コーヒー牛乳
ドガッと派手な音と共に、後頭部に衝撃が走った。衝撃のままに前のめりになった俺は、そのままおでこを自動販売機にぶつけた。何が起こったかわからず、とりあえず一時停止をした。今、俺の状況は斜め60度ほどである。体をまっすぐにキープ、支えは自動販売機のガラスにくっつけたおでこのみ。一点に体重をかけるので、圧迫感がおでこを襲う。
じくじくと痛む後頭部、弾むボールの音、背後から「…すみませんッ」と謝られたことで、何やらボールをぶつけられたのだと気付いた。
いい加減体勢が辛くなって、斜め60度をやめた俺は、自動販売機でコーヒー牛乳を買いに来たことを思い出した。俺は所持金全財産100円を右手に握りしめ、あのほろ苦くも甘いコーヒー牛乳を買いに来た。
「……??」
買いに来た、のに。右の手の平を眺めて、首を傾げる。あれ、俺の所持金全財産はどこにいった?行方不明の100円玉を探そうと辺りを見回すが、銀色は見えない。もしかして、ボールをぶつけられたときに落としてしまったのか。嫌な予感がして床に這いつくばり、自動販売機の下を覗いた。薄暗い自動販売機の下、埃がたまったその中に。
「…う」
悲しくなった。全財産が100円というのにも、それを自動販売機の下に落っことしてしまったことにも、それを取ろうとして床に這いつくばる自分自身の姿を想像することも、全て。
「くっそう」
誰かに借りるか、という選択肢が浮かび、立ちあがると、後ろに女の子が立っていた。小柄なその子は、きょとんとしていた。その子には見覚えがあった。確か、同じクラスの女の子。その子は目を丸くして、それから首を傾げた。何をしているんだろう、そんな表情だった。
俺がじっと見つめていると、女の子はハッと我に返って全力で顔をそらした。何故かはわからないが、急に焦って慌ただしくなり、眉をひそめる。俺は女の子の不可解な行動に首を傾げると、「あ」と声を上げた。
クラスメートならば、お金を借りることができるのでは。返すのも簡単だし、何よりも話した事がない人なら仲良くなるきっかけにだってなる。一石二鳥だ、俺は我ながらナイス提案だと笑みを零した。
「あのさ、よかったらお金貸して」
俺の一言に、女の子は何故かびくっと肩を揺らした。もしかして、怖がられている?身長の小さな彼女を見降ろす形になりながら、ふとそんなことを考えていると、女の子はふるふると震える握りしめた拳を俺に差し出した。俺が手を出すと、女の子は握り拳を解いて中にあった100円玉を、俺の手の上におっことした。そしてそのまま、一目散に去っていった。あれ、あの子自動販売機に用事があったんじゃなかったんだっけ。そう思いながら、俺はありがたく、長い間強く握りしめられて温かくなった100円玉を自動販売機にいれた。
のちのち気付いたこと、自動販売機前でお金を貸してくれたあの子は人見知りが激しかった。だから、俺が話しかけると極度に怖がっていた。過敏に反応して、怖がって、逃げた。ちっこい体が機敏に逃げていく姿を見て、小動物だと思った。
彼女はあまり、コミュニケーションが得意ではないらしかった。つまり、クラスメートの誰かと話している姿を見ることが、あまりなかったのだ。むしろ俺が知っている中では、特定のクラスメートの女子一人と喋ったり、一緒に行動したりする姿しか、見ていない。そして、決まって一人になるのは昼休み、そのクラスメートが彼氏の下に向かう時間だった。100円を返すタイミング―――仲良くなるチャンス―――はここだ、と思った。
「お金さんきゅ。おかげで、日課のコーヒー牛乳を諦めずに済んだ」
たったそれだけの言葉に、彼女はとても怯えた表情をした。それから何かを言おうとした彼女は、喉に言葉を詰まらせ、やがては言うのを諦める。眉をひそめて、口を結び、難しい表情を浮かべて頷いた。それから差し出された小さな手に、俺は100円玉を置いた。
それから毎日毎日、何かあるごとに話しかけるようになった。そのたびに彼女は体を硬直させ、しどろもどろになりながら、頑張って応えてくれる。朝の「おはよ」から、夕方の「またな」まで、たくさん言葉を交わすようになった。話してるときに、彼女がちょっと楽しそうにしてくれていると、小さくガッツポーズをした。目立つことのない彼女を、目で追った。彼女が、あのとき自動販売機でいちご牛乳を買いに来ていたことを知った。どうでもいいことでも、話しかけられるようになった。少しでも仲良くなりたい、と思うようになった。
「…コーヒー牛乳って無理」と、彼女は無意識に呟いた。口にくわえたいちご牛乳のストローから、ピンク色の液体を吸う。こくん、と音を立てて、喉を動かした。いちご牛乳の甘い匂いが漂う。
「苦いし…」
「苦くないよ、まぁいちご牛乳よりは苦いけどさ」
「!?」
どうやら独り言だったらしく、俺が言葉を返すと目を丸くして肩を揺らした。俺は、さりげなく彼女の近くの席に腰を下ろした。
「びっくりしすぎ」
俺が笑うと、彼女はぷいっとそっぽを向いて口をとがらせた。「いきなりだったから」と、不満げに呟かれた言葉に、俺は笑った。彼女はそれが気にくわないようで、暫く拗ねたように口を結んでいた。そして、ふとこちらを見た。
「?」
彼女がすっと手を伸ばした。なんだろう、と彼女の小さな手を視線で辿っていると、彼女の手が俺の頬辺りを撫でた。ひんやりした感覚に驚いていると、彼女はハッと我に返ったように手を引き、早口で謝った。「ま、ままま睫毛がついてて…!!」と焦り、続いて顔を赤く染める。耳まで真っ赤な彼女に、俺はおかしくてまた笑った。
「期待、していいのかなぁ…」と、俺はそう呟いた。彼女に届かない微かな声で、真っ赤な彼女を眺めながら。
そんな無意識な言葉に気付いた俺は、焦ってコーヒー牛乳を手に取った。そして、茶色い紙パックをにぎりしめ、一気に流し込んだ。ほろ苦いコーヒー牛乳が、口いっぱいに広がる。
落ち着け、俺。
俺のほんのり熱く、赤くなった顔も、自分を落ち着けるためにやったそんな奇行も―――…自分の数秒前の行動に頭を抱える彼女には、見る余裕も、その意味を考える余裕もないのだが。
短編〝いちご牛乳〟と繋がっています。