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(8)鉄の心


 通りに面した窓ガラスがいっせいに砕け散った。火がいたように店内が騒がしくなったかと思えば、その音の波さえもつんざいて、銃声音が響いた――間断なく、とぎれることがなく。

 弾丸は照明を割り、椅子の背もたれを射抜き、カラフルな焼菓子バクラヴァを並べたガラス製の陳列棚ショーケースを粉々に打ち砕く。太い柱の影でクラエスの下敷きになったまま、私は目を見開き、その音だけを聞いていた。

 銃撃は十回――あるいは十五回くらい――立て続けに鳴った。ほんの一瞬の出来事が、しかし永遠のように感じられて、最後の一発が鳴り終わったあとになっても、あの重い金属音が頭に鳴り響いていた。

 何者かが、この場を〝襲撃〟したのだ。

 ――《難民解放戦線》だろうか? それとも、《女王派》?

 指の一本も動かせずに、しかし思考だけは奇妙に冴え渡っていた。それもクラエスが身を起こした瞬間、たちまち霧散してしまう。私に覆いかぶさる彼の背から、粉々に砕け散った大量のガラス片がこぼれ落ちてきたのだ。

「クラエス、」

 呼び声はあまりにも小さくて、至近距離にいる彼の耳に届いたかも分からなかった。しかしクラエスはこたえるように、淡青色の目を柔和に細めた。

 私を安心させるように――これまで見たことのないくらい優しいまなざしに、なぜか不安をおぼえて、心臓が苦しくなる。

「ひどい顔をしていますね」

 彼の手がするりと私の頬を撫で、離れてゆく。冷たい指先だった。

 クラエスは立ち上がって、上衣ジャケットを脱いで突き刺さったガラス片を振り落とした。その下の襯衣シャツには赤いみが点々と残り、私は息を呑んだ。大したことはないとばかりにかぶりを左右に振って、クラエスは無線でどこかに連絡をとり始める。

 店内にはいやな煙の匂いが満ちている。なににも遮られることのなくなった太陽光が、まばゆく屋内に照りつける。タイル敷の床には倒れた椅子や机、砕けたガラスが落ち――それから。

 私はぎゅっとスカートの裾を握りしめた。

 指先が震えている。

 右足の痛みだけでなく、その場から立ち上がることができなかった。



「本日の一二五〇、大通り(メインストリート)の礼拝塔付近で一度目の銃乱射があった。一三〇四、移動後の犯人は裏通りの喫茶店スィン・アル・アサドを襲撃、現在も首都内を逃走中と見られる。それに前後して一三〇〇、東の街区ハーラにある歌劇座でC4爆薬による自爆行為があった。劇場は当時、プッチーニの『トスカ』の第三幕が始まるところで、大勢の観客が詰めかけていた。

 つい先刻の一四二三、《女王派》が一連の破壊活動について犯行声明を発表。歌劇座の観客については劇場の天井が崩落したこともあり、現在も治安警察隊と正規軍、国家施療院が共同で被害者の救出活動を行っている。数は不明瞭だが、相当数の死傷者が出ているとみられる」

 ――エレノアの朗々とした声が、部屋のなかに響きわたる。

 私は隅に置かれた椅子の上で縮こまりながら、彼女の声を聞いていた。襲撃を受けた喫茶店から、私はクラエスによって軍の施設へと連れてこられていた。

 首都クテシフォン、皇帝スルタンの宮殿が位置し、一般人は検閲なしには立ち入ることのできない街区ハーラ。その奥地、古い礼拝施設モスクを改修して作ったという場所の奥では、エレノアが待ち構えていたのだった。――先ほど、クラエスが連絡を取ったのも彼女相手だった。

 エレノアは椅子に座り、広々とした執務机に両肘をついている。

 視線の先には眼前に浮かび上がった青いホログラム映像がある――その中身は、クテシフォンの精緻な地図で、幾つかが赤くマークされていた。

「襲撃されたポイントはいずれも半径2キロ以内にある。昼頃の、人通りが多い時間帯を狙っての計画的な犯行だな。

 ――まったく、夜を徹しての作戦を終えてダマスクスから帰ってきたかと思えばこの仕打ちか。今のところ皇帝直属軍イェニチェリにお声はかかっていないから、私はなにもしない。安心したか? クラエス」

