第四話〜あの時〜前編
近づいてくるヒロから逃げるように後退りながら、ヨシトは己の中心を痛いほど意識していた。
あの日から、無理やり押さえつけていた衝動が、いま一時に襲いかかる。
ヒロに対して性的な感情を持っていなかったからといって、ヨシトが異性に興味ないわけじゃない。
ただ――
あの日、自分ちの二階のベランダから、低い植え込み越しに見た光景が、常に枷となっていた。
開かれた窓の向こう、カーテンの隙間、常夜灯に照らされて。
裸で組み伏せられて、激しく揺れる黒髪の間から覗いたヒロの顔は、確かに苦痛に歪んでいた。――そう見えた。
(助けなきゃ)
だけどヨシトは動けなかった。
友人の家で、アダルトビデオを見たことがある。
ヨシトと同じく童貞であるはずの友人がしたり顔で『うわぁ、やらしーな。こんなことされて喜んでるよ』、そういったときの、画面の中の女優の顔。それと同じ表情に見えた。だから。
仔猫の泣き声が、いっそう高まった。
ヒロは、何かから逃れようとするかのようにのけ反った。
そして、涙に濡れた目が――
(泣いてる。助けなきゃ)
――ヨシトの瞬きを忘れた目とあった。
ヒロは確かに、ヨシトに気づいたはずだ。
仔猫の泣き声は続いているのに、彼女の身体はずっと揺れ続けているのに、ヒロの目は、その奥の瞳は、その中心は、ヨシトを捉えて離さない。
(助け……なきゃ)
(ヒロが泣いてる)
(助けなきゃ)
(どうやって?)
(ここから飛び降りて)
(ケーサツ)
(表に回って玄関から)
(『喜んでるとき――)
(父さんに)
(大声を出せば)
(――女は泣くんだぜ』)
(へぇー、ほんとかよ?)
泣き声はだんだんと高まり、揺れはさらに激しさを増して――終わった。
だけど、最後の瞬間まで、ヒロはその瞳をヨシトに向けていた。それが、ゆっくりと閉じられる。
いたたまれなくなって、部屋の中に入ろうとしたヨシトの視界にはじめて、ヒロの上に乗っていた男の頭部が映った。
とてもよく知っている、隣のおじさんの顔。
ヒロの、父親の顔……
次の日の朝、ヨシトはバス停で、ヒロと会った。
「おはよう」
とっさに目を逸らしかけたヨシトに、ヒロは声をかけた。
いつもと変わらない、明るい声。明るい笑顔。
「……おはよう」
ぎこちなく、ヨシトも応える。
「ね、宿題やった? 後で見せてよ」
「う……うん」
昨夜の事は、もちろん言い出せなかった。
父親とあのような関係になることがよくないってことは、ヨシトも知っていた。
たとえそうじゃなくても、普通は人に見せるものでも、見られて嬉しいものでもないだろうと、想像はついた。
助けられなかった、助けなきゃいかなかったのかすら判断できなかった、そんな後ろめたさもあった。だから、いつもと変わらないヒロの態度が嬉しかった。
いや、都合が良かった。
少し考えれば、分かったはずなのに。
昨夜のことを気取らせまいと、ヨシトはかえって挙動不審になっているのに、どうしてヒロはいつもと変わらないのか。
もし、ちゃんとヒロの顔を、ヒロの目を正面から見ることができていれば。
彼女が壊れかけていることに気づけたかもしれないのに。
だけど、その代わりに、ヨシトはその夜の出来事を『なかったこと』にした。
ヒロのことを恋愛対象としてみるには、ヨシトはまだ子供だった。意識するには、一緒にいる時間も長すぎた。
だからといって、彼女が特別な人間じゃなかったわけじゃない。何も変わらなかったわけじゃない。
顔を合わせていれば、ヒロの笑い声に泣き声が重なって落ち着かない。
夜になれば、また泣き声が聞こえるんじゃないかと耳を澄ませた。
あの光景を思い出して、オナニーもした。
ベランダから隣の窓を窺うことさえした。
そのぶん昼間は、以前と変わらぬ、何も見ていないふうを装った。
ヨシトの目には、ヒロも以前と変わらないように見えた。
それは、あの光景が一度限りの事ではなく、幾度も繰り返されてきた証に思えて、ヨシトの心をざわつかせたが、それも隠し通した。――そのつもりだった。
もしヨシトが、自分を繕うのではなく、ヒロを見ることに心を砕いていれば、気づいたはずなのに。
彼女が、いつも以上に、不自然なくらい、ヨシトの姿を目で追っていたことに。
いや、それでも気づくことはできなかっただろうか。
目が合いそうになるたびに、ヨシトは慌てて目を逸らし、そしてその度に、ヒロの目が哀しそうに伏せられたことに。
いつもありがとうございます。
ちょっとダーク?
でも、いいよねぇ。