第一話〜最終バス〜前編
「ねえ、けものってなに?」
「……あ?」
道路に背を向けて、バス停の時刻表示板にもたれていたヨシトは、ケータイを覗く顔も上げないまま、返す。
「けものってなに?」
しかし繰り返し問われ、あてどなくウェブの上を探っていた指を止めた。もともとなにか目的があって、ネットをみていたわけじゃない。ただ、手持ち無沙汰な時間を埋めるための習慣になっている、それだけだったから。
「ケモノっつたら、ケモノだろ」
そう言って、ヨシトは目を上げた。
狭い、肩を触れずにすれ違うのがやっとの歩道をはさんで、斜め向かいにヒロがいた。漆黒の髪に縁取られた白い顔が、真っ直ぐにヨシトへと向けられていた。梅雨明け前の生温かい風が、輪郭を揺らす。
その顔に、ヨシトは思わず息を呑み、見とれた。家族の、いや、自分のそれよりも見慣れたその顔が、いつもと少し違う気がして。だけど、その正体に気づく間もなく、次の瞬間にはふいと背けられてしまう。
ファン、とじめついた空気を揺らして、警笛が響いた。最終のJRバスが、ヘッドライトをぼんやりと光らせながら、のたのたと近づいてくる。その光が、ヒロの目を暗く輝かせた。
その音を合図に、サラリーマンや学生のなりをした酔っ払いたちが、わだかまった闇の中から、ぞろぞろと這い出してきた。みんな暗い眼をして、バス停に停まろうとしているバスを見上げている。
そんな夜の生き物たちを尻目に、ヒロがステップを駆け上がる。そして、あっかんべぇをする整理券を二枚引っこ抜いて、八割がた埋まっている車内の空席へ向かって突進する。その三歩ほど開いた距離をヨシトはゆっくりと追いかけて、彼女の横をすり抜ける。ヒロは、ヨシトが二人掛けの窓際の席に座るのを待ってから、その隣の狭い間隙に、細い身体を滑り込ませた。
そんな二人を見れば、当然周囲の人間は彼らが付き合っていると思うだろうし、クラスメートたちも二人を公認のごとく扱っていた。だけどヨシトはヒロのことを、自分の彼女だなんて思ったことは一度もない。今みたいに、当たり前のように身体を密着させてくるヒロに、性を感じたこともない。
妹のようなものかと、もし誰かに問われれば、間違いなくヨシトは首を横に振る。
妹は一人いる。今十四歳。その歳で濃い化粧を覚え、零時前に家にいることはほとんどない。まるで両親の機嫌を損ね、兄に八つ当たりをさせるために存在するような、ヨシトにとってうざったいだけの妹。
そんな彼女でさえ、もしヒロのようにくっついてこられれば、女を意識しないではいられないだろう。
じゃあ、男の友人みたいなものか……
体が大きく揺さぶられる。最終に乗り遅れまいと、必死に、しかしよたよたと走ってくる酒袋たちを飲み込んだバスが、発車した。その揺れに合わせて、ちらりとヒロの横顔を盗み見る。
ヨシトには、女性に対する審美眼が、どうやら欠けているらしい。クラスメートたちがみんな持っているらしい美醜の基準が、彼にはいまひとつわからない。
そんなヨシトから見ても、ヒロは美人なんだろうなと思う。彼女に対する悪口は、数え上げればきりがないけれど、見た目に関したものだけは、聞いたことがない。
――だからなんだってんだ。外見なんかが人の価値を決めるわけじゃない。
ヒロが振り向きそうな気がして、慌てて彼女の横顔から目をそらし、反対側に顔を向ける。代わりに目に映るのは窓ガラスに浮かぶ、凡庸というには少し類人猿に似すぎている、己の顔。そして、その後ろから覗き込む、ヒロの目の幻像。それと目が合ってしまい、仕方なく再度振り向く。
「なによ」
「な……なにがだよ」
息がかかるほど近くにある、ヒロの顔。そして、目。
――やっぱり男とは違う。
陰に沈むその奥の瞳に目を奪われながら、ヨシトは思う。少なくともヨシトは、こんなに間近で、野郎と見つめ合いたくはない。だけど。
ヨシトはふと、妙な感じに襲われた。いつからだろう。常に苛立ちと、怒りと、目を通じてさえ己の心をさらけ出すことを拒むかたくなさを宿すその瞳が、今日は弱い気がする。バス停でもわずかに覚えた違和感。不審を太い眉に乗せて、思わず覗き込むヨシトの視線を、ヒロは、また俯くことで、避ける。ヨシトは戸惑った。いつもなら、目を逸らすのは、彼のほうなのに――
「ククッ――」
二人の上から、不意に嘲笑が降ってきた。腐った柿のような匂いが強くなる。
「ンなんやあ、にいちゃん。フラれたんかぁ、あ?」
いやらしげなガラガラ声。一呼吸おいてから見上げれば、四十絡みの薄汚い酒袋がそこにひとつ、座席の取っ手に引っかかっていた。