「時間の問題でしょう。治安警察隊はこのていたらく、皇帝陛下は事態を収束させるために貴方というカードを切るでしょうね」

「ハハッ、まったくいい迷惑だな。《女王派》のこの暴れまわりぶり、われらが父上も故郷で悲しんでおられるにちがいない」

「……なんにせよ、状況は理解しました。昨日今日と混乱状態が続いていますから、あなたに聞くのが一番早くて正確だった」

「まだ〝休暇中〟のつもりか? この混乱ぶりだ、どうせすぐに引っ張り出されるぞ。このまま戻ってきたらどうだ?」

 膝の上に置いた紅茶のグラスを眺めながら、私はふたりの会話を聞いていた。盗み聞きをする分には、今回の『襲撃』は《女王派》によるものらしい。

 すくなくとも、《難民解放戦線》が私の義足を狙って何かを起こしたわけではない、ということは理解できる。――だからといって、この胸の動悸が収まらない理由にはならないが。

 ――銃声音。悲鳴と、耳をつんざいた慟哭の声。

 グラスに注いだ紅茶が揺れた。

 こぼれ落ちないように握りしめれば、赤い水面に自分の目が映り込んだ。

「――ユリアナ」

 ふと呼びかけられて顔を上げれば、クラエスが目の前に立っていた。「行きますよ」という呼びかけにうなずき、ふらりと立ち上がる。 

 エレノアに対してぺこりと頭を下げて、彼女の執務室を出た。部屋を出た扉の外側には、皇帝直属軍イェニチェリを示す悪竜のタペストリーがかかっている。

 部屋の外にある回廊は中庭に面していて、傾きかけた陽の光が射している。まもなく日も暮れようという時間帯だった。

 クラエスに腕を引かれるまま、閑散とした柱廊を歩く。

「ねえ、クラエス。……手当てをしなくていいの?」

「たいしたことはないので、あとで自分でやりますよ。……今は移動しましょう。貴方を安全な場所に連れていくのが先決だ。こうなったら、このままファランドール家の屋敷でも……」

 その返答に、私は足を止めた。胡乱げな顔をして振り返ったクラエスを睨みつけて、「いやよ」と声を張り上げる。

 クラエスは不愉快そうに目を細め、舌打ちをした。

「今は貴方のワガママを聞いている場合じゃないんですよ。《女王派》の動きはわれわれにも予想はつかない。皇帝直属軍イェニチェリに掃討命令が下らない限りは、事態も収束しないでしょう。私は貴方の安全を第一に考えなければいけない身の上なんです」

「そうじゃないわ。さっき、怪我したんでしょう? 傷の手当てくらい、ここでしていけばいいじゃないって話よ。私ってそんなに聞き分けが悪いことを言っている?」

 クラエスは肩をすくめ、大げさに溜息をついた――「私は信頼に値しないのでは?」そう小言をこぼされるが、それでも私が引かないと分かると、「わかりました」とうなずく。

「医務室に寄りますから。それでいいんでしょう」

 ようやくその答えを引き出すことができて、私は大きくうなずいた。


 ◆


 医務室とはいっても、医師や看護師が常駐している場所ではないようだった。施設の隅に設けられた小部屋は、医薬品をそろえたキャビネット、簡易ベッドと椅子があるくらいで、言うならばアレクサンドリアの女学院の保健室と大差がないレベルだ。ここは軍の事務機能を集めた場所のようだし、あまり本格的なものは必要ないのかもしれなかった。

 クラエスが自分で手当てをしようとするので、私は彼をベッドの上に座らせた。キャビネットの中から救急箱を探し当てると椅子をベッドの正面に置き、自分はそこに腰を下ろす。

「……っ」

 クラエスは私に背を向けると、おもむろに上衣を脱いだ。血まみれになった襯衣シャツがあらわになり、思わず息を呑む。まだ細かいガラス片が突き刺さったままで、血の範囲は先ほど見たときよりも広がっていた。

 ――どうしてこんな状態で、自分の手当てを後回しなんかにできるのだろう。

「貴方、手当てなんかできるんですか?」

「人並み程度には……人並みがどれくらいか、わからないけれど」

 救急箱の上でさまよう私の手元を見て、クラエスが失笑する。

「ピンセットがあるでしょう。破片が残っていたら除いてくれませんか。さすがの私でも背中には目がないので、ひとりではやりづらい」

 言われるがまま、消毒済とラベルの貼られたフィルムを破り、ピンセットを取り出す。そして恐る恐る、視認できる範囲のガラス片を抜いていった。ほとんどは爪の先ほどもない大きさだが、それでもけっこうな数が用意したトレイに小さな山を作った。――ゾッとする。

