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にじいろ物語

作者: 神﨑瑛


あっ、と突然里美が叫んだ。瞬く間にそれは里美の手を離れて下に、こげ茶色のウッドデッキに落ちた。グラスの中の黄色いオレンジジュースと氷が、弧を描くように飛び出し、重力に従って落ちていく。その宙に舞っている様があまりにキレイすぎて何かこの瞬間だけ、ある一定の法則が生まれてるんじゃないか、なんて思った。


それは、重力のダンス。


「ガシャン」


透明なガラスのコップはデッキに当たって砕けた。大体がその原型をとどめたけれど、強く落ちた所が粉々に散った。破片はどっか、草むらにでも隠れたのだろう。

「あらあら、さっちゃん大変!」

 私のお母さんが音を聞きつけて駆け寄ってきた。いつの間にか、がやがやしていたみんなが静かになっている。ふざけてじゃれあって遊んでいた年下の男の子たちやあの拓ちゃんでさえも。みんながこっちを見ていた。

「危ないから、ゆっくりそこどきなさい。皆も、近づかないで」

 私はすぐそばの物置からいつも庭用に使っているホウキとチリトリを探した。灰色のチリトリに、柄の部分が深緑色のホウキ。あった。

「さっちゃん大丈夫? 怪我してない?」

そのふたつをお母さんに駆け寄って渡す。すると、お母さんは一瞬驚いたように目を大きくした。

「あら、さき。有難うね」

 お母さんは慣れた手つきでホウキを操り、ガラスの破片を集める。誰かが踏んで滑らないように氷は芝生の方へ、粉々になったガラスはチリトリの中へ。おんなじ透明のものなのにお母さんはすぐにそれを掃きわける。

「だいじょうぶ?」

 里美はまだちょっと、コップを割ってしまったショックから抜けてないみたいだ。声をかけてもあんまり反応がなかった。

「え? あっ、ごめんね、さき、コップ……」

「いいんだよ、あんなの。それよりだいじょうぶ? けがは? 服とか靴、濡れてない?」

「うん、だいじょうぶ」

 里美はお母さんの方に申し訳なさげに視線を向けた。近づいたらダメ、と言われてたのに里美は、お母さんに近づいた。

「ごめんなさい」

「いいのよ、どうせ全部新しいお家には持って行けなくて捨てちゃうんだから。ほら、危ないからあっちで遊んでなさい」

 お母さんは手振りで里美を後ろへ追いやった。行き場を失った里美が私の方を見る。こういうのは大人に任せとけばいいんだよ。

「さとみ、あっちで遊ぼう?」

「え? うん…」

 ウッドデッキから降りて芝生の脇に咲いているチューリップの方へ行く。そこでは、拓ちゃんと貴幸くんがボールで遊んでいた。白い、手の平からちょっと余るくらいのボールが行ったり来たりしている。

「たくちゃん、入れて」

 案の定、拓ちゃんは嫌な顔をした。拓ちゃんは別に、私たちをボール遊びに入れるのが嫌な訳じゃないはずだ。だって拓ちゃんは里美のことが好きだもの。

「……呼ぶんじゃねぇよ」

 ものすごくつっけんどんな感じだ。拓ちゃんは眉間にしわを寄せて、貴幸君にボールを返す。どうやら私が〟拓ちゃん〝って呼ぶのをやめない限り、入れてくれないみたいだ。

「しょーがないじゃん、昔からずっとたくちゃんって呼んできたんだから」

 今更他の名前で呼ぶなんてことできない。変な感じだ。そりゃもし私が拓ちゃんだったら、大きくなっても○○ちゃんって呼ばれ続けるのは、気持ち悪いし、恥ずかしいし、くすぐったい。それくらいはわかるけど、私の中ではいつまでも拓ちゃんは拓ちゃんだった。

