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(10)長雨のなかで

 雨の音が聞こえる。


 クテシフォンは雨の降らない街だ。砂漠にありながら地中海気候の影響下にあるアレクサンドリアと比較すれば、降水量はずっとすくない。朦朧とする意識のなか、雨の音を耳にしたそのとき、自分があの海辺の街にいるのだと思ったほどだった。

 耳を澄ませば、どこからか級友たちの声が聞こえてきて――「雨よ、洗濯物をしまわなきゃ」そんなことを口々に言い合っては、廊下に慌ただしい足音が響く。そこまで考えたところで違和感をおぼえ、私は目を開いた。

「――目が覚めたか?」

 懐かしい声が鼓膜を打つやいなや、私は弾かれたように体を起こそうとして――失敗した。

 横たえられていた寝台《ベッド》の上にくずれ落ちる。全身が鉛のように重く、思うように動かなかった。敷布《シーツ》を手のひらで握りしめて腕を突っ張ろうとしたところで、大きな掌に頭を撫でられ、やんわりと動きを制止された。

「まだ起き上がらないほうがいい」

 真横に目をむければ、そこにバラドの姿があった。

 私は大きく目を見開く。

「……バラド?」

 名前を呼ばれると、それまでの張り詰めていた表情を崩して――バラドは目を細めて笑った。いつもの彼の笑みだった。

 一気に混乱する。私はあわてて周囲を見回した。一瞬、ここがアレクサンドリアの寄宿舎ではないかと――あるいはもっと昔、彼と暮らしていたあの時間、馴れ親しんだ借り部屋(アパート)に戻ったのではないかと思ってしまったから。

 しかし目が覚め、意識が冴え渡るにつれて、それが錯覚であることを認めずにはいられなくなる。

 消毒薬《エタノール》の匂いが立ちこめた、殺風景な部屋だった。

 はめ殺しの窓は雨に濡れ、光源のない屋内は薄暗い。私はそこにひとつしかない簡易ベッドに寝かされ、正面には椅子に腰かけたバラドの姿がある。――どう考えても、あの借り部屋(アパート)ではない。それどころか、見知らぬ場所だ。

 自分のものではない服を着せられている上、背中には包帯が巻かれ、明らかに誰かが処置をした形跡があった。――感覚が麻痺していることを考えると、鎮痛剤が効いているらしい。

「ここはどこ? どうしてあなたが……」

「――どこまで覚えている?」

 慎重に、言葉を選ぶようにバラドが問いかける。私は必死に記憶をたぐり寄せた。ふいにクラエスの表情《かお》が頭に浮かんで、胸が苦しくなる――が、今はそれを振り払って、冷静にこれまでのことを思い返した。

「……ファランドール家の屋敷を飛び出したところまでよ。その後のことはまったく……私、あなたに会ったの?」

「……たまたまだよ。見つけたのが俺でよかった。ひどい傷を負っていて、見ていられなくて、それでここに。詳しい場所は言えないが、ここはクテシフォンの中にある桑雨《サンウ》の家だ。君の手当ても彼女が。

 ……何があったんだ、ユリアナ?」

 彼の声の優しさに、予期せず胸が詰まった。

 敷布《シーツ》をぎゅっと握りしめて、私は唇を噛みしめた。

 ――バラドはここがクテシフォンであると言った。つまり、《難民解放戦線》は既に首都に入り込んでいるのだろう。その口ぶりだと、ここは組織の隠れ家といったところだろうか。

 つまり、私という存在は、既に「敵」の手中にあるということだろうか? 現に、私の右足はこの場に無い。拘束こそされていないが、きっと部屋の扉には鍵がかかっているだろうし、容易に逃げ出すことはできないだろう。

 そもそもは勝手に屋敷を飛び出した自分に原因があるのだから、情けなさに腹が立ってしょうがなかった。と同時に――この背に負わされたものを思うと、むしょうに胸も苦しくなる。

「ユリアナ。俺を警戒しているのか? ……それもそうか」

 一向に返事をしない私に痺れを切らしたのか、バラドがそう言って肩を竦めた。生々しい傷の残る指が乱れた髪を梳《す》く。

 枕に押しつけていた顔を上げ、横目で彼を睨んだ。

「……そうよ。でも、会えてすこし安心したのも本当よ。もう何を信じていいのかも、分からないから……」

 バラドは困ったように眉根を寄せた。かわいそうに、とでも言いたげに、私のこめかみを指の腹で撫でる。彼のその表情、行為を受けるにつれ――とたん、堰《せき》を切ったように口からことばがこぼれ落ちた。

「どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの……?」

 片目をすがめ、バラドは神妙な顔をする。

「いったい、私が何をしたっていうのよ。なんにも悪いことをしてないわ。それなのにいきなり学院から連れ出されて――クラエスからはひどい仕打ちを受けるし、わけのわからない騒動に巻き込まれるし、挙句の果てにはこうして逆恨みまでされたわ。あなただってそうよ。バラド、あなたは――いったいどこまで私をだましているの? 人の話から聞くあなたは全然違うひとみたいで、なのに……今は……」

 勢いをつけて身を跳ね起こし、私はバラドの襟首に掴みかかった。バラドといえばされるがままで、私の乱暴なそぶりに、嫌な顔ひとつしない。

 ――それがよけいに私を苛立たせた。

「私、ずっと耐えてきたわ。いい子ぶってみたけど、何も好転しなかった。みんな勝手なんだわ。私の意志をないがしろにして、それでいいって思ってるんだわ。私が非力で――ただの子どもだから」

 ――ふつうに暮らしてきただけなのに、ここ最近起こることといえば、私の意志を度外視した悲惨な出来事ばかりだ。

 たくさん怖い思いをしたし、『義足』も奪われた。挙句の果てには、背中に永久に消えることのないだろう烙印まで押されて、それから……。

 ザムエルとの時間を思い起こすと、胸がひどく締めつけられた。だから私は頭の中からそれを振り払おうときつく目を閉じた――その矢先、腰に熱を感じる。

 いきなり、バラドに抱き寄せられたのだった。木製の椅子が軋む音がして、寝台《ベッド》からすべり落ちそうになった体を抱き上げられる。

 不安定な体勢から心もとなさをおぼえ、私はバラドの背にしがみついた。背中の傷をかばうように腰に回された腕が、私をきつく抱きしめる。

「――ユリアナ。泣かないでくれ」

 顎をすくいあげられ、黒い双眸が私の顔を覗きこむ。そう指摘されてはじめて――私は自分の頬を流れる涙に気が付いた。

 熱い涙が縷々と伝い、顎先から衣服にしたたり落ちていた。

「君は昔から泣かない子だった。泣きたくても唇を噛みしめて、うなだれているような子だった。嵐がやむのをじっと待つように。――それなのに、最近は君を泣かせてばかりだな。そう仕向けたのは俺なのに……参るな」

 ほとんど吐息だけの声で囁かれる。

「あまり俺を信頼しすぎないほうがいい。――わかるだろう?」

 ふいに服の上から太腿を撫で上げられ、身の危険を感じて肩を揺らす。そんな私の様子にバラドは声もなく笑い、「水を飲まないか?」と問いかけた。

 とまどいながらもうなずけば、バラドは近くの机から錠剤とグラスの水を取った。

「それ……何?」

「免疫抑制剤だ。……ただの保険だ。義足の権限が書き換えられていたから、念のため。変なものじゃない――俺は心配性なんだ」

 バラドは二錠のタブレットと水を順に口に含むと――その言葉の意味をはかりかねている私にいきなり口づけた。

 乾いた唇が降りてくると、生ぬるい水が侵入をしてきて、ついで舌で薬を押し込まれる。一瞬、飲む込むべきか迷った末、私は彼の舌を噛んでしまった。

 するとバラドは私の顔を両手で包みこむと、いっそう深く、私の口のなかを責め立てたのだった。経験したことのない行為だった。熱い舌で口内を蹂躙されて、息もつけず胸にしがみつく。飲みきれなかった水が口の端からこぼれて、衣服を濡らした。頭《かぶり》を振って彼の唇と手から逃《のが》れようとしても、その力強さには敵わず、彼は私の口をむさぼった。

「……っ」

 観念してタブレットを飲み込んでようやく解放された。

 上気した息を整える私にくすりと笑いかけ、バラドは黒い目をすがめた。

 ――真剣な顔をして、私に鼻先をすり寄せてくる。

「ユリアナ。俺とくるか?」

 落とされた言葉の意味を瞬時には呑みこめず、目を見開いた。

「――《難民解放戦線》に」

「……バラド?」

「そうしたら、俺がずっと傍にいてやれる。心身を傷つけられることだってない。――せっかくお前をあちらに預(・)け(・)た(・)のに、こうして傷つけられているところをみると、どうにも……」

 ――『預けた』? ファランドール家の話をしているのだろうか。バラドは私の横髪を耳にかけ、言葉を続けた。

「その代わり、優しい後見人の振りをするのは終わりだ。俺はお前が思っている以上に、ずっと欲深くてひどい男だ。一度手に入れてしまったら、もう二度と離してはやれない。ずっとお前を腕のなかに囲い込んで――あるいは逃げられないように、どこかに閉じ込めてしまうかも」

