめに、頭のなかを様々なものが過ぎった。血だまり、床に転がる薬莢、銃声に絶叫、殺されてゆく《女王派》のひとたち――ザムエルの死体。
脈絡もなく頭を飛び交うそれらに、体がこわばった。手足の指先が震える。
尋常ではない私の緊張を感じ取ったのか、クラエスはいぶかしげに両目を細め。私の頭を撫でる手を止めると、今度は、両腕で私を抱擁したのだった。
――優しい腕だった。
不覚にも――バラドのことを思いだした。彼の体温、匂い、優しい声。そのはりつめた眼差し、ぎこちない笑み。地面に広がる冷たい血だまり。
その瞬間、感情が決壊するのがわかった。限界まで水を注いだ風船が破裂するように、それまで私を守っていた虚勢が弾け飛ぶ。
頼りなくぬいぐるみを抱きしめるだけだった両腕で、私はクラエスにしがみついた。そして目の前にあった肩に、思わず噛みついた。
「――――っ」
予想だにしていなかったのだろう、クラエスが息を呑む音が聞こえる。
彼はひどく驚いたようすで、「ユリアナ?」と囁いた。
私は無言で頭を左右に振った。今はユリアナではない、とばかりに。意図を察したのか、クラエスは「私のクマはこんなに凶暴じゃない」と小言を漏らした。それでも、私を振り払うようなことはしなかった。
私が彼の肩への甘噛みをくり返していると、ふいに喉もとを指でくすぐられた。唇と肩の間に指が挟みこまれ、クラエスは私の頭を引き離した。
恨みがましく彼を睨みつけた矢先、私は勢いよく長椅子の上に引き倒された。
間を置かず、クラエスの長躯が影となり、私の上に覆いかぶさってくる。まるで、いつかを思い起こさせる容赦のなさ、強引さで――思わず身を強張らせれば、猫のように背をしならせた青年が、私の腹の上にコテンと頭を載せた。
ブラウス越しに、お腹を何度か口づけられる。
そうしながら、彼の指先はそのボタンを器用に外していった。
「……く、クラエスっ、」
慌てて彼を突き放そうとするものの、あっという間にブラウスのボタンを半分外してあらわになった私のお腹に、彼は顔を埋めた。
唇をこすりつけるように素肌に直接キスをされ、その感触に全身が震える。
それだけではない――突然、濡れた感触をおぼえたかと思えば、クラエスの舌が、私のへそを舐めたのだった。
「ちょっ、ちょっと……何てことするのよ! き、汚いから……」
足をじたばたさせながら、彼の頭を掴んで引き離そうとする。しかしクラエスの熱い舌が、抉るようにそのへこみの内側にある襞をなぞるのに、両手から力が抜けた。体温が一気に上がるのがわかった。
次の瞬間、私は迷わず右足で彼の胴体を蹴り上げた。
急所に入ったのだろう――クラエスは苦悶の声を漏らして、ようやく身を離した。私はぬいぐるみで自分のへそをかばい、不埒者の顔を確かめる。そして、目を瞠った。
クラエスが見たことのない表情をしていたからだった。
彼はいつになく顔を赤らめて、私を睨みつけていた。淡青色の瞳はどこか熱っぽく、心ここにあらずという感じで――その目と目が合ったかと思えば、無言で、彼が体を近づけてきた。
ガードしようとぬいぐるみを顔の前に掲げれば、いともたやすく奪われて床に放り投げられる。そして、かぷりと耳を噛まれた。
甘噛みではあったが、ほんのすこしだけ痛みを感じた。濡れた水音が、直接鼓膜に響く――クラエスの乱れた吐息がすぐ傍で聞こえて、石鹸の清潔な匂いが鼻をくすぐった。ぴったりと寄せられた彼のからだがひどく熱かった。
私は困惑した。――いったい、クラエスはどうしてしまったのだろう? さすがの彼でも、大事なクマの耳を噛んだりはしないと思うのだが――。
「クラエス、クラエス……!」
肩を掴んでからだを揺さぶって、ようやくクラエスは我に返ったようだった。
私は慌てて彼から距離を取り、乱れた呼吸を整えた。
――心臓がひどくうるさい。
「さ、最低だわ……。あなたって。いたいけな女学生にむかってすることじゃないわ。あなたみたいに力の強い人にのしかかられて、抵抗できると思うの!?」
早口でそうまくし立てれば、クラエスは叱られた犬のような顔をした。「――すみません」と、弱弱しく、苦虫を噛み潰したかのような声が続く。
「自分でもそんなつもりは…………。すみません、何故だか――貴方に肩を噛まれたら」
言葉は続かなかった。クラエスは無言で立ち上がって、私から目を逸らした。その耳は、まだかすかに赤みが残っている。
「そ、それだけ怒る元気があるなら十分でしょう。食事をとってください。――いい加減、私も世話を焼くのに疲れました」
そう言われ、私はテーブルに置かれたままの食事のトレイを見やった。
――しばらく、それを睨みつける。
「……そうね。食べなくちゃ、ね」
どうしてだろうか。それまで忽然と消え失せていた欲求が戻ってくるのを感じた。
何かが解決したわけではない。ザムエルの死やその裏のバラドの暗躍は――心に暗い影を落としている。