 それに私が引っ越して拓ちゃんとも離れ離れになれば、もうこの名前を呼ぶことも少なくなるんだ。下手したら、呼ばなくなるかもしれない。

「たくちゃぁーん、いくよぅーっ」

 貴幸君がふざけて女の子みたいな声をしてボールを投げた。拓ちゃんが瞬時にその言葉に反応する。

「うるっせえ! たかゆきだまれよ!」

 貴幸君の投げたボールは明後日の方向へ飛んでいき、庭の塀から外へ出て道路に転がった。拓ちゃんは何か悪態をつきながら庭の門から出て行く。

「悪い!」貴幸君は笑って謝りつつもそれを追いかけた。

 私と里美は顔を見合わせて、無言でどうしようか相談した。このまま拓ちゃんたちについていって、無理矢理ボール遊びに入れてもらうという手もあるけれど、なんだかそれは気が引ける気がした。かといって、同い年の子はもういない。あとは近所の小さい下の子たちばかりでその子たちと遊ぶのもなんだかつまらない気がした。

「あのさ、さきちゃ…」

「そうだ、さとみ!」

「え?」

 里美もなにか言いかけていたけれど、私はそれをちょっとだけ謝って自分の提案をした。

「とっておきの場所に連れてってあげる」

「とっておき?」

 里美が右へ小首を傾げた。そりゃそうだ。生まれてからいままで十二年間、ずっと幼馴染をやってきた友達だ。お互いに秘密が全くない訳じゃないけど、ほとんどないと言える。そんな幼馴染がいきなりとっておきの場所とか言い出すんだから、

「そんなの、あったの? どこ?」

 と聞かれても無理はない。

「今まで黙っててごめん。こっち!」



 私は里美の手を取って、裏庭に連れて行った。そこから行ける小径がある。昔は良く、拓ちゃんや貴幸君、里美の四人とそこで遊んだ。今は草木が手入れされてなくてわかりにくくなっていたが、私たちはそこの草をかき分けていった。

「うわ、ここ久しぶり。こっちってさ……あの小屋がある方だよね?」

「うん、そう」

 後ろで里美が足元を滑らせたのかちょっと驚いたような声をあげる。昔は、こんなに草が生えていなかったし、自分たちもずいぶん子供だったから、すごく通りづらくなっている。所々で腰を屈めなきゃいけない。

「だいじょうぶ?」

「うん、だいじょうぶ。え、とっておきの場所ってまさかあそこじゃないよね?」

「えっと……あそこなんだけど、あそこじゃないんだ」

 なんて説明すればいいかわからなかった。あの小屋であって、里美の知るあの小屋じゃないというか……。私のあいまいな説明に対してか、里美が笑う。

「なにそれ。なんで今まで黙ってたの?」

「ごめん、なんかさ、誰にも知られたくなくなっちゃって」

けもの道を抜けるとすぐ、開けた場所にでる。そこにはちょっとした小屋があった。最近来てなかったせいか、その小屋はとてもぼろぼろに見えて、昔よりも暗く怖い雰囲気を放っている気がした。実際にも、雨風にやられているみたいだ。本当は、お父さんとお母さんに危ないから入っちゃだめだと言われているんだけれど、小さいころは良く拓ちゃんたちと内緒で忍び込んでいた。

 入口の南京錠を開けるためのカギを、扉のすぐ横の板の隙間から取り出す。お母さんたちは自分たちが隠したこのカギの場所も、知られてはいないと思っているだろう。ばれたときが怖いななんて今更思う。

「開く?」

 鍵をあけるのに四苦八苦していた私の後ろから、里美が覗いてきた。カギが錆びついていてなかなかうまくいかなかった。

「よし……これで」

 やっとカギ穴に入って、それを右にひねった。確かな手ごたえがして、南京錠が外れる。お父さんが誰も入れないように作った、ぐるぐる巻きにされてる銀色のチェーンを外して、扉を開けた。

「うわぁ……懐かしいな」

 そこには、よく遊んだ小さい時から変わらない世界があった。

 ほこりっぽくって、ちょっと湿っぽくって、窓からの光が差し込むだけのほの暗さ。ただちょっと、昔と違うのは、部屋が狭く見えることだった。天井はジャンプして手を伸ばせば容易に届きそうだ。

