猫又と野良猫
二十八年という歳月は、猫にとっては物凄く長く、果てしないものだ。果てしなくて、限りがない様に思える。いつ終わるのかと憂鬱になり始め、いつ始まったのかさえ忘れてしまう様な、そんな長い時間なのだ、二十八年というものは。
そんな長い歳月を「寝子」と名付けられた猫は生きていた。
普通、二十年以上も生きていれば、頭の冴える物知りな猫又となっているのだが、寝子はそうでもなかった。
一日の殆どを家の中で寝て過ごし、グータラと飼い主に甘えて生きていたこの猫は、そこらを歩く若い野良猫よりも、世間知らずで馬鹿だったのだ。
「馬鹿の中の馬鹿。馬鹿の象徴であり、馬鹿の鏡とも云える猫だよ、お前は」
長年寄り添っている飼い主からも、そう笑われる始末だ。
馬鹿にされるのに耐え兼ねたこの猫又は、ちょうど一年前、初めて家の外を出たのであった。そして外へ出る事により、家の中では学ぶ事の出来ない、様々な事を経験しようと思ったのだった。しかし、彼女が馬鹿で世間知らずである事には変わりなく、彼女は野良猫達に崇められている、電柱に描かれた『黒猫様二号』のすぐ隣で脱糞してしまった。
「ああ、最悪だ」
愚痴を吐きながら、寝子はすぐにこの事を隠蔽しようとするのだが、更に最悪な事に、像を壊してしまった場面を目撃した猫がいたのだった。その猫は、気の狂った人間の笑い声に似た、背筋の凍る鳴き声をにゃーんと上げ、馬鹿な猫又に歩み寄り、
「毎日食い物をワタクシに持ってきてチョーダイね」
と脅した。人間でいう所の「金を持って来い」だ。要求されているのが、食べ物だから少々面白可笑しく聞こえるが、野良猫にとって食べ物は一日を生き延びる故には非常に大事な物であり、最も尊い物なのだ。『黒猫様二号』よりも、余っ程大事な物だ。
そして、これが馬鹿な猫又・寝子と探偵気取りの三毛猫・ミケランジェロの出会いだった。
——約一年後。
南池袋にある古家の屋根に、猫又の寝子と野良猫のミケランジェロは、寝子の飼い主から夕食として貰ったサバを食べながら、だらりと寝そべっていた。
駅周辺や繁華街は二十四時間、喧騒に満ちた池袋ではあるが、雑司ヶ谷や目白の近くになると、途端に街は静まり返る。雑司ヶ谷と隣り合っている南池袋に、この二匹はだらけていた。
水仙の芳香が微かに匂い、鼻をくすぐる。サバを食べた事により腹が膨れ、更に十二月にしては暖かい夜風が優しく吹きつけているせいか、心地良い眠気が二匹をそよそよと襲っていた。
そんな平穏な時間を一気に吹き飛ばす、鈍い音が辺りに響き渡る。
どんっ。
「にぎゃあ!」
驚きのあまり、寝子は人間の姿に化けながら、屋根から転がり落ちていった。それに対してミケランジェロは冷静にのそりと起き上がり、転がり落ちた寝子の顔に着地した。
水仙と排気ガスの匂いよりも強烈な異臭が二匹の鼻腔をくすぐった。
日は昇ったばかりで、辺りはまだ暗い。あの音と匂いの正体が一体何なのか、彼女達はまだ知らなかった。
「何が起こったんだろ」
踏まれた鼻をさすりながら、寝子が呟く。
「ふふーん、事件の匂いがする!」
嬉々とした声音でミケランジェロは囁くと、異臭の元へとかけていく。好奇心旺盛な彼女は、未知のものに興味があった。そして目の当たりにしたのが、三階建てのビルの横で仰向けに倒れた、口から異臭を放つ、北欧系の顔をした中年男性だった。
これが今回の物語の始まりである。
「それで、その男性を見つけた後はどうしたんだ?」
自分の飼い主にそう聞かれ、寝子は男性を見つけた後の事を思い浮かべる。
衝撃的な事件の後、寝子はミケランジェロを連れて飼い主のもとへ帰り、その事件の事を飼い主に説明していた。寝子は人間に化けたままだ。
「びっくりしてたら、その人の部下だって云う人達が現れたんだ。それでその人達は、落ちてきた男の人が、サンタクロースだって云ってね。彼はしばらく入院するかもしれないから、臨時のサンタクロースになってくれって、頼まれたの。あたしが丁度人間の姿をしてたから、人間だって勘違いしちゃったんだろうね」
「へえ、生きてたんだ。ミステリー&サスペンスの予感がしたのに」
飼い主は感嘆の声を上げると、テーブルの上に置かれているビーフジャーキーを手に取った。一口かじると、話を続ける。
「落ちてきた人がサンタクロースってのは凄いね。その男性がサンタクロースだという事は、背の低い人達はエルフかい?」
「えーんんー、忘れた」
寝子は間の抜けた様子で、首を左に傾けながら耳の裏を掻く。飼い主である『教授』とミケランジェロは大きく溜め息をついた。
「教授さん、あの人達は自分がエルフだって云ってたよ。一番偉い立場にいるエルフはネリネ。彼の部下が、ラライとドストロフ、そしてガッヒント」
ミケランジェロは教授に向かって鳴いた。教授は猫語は理解出来なので、寝子が通訳をする。
「成る程。サンタクロースの部下である四人のエルフ達に、臨時のサンタクロースを頼まれたって訳か。それで、寝子はそれを引き受けたのか?」
教授は、二本目となるビーフジャーキーを手に取りながら問いかける。
「うん、引き受けたよ」
「まあ、面倒くさがり屋のお前が引き受ける訳——えっ!!?」
「引き受けようか、どうしようかって考えるのが面倒——にゃっ?」
飼い主と飼い猫の一人と一匹は、困惑した表情のまま見つめ合い、固まってしまった。