しかし先ほど、私を抱擁してくれた腕のあたたかさを思いだすと――ツンと鼻の先が痛むのを感じた。
私は顔を上げて、長椅子から立ち上がった。
テーブルの前に立ち、陶製の白い皿から、平べったいパンを手に取る。
まだかすかなぬくもりが残るそれを手のひらに載せ、ちいさくちぎっては口に運ぶ。ほのかに塩っぽいそれを噛みしめるうちに、徐々に悲しみがこみあげてきた。
うつむいて、手もとに視線を落とす。
頭の中でぐるぐると、この短期間の記憶がめぐった。
共謀罪の容疑をかけられ、女学院を連れ出されたこと。桑雨に騙されたこと。《難民解放戦線》のこと。帝都に戻ってきたときのこと。《女王派》のことや、クラエスやエレノアの出自の話。そして死んでいってしまったひとたちのこと。
――どんなに思い返そうとも、私は今、底なし沼のなかに置かれているようにしか考えられなかった。それも、事態はどんどん悪くなっていって――私の首は真綿で絞めあげられていくばかりだ。
「どうして、こんなことになってしまったのかしら。……私が悪かったの?」
食事を半分ほど減らしたところで、ひとりごちた。
「――さあ?」
「……私、バラドにザムエルを殺してほしくなかったわ」
「そうですか。それは結構なことですね」
クラエスの気のない返事に、私は目を伏せた。
「私、もっとバラドのことが知りたいわ。どうしてあの組織にいるのだとか……どうして、私を拾ったのか。《リエービチ》を与えてくれた理由とか。そういうのを、全部……」
ほろりとこぼれ落ちた言葉に、私自身が気が付かされた。自分の思いに。
――考えてみれば、私は長い間、その『真実』から逃げていたのかもしれなかった。これ以上バラドに裏切られたくなくて――自分が傷つきたくなくて、彼に問いかけることができずにいた。
それまで私を守ってくれた優しい後見人を失いたくなくて。
「……私にはわかりかねますがね。ただひとつ言えることといえば、すべての元凶は十年前の遺構爆発事件でしょう。あれがなければ、あなたはその義足を与えられることも――きっと、バラドと出会うこともなかった。《難民解放戦線》が組織としてあそこまで力をつけることもなかった。……あの事件は、あまりに多くの人間の心に影を落とし過ぎた」
クラエスの声は淡々としていた。
振り返れば、長椅子に腰かけたクラエスと目が合った。淡青色の双眸は私を視界に入れてはいるが、もっと遠くのものをみつめているようにみえる。それは彼の知る十年前の事故なのか、それとも別の何かなのか、私には判断がつきかねた。
ただその言葉が、私に一種の安息を与えたのは確かだった。
十年前、あそこでどれほど凄惨な出来事があったのか私は知らないし、覚えてもいない。しかしそれが全ての元凶だと言うならば、私はこの状況に対する理由を見つけることができるような気がした。
「……十年前の事故さえなければ、バラドは今回みたいに、悪いことに手を染めることはなかったの?」
「それはどうでしょうね。ユリアナ、私がそう言ってしまったことで、貴方は怒りのほこ先を十年前に求めようとするかもしれない。けれども十年前の事故の問題が片付いたところで、彼のしたことは消えない。同じように、傷ついた誰もがの心が癒されることだってないでしょう」
「それは……わかっているわよ」
自分の右足に視線を落とす。その透明な表面に、幾つもの光が踊っている。
「……ねえ、クラエス。私、考えてみれば、女学校にいたときは、ずっと平凡な未来を夢見ていたの。でもその一方で、自分の考える未来に全然しっくりきていなかった。私が本来いるべき場所はここじゃない、って思っていた。どこかに何かを忘れて、置き去りにしたままのような気がしていたのよ。嘘じゃないわ。本当よ?
………私、もしかしたら、あそこに大事なものがあるのかもしれない。もしそれが私が巻き込まれているものの正体なら、私、それを知りたいわ。――バラドのことだけじゃなくて」
――それはただの勘違いなのかもしれない。
しかし私にとってこの短期間で起こった出来事は、すべてを背負うにはあまりにも重過ぎるものだった。どうにかして自分を納得させなければ、私はその重みに耐え切れなくなってしまう。だから、今だけはこれでいいと思う――そう、今だけは。
果物を持つ手が震えた。私は唇を噛みしめ、かたく目を瞑った。そうしないと、今にもみっともない弱音を吐いてしまいそうだった。
どうか今日までは泣くことを許してほしい。今まで辛いことは沢山あったし、たくさん泣いてきた。でももうその《ユリアナ》とは、お別れをしなくてはいけない。――そんな気がしていた。これから、私の知る優しい後見人ではないバラドに出会うためにも――そして、私の知らない『過去』に向き合うためにも。
やがて、涙は堰を切ったように流れ出す。
――泣き終わったら、また、前を向こう。この先に希望があるかどうか私にはわからない。それでもなお、闇の中を進む勇気を、私は持たなくてはいけない。