「さきちゃんも来るの久しぶりなの?」

「うん、みんなで来た時くらいしか、ここに来ないし」

 私たちは慎重に部屋の中へと足を踏み出す。

壊れたタンス、背もたれの半分ないイス、よく使い方のわからないハコや木の棒とか。昔は知らなかったけれど、社会の資料集に載ってたタイプライタとかも埃をかぶっている。

物こそいろいろあったけど、所々に足の踏み場があり、私たちは物を横に退かしながら進んだ。なんだか変な感じがした。前に来てから三年は経っているのにその物たちは、何も変わらないままでそこに存在している。自分はこんなに変わったというのに。

「でさ、とっておきの場所って? この小屋、他にも部屋なんてあったっけ?」

「え? あ、うん、こっち」

 私が足を踏み出すたびに埃が小さく舞い上がる。確か、昔の記憶によれば入口とは正反対に位置する角にそれがあった気がする。昔は身長も小さかったから、そこまでいくのが大変だった覚えがあるけれど、成長して身長もそれなりに高くなった今は、そんなに苦じゃなかった。すぐに目的のものが壁に取り付けられているのを発見する。

「ここ」

「え? これって……もしかして、上に行けるの?」

 その壁には梯子が取り付けられていて、その先の天井にはいかにも開きそうな四角く縁取られた板があった。屋根裏への扉だ。

「そう、とっておきの場所」

 梯子に足をのせて軽く体重をかけてみた。今の私が昇っても大丈夫そうだ。ひと思いに梯子を登り、天井の扉を奥へ押しやって開けた。覚悟はしていたけれど埃を沢山吸ってしまって、せき込んでしまう。

 屋根裏は前に見たときよりやっぱり狭く感じて、それでもあの頃と同じで、すごくキレイだと思った。屋根に取り付けられた二つの天窓から、温かい太陽の光が差し込んで、そこだけちょっとした舞台を作っている。私はゆっくりとその舞台へと近づく。ほこりっぽいのは相変わらずだけど、その舞いあがる細かい粒子が陽の光を反射して、それはそれでまた、キレイだと思った。

「さとみ、だいじょうぶ?」

 なかなか来ない里美を心配して、後ろを振り返った。そこには里美はいなく、代わりに違うものがいた。

「……え?」

 

「にゃあ」


 白い猫だった。それも真っ白。最初にその猫を見たときに連想したのは雪だ。それほどに真っ白で、ふわふわしていそうな猫だった。

「えっ……と」

 なんで猫がこんなところにいるんだろう。里美は? それにそうだ、ここは屋根裏。梯子を使うことでしか、ここには来れないはずだ。猫なんてこれるはずがない。なんてことを一瞬で思い浮かべて、最終的に思ったことは、

もしかして、ずっとここにいた?


「にゃあ」


 猫が私の頭の中の問いに答えるように一声鳴く。イエス、の意味のような気がした。

いや、それはないだろう。こんなところで生きていける訳がない。第一、二階に位置するこの部屋に入ることは出来ないだろう。じゃあどうして? 聞こえるはずもないのに、頭の中で猫に尋ねる。

 案の定、猫はなにも答えない。私のことなど見えてないかのように部屋の隅っこに素早く行ってしまう。

 わからないことだらけだった。とりあえず猫は置いといて、里美はどうしたのだろうと、私はさっき昇ってきた扉まで戻る。

「さとみーっ?」

膝を床について扉から頭だけ出して下を覗く。下の物置と化した部屋の様子が逆さまに映るが里美はどこにもいない。何処かに隠れているのだろうか? でも、物音なんて何もしなかった。梯子を登る前まで里美は確かに、私の後ろにいたはずなのに。

「どこにいったんだろう…」

 下を覗くのを諦めて、姿勢を戻すと屋根裏部屋に視界が戻る。猫が気になって部屋の隅をみると、今度は猫がいなかった。くるっと辺りを見回してみると、人の足元が見えた。つい里美だと思い込んで私は、ほっと安心して立ち上がった。

