第三話〜坂道〜前編
「あちー。ぜんぜん涼しくなんねえな。ジュースのみてぇ」
左手でパタパタと顔を扇ぎながら、ヨシトはぼやいた。犬みたいに舌を出して、わざとらしくハァハァと息をしている。
「さっき飲んだばっかりじゃない」
「うるへー。鞄全部人に待たせやがって。くそー。二、三本買っときゃよかった」
肘にかけていたヒロのトートバッグを振り回して、道を見上げる。変なところでまじめなヒロの鞄には、一日の授業で使う教科書の類が全部入っていて、ずしりと重い。そして、この先国道は山間に入り、ちょっとした峠と短いトンネルを越えないといけない。
夜になっていっそう湿気を帯びた空気は、トラックの熱い排気ガスと混じりあって、薄いシャツを素肌に張り付かせる。
さらに五分ほど登ったとき、ふう、と息を吐く声が聞こえた。
その声に釣られて目をやると、広がシャツをつまんで、はたはたと風を送り込んでいる。
トラックのライトがボタンをはずした襟口から射し込み、汗ばんだ胸元と白い下着を照らし出した。ヨシトは意識せぬまま、目を逸らす。
バスでならあっという間の坂道も、いや、だからこそ終わりのない急坂に思えて、疲れをよぶ。スポーツに縁のないヒロには余計に堪えるのだろう――それはヨシトも同じだったが。
「疲れた。休みたい」
「なに言ってんだ。雨が降り出したらどうすんだよ。早く帰らないと」
見上げれば相変わらず月はない。鈍色の雲の動きは見えないが、生暖かい風は、少しずつ勢いを増してきていた。
「うわ!?」
ヨシトが空を見上げている隙に、ヒロが彼の前に回りこんでいた。それに気づかなくて、彼女の背中にぶつかってしまう。
「なんだよ」
「押して」
「はぁ?」
「背中押してよ」
肩越しに振り向いて、ヒロが言う。憎たらしいことに、ニコリともしていない。
「てめ、誰のせいで歩かなきゃいけねえって思ってんだ」
「ヨッパライオヤジのせい?」
「はいはい、そうだねぇ」
ヨシトは諦めてトートバッグを肩にかけると、よいしょ、よいしょとヒロの背中を押し始めた。
「うわぁ、らくちん」
「そ、そりゃ……よかった……ネ、と」
ハァハァと息を切らし、ぶつくさ言いながらも、ヨシトは押すのをやめようとしない。
掌に伝わるじめついた体温も、疲れた身体にのしかかる重みも、なぜか心地よい。
ヒロは全く自分の足で登ろうとはしていない。それどころかそっくり返って、完全にヨシトに身体を預けている。
もしヨシトが不意に押す手を外せば、きっと彼女は背中をアスファルトに打ち付けるだろう。
そこに現れた信頼が嬉しい。それを裏切ることは、二度とできない。
――二度と?
ヨシトは頭を振った。――俺はヒロを裏切ったことはない。
――だけど……仔猫の泣き顔が――
「ちょ、ちょっと、止めてよ」
突然強い力で押されて、ヒロが悲鳴を上げた。
「もたもたすんなよ」
――網膜から消えない。
しかし、ヨシトの息が続いたのは、ほんの三十秒ほどだった。膝に手をついて、立ち止まってしまう。肩からずり落ちたヒロのバッグが、地面にぶつかる寸前で、手首に引っかかる。
「やっぱりあんた、馬鹿」
「るせ」
腰に右手を当てて睨みつけているヒロの息も、途中からほとんど自分の足で走ったからだろう、肩を揺らすくらいに上がっている。
「なあ……」
しばらく呼吸を整えてから、ようやくヨシトは顔を上げてヒロを見た。白い肌を桜色に上気させ、その上に汗に濡れた黒髪を張り付かせて、ヨシトを見下ろしている。
「なに?」
「けものって、なんだ?」
雨の前触れの風が、どう、と吹き上げる。それは制服の端々を揺らすものの、重い髪はなびきもしない。
「それは私が訊いてるの」
口元に絡む髪の毛を、煩そうに掻き退けて、それでも少し心地よさそうに、ヒロは目を細める。
湿度の高い、生温い風でも、汗ばんだ肌を少しくらいは冷やしてくれる。
「いや、そうじゃなくて……っつか、そうなんだけど」
ひとつ大きな息を吐いて、やっとヨシトは身体を起こした。ヒロのバッグを担ごうと背中にまわすが、自分のディバッグに跳ね返されて、ちょっと肩を落とす。
「なんで、そんなことを訊くんだってんだ」
しかしヒロは、すぐには答えずに踵を返し、ゆっくりと坂を上り始めた。
わ、間に合わなかった(汗)
お付き合いいただき、ありがとうございます。
次回は、きっと水曜日の更新です。
きっと……?
うん。きっと(泣)