「だいたい、抜けたと思うわ。ほんとうに小さいものが、傷のなかにまで入っていたら分からないけれど……」

 すると、クラエスは無言で襯衣シャツを脱いだ。目が痛いほどに白い肌が視界に入る――顔を背けるわけにはいかない。そこから先は黙々と、アルコールを滲みこませた脱脂綿で傷口を消毒し、ガーゼを貼った。目立つ傷が数か所。あとはほとんど目に見えないくらい小さな切り傷で、深いものはない。

 もしあのとき大きな破片が降ってきて――それが突き刺さっていたら。想像するだけで、胸が苦しくなった。

「――ねえ、痛くないの?」

 クラエスはずっと無言だった。

 不安をおぼえてそう口にすれば、間を置いて、彼はおおげさにうなずいた。

「痛いですよ。ユリアナ、貴方も淑女レディならもう少し丁寧にしたらどうですか」

「じゅうぶん丁寧にやっているつもりなんだけど……。悪かったわね。でも、今まで貴方が私にした仕打ちを考えたら泣いて感謝してほしいくらいだわ」

「そうですね。ありがとうございます」

 間髪入れず返ってきた言葉に、思わず脱脂綿を掴んだピンセットを取り落とす。

「……お、お礼を言うならこっちのほうよ!」

「……なに怒っているんですか?」

 眉をひそめて、クラエスが振り返る。

「だって、私をかばったから怪我をしたんでしょう……? それなのに……」

 血まみれの襯衣シャツを思わず握りしめながら、私はうなだれた。考えがうまくまとまらないうちに、思ったことを口走ってしまう。

「私、あなたのことがわからないわ。あなたって性格は悪いし、すぐに手が出るし、ひどいことばっかり言うくせに、どうしてこんなふうに……。あなたは何を考えて、何をたくらんでいるの? 私の命を守らなくちゃいけないって言ったけど、その理由って――こんなふうに怪我をすることに、見合うことなの?」

 「信頼に値しない」――それが私がクラエスに対して下した判断だ。だって彼は私に謂れのない濡れ衣を着せ、時に暴力を振るいさえしたのだから。しかし同時に、その行動は「私の命を守るため」でもあったという。

 その理由を、クラエスは明かさない。

 私は後見人バラドという大きなよりどころを失って、それどころか、《難民解放戦線》であるとか、義足のことであるとか――自分では関知していなかった大きな渦のなかに投げ込まれてしまった。何を道標みちしるべにすればいいのか、それすらも分からない状況のなかで、ついには身近にいるひとさえも傷ついてしまった。その事実を突きつけられ、すくなからず、ショックを受けていた。

 ――いったい、今の私が歩かされている道はどんなもので、どこへ続いているのだろう?

 クラエスの手が伸びて、私の顎をすくいあげた。視界に、澄んだ淡青色の目が映る――もつれた金髪はわずかに血が絡んで、むぞうさに華奢な肩の上を流れていた。

「……私としても、どう言っていいのかわからない。私が貴方を護ることは皇帝直属軍イェニチェリの職務である以上に、私個人の選択の結果でもある。きっと、貴方はどこにも味方はいないと思っているでしょうが……」

 クラエスの言葉は要領を得ない。しかし彼の声は、ふだんよりも上ずって響いた。私はじっと、彼の瞳を見つめ返すことしかできなかった。

「みえないところに、貴方の絶対的な味方はいる。――それだけは、忘れないでください」

 ――たとえこの先、どんなことがあっても。

 私は目を瞬き、投げかけられた言葉を胸の中で反芻する。

 ――味方、なんて。

「……あなたは味方じゃない?」

「そう思わないほうがいい。他人に寄りかかられるなんて、まっぴらごめんなんです。――そしてそれは、貴方のためにもね」

 味方という単語そのものは甘く響いた。私にとっては、喉から手が出るほど欲しいもののはずだ――かつてのバラドという存在のように。そう冷静に分析をするのに反して、なぜか、私の心はかわいていた。

 傷が痛むのか、クラエスは一瞬、苦しそうに片目をすがめた。しかしすぐにいつもの無表情に戻ると、淡々と言葉を続ける。

「いいですか、ユリアナ。誰に心を許してもいけない。信じてはいけない。いざというとき、自分の心身を守れるのは自分だけだ。他者を切り捨てることに迷ってはいけない。生きるためには、悲しみや痛みに盲目になってはいけない。あたたかい過去にすがってはいけない。

 ――鉄の心を持たなければいけない。それが貴方のできる最良の選択だろう」

 そう言って口を閉じると、クラエスは私から顔を背けた。そして皺だらけになった襯衣シャツを奪い返すと汚れたままのそれを身につけ、先ほどと同じように上衣ジャケットをはおったのだった。


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