「さと…」

「こんにちは」

里美じゃなかった。里美はこんなに背が高くない。せいぜい私の肩ぐらいの背丈だ。でもこの目の前の人は私より背が高いし、黒い髪も腰まで流れるようだった。比べるまでもなく、里美のショートカットの髪よりはるかに長い。

それら外見よりも違うのは年齢だった。この人は私たちより年上の“お姉さん”だ。二十歳くらいだろうか? さっきの猫と同じように全身真っ白で、足元まで隠すワンピースを着ていた。私はこんな人知らないし、見たことも会ったこともなかった。

「こんにちは?」

 私が何も返事をしなかったからか、女の人はまた私に挨拶をした。

「あ……えっと、」

 その知らない女の人の後ろから猫がひょこっと顔を出す。甘えるような声で鳴いて女の人にすりよる。その人はその猫を持ち上げ、胸の位置で抱いた。

「はじめまして、さき」

 少しはにかむような微笑みを投げかけられる。私はなぜか、はじめまして、と言われたことに違和感を覚えた。さっきまでは会ったこともないと思っていたが、何故か、はじめましてといわれた瞬間に、前に何処かで会っているような、でも絶対に会っていないような、……この人が私の知っている誰かに似ているのかもしれない、そんな感覚に陥った。

「あ、たま!」

 腕の中で抱かれていた白いふわふわの猫は急に飛び出した。私の目の前までやってきて、きっと鋭い眼で見上げる。警戒されているような気さえする。

「……たま、どう? 感想は?」

 女の人はしゃがんで目の高さを猫と合わせてその背に話しかける。猫は私の方をじっとしばらく見た後、女の人の方に戻った。猫の頭を女の人がなでる。

「そうね、思ったより生意気そう」

「……猫とお話ができるの?」

 私は恐る恐る、緊張する喉を精一杯振り絞って声を出した。

ここは屋根裏部屋で、私以外この場所を誰も知らなくて、この小屋はカギがかかっていて……でもこの女の人は何故かここにいる。まだ状況は上手く呑み込めていなかった。

「もちろん。さき、あなたもお話できるのよ?」

 猫が話をするとは思えなかった。おばあちゃんちにも、もうかなり年をとって寝てばかりいる三毛猫がいるけれども、何度私が構っても何も反応してくれない。

「……あの、なんで私の名前を知っているんですか?」

 この女の人は今とさっき、二回私の名前を呼んだ。私はこの女の人とは知り合いじゃない……と思う。遠い親せきの人で、私が覚えてないくらい小さなころにあったっていうならわからないけれど。少なくともここの村の人ではない。

「そりゃ、知ってるわよ。だって、私はあなたに以前あったことあるもの。あなたのお母さんにも、お父さんにも、さとみにも。そうそう、たくちゃんは相変わらず元気?」

 そう尋ねるこの人の表情は、まるで昔を懐かしむようなものだった。

「はい……まぁ」

 私はどうしたらいいか分からなくなってしまった。そうだ、里美はどこいっちゃったんだろう。今頃私を心配して探しているかもしれない。

「あの……」

「そうね、こんな埃っぽい所じゃなくてもっと空気のきれいなところで話しましょ」

 女の人はそう言うなり、私に近づいてきた。何かされるのかと思ってびっくりしたが、私のうしろの床にある扉へ歩いただけだった。その後ろをちょこちょこと白猫のたまがついていく。

「……あれ?」

 私は自分の目が信じられなくて思わず目をこすった。おかしなことに、そこの床にあるのは今居る屋根裏とその下の物置部屋をつなぐための扉じゃなかった。壁に備え付けられた梯子はなく、普通の階段が下へと続いていた。

