第一話〜最終バス〜後編
「こんなムードもないとこでチュウしようても、ダメやで。そりゃ彼女も嫌がるわ」
しわくちゃなねずみ色のスーツを着た中年男の濁った目には、ゴリラ顔のマセ餓鬼が、隣に座る少女にキスをしようとして拒まれたように見えたのか。
「そんなガキより、おいちゃんとせんか? おいちゃん、キス、うまいんやで。めろめろにとかしたるわ。嬢ちゃんまだそんなん知らんやろ――」
男は、ヒロに覆いかぶさるように、ますます身体を寄せてくる。甘酸っぱい反吐の匂いが、はっきりと漂ってきた。
――臭い口ぃ開くなっ、こんボケがっ! ヨシトはそう一声怒鳴ると、席を立って男の胸ぐらをつかみ……
ハァ。
出来もしないことを空想する己を、小さなため息であざ笑ってから、そっとヒロの様子を伺う。
「あ……」
ヒロはちょうど、目の前にだらしなくぶら下がっている、ペンシルストライプのネクタイに両手を伸ばしたところだった。
なにを期待したのか、酔っ払いのにやけ面が、さらに崩れ……
「おわっ、やめろっ――」
「をがっ」
ヨシトが静止の声を上げるのと、ヒロに思いっきりネクタイを引っ張られた男の口から苦鳴が洩れるのが、同時だった。
どちらかといえば小柄なヒロの、非力な腕で引かれたくらいでは、並の男なら揺るぎもしないだろう。だけどそのときは、酒の酔いとバスの揺れが、男の体から平衡感覚を奪い去っていた。
だるま崩しよりもあっけなく、座席の間の狭い隙間、ヒロとヨシトの膝の上に崩れ落ち、突っ伏す。
安い整髪料と脂でべとべとの髪を振り乱して、男がもがく。
その髪を、ヒロは躊躇いもせずに鷲掴みにし、二人の上から引き剥がそうとする。もちろん、ヒロの力で持ち上がるほど、肉と脂肪の塊は軽くはない。しかし今度も、バスの揺れに起き上がろうとする男の力が合わさって、“軽々”と跳ねのけられる。そして、反対側の座席に座るOLにぶつかって、とうの立った悲鳴を上げさせた。
「なぁおい、やめろって……」
『危険ですからぁ、席にお着きくださいぃ』
ヒロを静止しようとするヨシトの声に、運転手の間抜けな車内アナウンスがかぶる。
「……っひぃ」
そんな声は、立ち上がったヒロの耳には届いていないのだろう、擦り傷だらけのローファーの踵が、通路に腰を落としたまま波打つ酒袋に、三度、食い込む。いつもアスファルトを蹴とばすときと比べても、まるで容赦がない。男は身体を丸め、動かなくなった。いや、口元を押さえ、喉の鳴らしながら、震えている。口から酒が零れるのを押し止めようとしている酒袋――いや、酒ガメだ。
手をつけらず、諦めたヨシトがぼんやりとそんなことを思った瞬間、ヒロが壁を殴りつける音が、ピンポーンと響いた。
『次、停まります』
「降りる」
ヒロはそうぼそりとつぶやくと、座席の間に落ちたバッグを拾い、うずくまったままの男をまたいで降り口へと向かう。
「え? ――って、ちょっと待てよ」
彼女の気まぐれには慣れてはいるが、二人の降りるはずのバス停は、まだまだ先だ。こんなところで降りたら、トラックばかりが通う国道を、小一時間は歩かなくてはならない。だからよしとは、ヒロを掴まえようと慌てて腰を上げ、そしてすぐに断念した。
ヒロは、ヨシトの言うことなら――ヨシトの言うことだけを――聞く。
だから、家の近くのバス停までおとなしく座ってろと言えば、ヒロは文句を言いながらも、それに従うだろう。
しかし、ほかの乗客たちの、直接的ではない、だけど確かに感じる、真っ白の視線。常日頃から針の筵になじんでいるとはいえ、後十数分を耐えるよりは、その十倍の時間を歩いたほうがましだ。
だったらヒロの気まぐれは、珍しくヨシトにとって都合がいいともいえる。
だから、速度を落とすバスにつんのめりながら、ヨシトはヒロの後ろを追った。
うずくまったままの酒袋から、すえた酒がついにあふれる音を聞きながら。