 傷ついた指先が、濡れた唇の表面を撫でた。私は彼から視線を離せず――微動だにもできず、じっと身をこわばらせていた。

 熱っぽく、暗い目が、私を見すえていた。

 その熱量に呑み込まれかけ――ふと、我に返る。

「……いやよ」

 頭《かぶり》を左右に振って、私は彼の目をまっすぐに見返した。

「私、あなたのところには行けないわ。罪のないひとを殺したり、それを容認するようなことはしたくないもの」

「大義のためだ。仕方がない」

「……いやよ。私、あなたとは一緒に行けないわ……」

 ――脳裡《のうり》に、昨日の光景が広がった。大量のガラス片が散らばった床。そこに濡れ広がる血、絶え間ない銃声音……。

 あの行為自体は《女王派》のものだし、そのことを指摘すれば、一緒にするなと言われるかもしれない。バラドと一緒に居られることを思えば、彼とともにいる道を選ぶことは確かに魅力的だった。――すくなくとも、味方がいないことに打ちひしがれなくていい。目的だってはっきりしている。

 でも、それが善《い》いことだとは、到底思えなかったのだ。

「――そうか」

 バラドはゆっくりとうなずいた。無表情だった。

 一瞬、彼のことを傷つけてしまったかもしれないと後悔する。それでも彼の言葉を肯定する気にはどうしてもなれなかった。

「だったら、桑雨《サンウ》に送らせよう。――今日のことは内密に。俺もお前のことは話さないから」

「……いいの?」

「組織も一枚岩じゃない。いろんな利害の一致があった末に、人が集まっている」

 そこでようやく、バラドは笑みを見せた。

 しかし普段に比べて、ぎこちなく、どこか張りつめた笑い方だった。


 ◆


 バラドは部屋を出て行き、しばらくして、桑雨《サンウ》がやってきた。彼女は私に義足を返し、目隠しをした。そして街区の外まで誘導すると言うので、私はすなおに彼女に指示に従うことにした。

 外に出ると、あれほど激しく降っていた雨の音は止んでいた。

 桑雨に手を引かれるまま、濡れた石畳を歩く。

「――バラドは」

 後ろ髪を引かれる思いで、私は彼の名を口にしていた。

「バラドは、どんなひとなの? あなたたちのところでは……」

「……〝ルスラン〟のこと? そうだねえ、あんまり評判はよくないよ」

 桑雨の手は冷たかった。彼女のあまり乗り気でない声に耳を傾けながら、不安定な道をゆく。舗装が粗悪なのか、地面の石畳はでこぼことして、たまに土がむき出しのような感触があった。

「ファランドール家に居たって聞いたわ」

「そうだね。僕の死んだ兄――鎮雨《ジンウ》もファランドール家の融資を受けていてね、同期だったからか仲がよかった。だから僕もあいつのことを知っている。よく家に来ていたから」

「そうなの?」

「でもルスランは『家』を抜け、《難民解放戦線》に入った。厳密にいえば、昔からその組織にいて、ファランドール家にいたのは体《てい》よく知識と教養を身につけるためって感じなのかな。属領出身が高等教育を受けるには、それしかないからね。

 ……そして、あいつはアラクセス紛争に身を投じた。遺構第二〇二をめぐる戦闘で、たくさんの人間を殺したって聞いたよ。そうじゃなくとも、必要があれば女子どもだって――旧友だって殺す。死神のようなやつさ」

 ふと桑雨が足を止め、手を離した。戸惑っていると、背後に回った彼女が目隠しの布を取り払う。

 街区《ハーラ》の外に出たのだ。

 桑雨は正面に回ると、建物のひび割れた壁に寄りかかった。「言っておくけどね」翡翠色の目をすがめ、彼女はいたずらっぽく笑いかける。

「あれは頭領のためならば、何でもするんだ。育て親の頭領こそがすべてで、あれにとっての絶対だから。――心がないんだ。意思もない。人形のようなやつだよ。親しみや恐怖を演じ、その内側には虚無しかない……真実がないんだ。信頼に値しないんだよ」

 驚いて声も出ない私に、桑雨は何かを投げつけた。――小さな紙袋だ。「鎮痛剤と抗生物質入りの軟膏」と彼女は続ける。

「料金はルスランの財布から抜いておくから安心して。――それともエレノアに請求書を送りつけたほうがいいかな?」

「……エレノアを知っているの?」

「うん。僕の兄さんの恋人だったから。――昔のことだよ。そんな驚いた顔をしないでよ、もう。彼女がまだ軍人になったばかりの話だし、むこうは僕のことなんて覚えてないだろうさ」

 桑雨は笑いをかみ殺し、ひらりと身をひるがえした。

 そして雨煙の残る街のなかへと、消えていったのだった。

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