「どうしたの? 来なさいよ。下でお茶でも飲みながらゆっくり話しましょう? あなたの話がいろいろ聞きたいの」

 女の人はそういって、下に降りようとする。私は慌てた。

「あの!」

 女の人の降りようとした足が止まる。

「何?」

 大きな黒い瞳が驚いてじっと私のことを見つめた。

「あの……あなたの、名前は」

 あぁ、と女の人は息を漏らして何がおかしいのか楽しそうに笑いだした。

「ごめん、あなたは私のことを知らないんだった」

 一通り笑い終えると私の方をまっすぐ見つめて言った。


「私は、サキ。あなたとおんなじ名前。だから、お互いにサキって呼ぶといいと思うわ」




 階段を降りた先は、生活感のあふれたごく普通の部屋だった。屋根裏部屋と同じような感じで、壁も床も木で出来ていて、フローリングとは違う、どっかの絵本やテレビの世界にありそうな感じだ。家具も木目調で部屋の雰囲気と合わせてあって全体がどこか温かい感じがした。

「あら、サキちゃん。お客さんかね?」

 私がサキの後をついてちょうど階段を降り切ったところで、外へと続くらしいドアから腰の曲がったおばあさんが現れた。最初にサキの方をみて、続いて私の方を興味深そうにじっと見た。

「ファラさん、帰ってきたところで悪いんだけど、ちょっとここ使っていい?」

 そう言ってサキは、窓際の丸テーブルと備え付けられた二つの椅子を示した。おばあさんはゆっくりと優しく頷く。

「いいわよ、お客さんですもの。そうね、何か冷たい飲み物がいるだろう」

 おばあさんは曲がった腰のまま台所と思われるカウンタの奥に消えた。

「あ、あの、どうぞお構いなく」

 私が恐る恐る言うと、おばあさんはカウンタの向こう側から顔だけひょっこり出した。

「あらまぁ、サキちゃんと違って礼儀正しいこと」

 そう言って、からからと変な笑い方をした。

「もう! 私と違って、は余計ですよぅ。さぁ、どうぞ? さき、座って」

 サキは椅子を手前に引いてそこに私に座るように示した。図々しく座っていいものなのか迷ったけれど、このまま立っている訳にもいかないので私は座った。向かいの席にサキが座る。

「大人しいじゃない? 学校とかでもいつも大人しいの?」

「いや、というか、えーっと……あの、その」

 サキは椅子の背もたれに寄りかかってすごくリラックスしている。ここはサキの家なのだろうか? あのおばあさんの家だというのは確かそうだ。それにしては、あのおばあさんとのやりとりは家族、という感じではない気がする。それじゃあ、この家はサキの家ではないことになる。私は思い切って聞くことにした。

「まだ状況が呑み込めてなくて。幾つか質問していいですか?」

「えぇ、どうぞ?」

「まず、ここはどこですか?」

 サキは寄りかかっていた態勢から身を乗り出してテーブルに体重をかけた。手に顎を乗せる。顔が私に近づいて一瞬何故かどきっとした。

「そっか、本当に何も知らないんだ」

 おばあさんが細長いグラスを二つ、手に持ってやってくる。片方は色からしてオレンジジュースだった。もう片方は、なんだろう? 紅茶やお茶の類……にしてはやけに赤みがかっている。透き通ったキレイなルビー色だった。

「はい、オレンジジュースでよかったかな?」

 私の前に黄色い液体の入ったグラスを置く。いくつかの氷がグラスに当たって涼しげな音をたてた。

「あ、ありがとうございます」

「ほら、サキちゃんにはいつもの」

 そう言って、赤い液体の入ったグラスを置く。

「ありがとう、いつも悪いわね」

 サキはグラスを持って、その赤い液体を口に運んで喉に流す。

「それ、何?」

「ハイビスカス・ティだよ」

 おばあさんはそういうと、腰を曲げたままゆっくり歩き、私たちが降りてきた階段の方へ向かう。そのまま階段に昇るのかと思ったけれど、その隣にある白い扉に手をかけた。

「私は奥の部屋に居るからね、何かあったら呼びなさい」

 そう言い残しておばあさんは、扉をあけてその奥へと姿を消そうとした。

「あ、そうそう」

 再び扉を開いてこちらを見る。

「サキちゃん、その子にこの街くらい案内してあげたらどうだい? はじめてきたんだろう?」

 扉のしまる音がする。今度こそ本当におばあさんは扉の向こうに姿を消した。

 私は心の中でおばあさんにお礼を言って、オレンジジュースを一口飲んだ。家のと違って、すっぱくってそのまま本物のオレンジを絞ったみたいだった。

「ああ見えてもあの人、私と五つしか歳違わないのよ」

 サキはハイビスカス・ティに再び口をつけた。

「五つ?! 嘘でしょ?」

 サキは私より五つとか六つくらい年上……二十歳前後に見える。あのおばあさんはどう見ても八十歳とか七十歳とかその辺だ。今年六十八になる私のおばあちゃんよりも年上、そんな感じがした。

「えっと……サキ、はいくつなんですか?」

「私? 私は一八よ」

 ってことは、あのおばあさんは二十三歳ということになってしまう。私は驚いてさらに目を大きくしていた。

「あの人、魔女だから」

 サキはそれがさも当たり前であるかのように言った。

魔女って、一体どういう意味なのだろうか。まさか本物の魔法を使う魔女なわけじゃあるまいし。きっと、心は二十歳、みたいなそういう意味だろう。よくお母さんが使っているやつだ。

「へぇ……あ、あの、それで、さっきの質問の答えは?」

「え? あ、あぁ…」

 サキは何故か窓の外に目をやる。私もつられて窓の外をみた。そこは、私の知ってる村の風景じゃなかった。全然違う場所で、それどころか国すら違うみたいだった。人がたくさん行き交い、その人たちはそれぞれ違う髪の毛と眼の色をしていて、明らかに日本人ではなかった。

「散歩する?」

「え?」

「この世界、案内してあげるわ。話しながらちょっとその辺歩きましょう。それが一番早いと思う」

 そう言うなりサキはハイビスカス・ティをグイッと飲み干し、勢いよくテーブルの上に置いた。

「あぁっ!」

私は慌てて空になったグラスを見る。

「何よ? 飲みたかったの?」

「……いや、いい…」

 いつの間にか、玄関扉の前で寝っ転がっていた白猫のたまが、大きなあくびをした。





 目が四つくらいほしい、そう思ったのは初めてだった。見るもの全てが新鮮で、面白くて、楽しかった。余りに辺りをきょろきょろ見回しながら進むものだから、すでに二回も人とぶつかりそうになった。

「それで、どこまで話したんだっけ?」

 私のその姿を見て呆れ果てたサキが少し後ろから話しかけてくる。

「まだ、何にも聞いてない!」

 家の前の通りをしばらく歩いて行くと、大きな広場にでた。そこには今まで以上に人がいっぱいいて、思わず私はその中心に向かって走った。

「ちょっと、さき! 迷子になるよ!」

 後ろの方でサキの声が聞こえる気がする。もう私は目の前に広がっている世界に気を取られていて、サキのことは頭から消えかかっていた。

 遠くの方で竹馬にでも乗っているのだろうか、妙に背の高いピエロがカラフルなボールをいくつも手にして、それをお手玉みたいに投げては手元に戻してを繰り返して、上手く操っている。私のすぐそばの商人は、水色のシートを広げて、さまざまに反射するキレイな石を売っていた。その人の目の色も石と同じにように深い青をしていてキレイだった。あっちのほうではピンクのフリルスカートをひらひらさせて女の人が、その周りで演奏しているおじさんたちの音楽に合わせてきれいなタップを踏んでいる。

 いろんな人がいた。いままであの小さな狭い村でしか生活したことがなかったから、こんなに人がいっぱいいるところを見たのがはじめてかもしれない。いや、間違いなく初めてだ。

 だからなのか、この光景がすごく新鮮だった。人々がいっぱいいて、笑い合い、語り合って。それぞれみんなが楽しそうに時を過ごしていた。

「……あれ?」

 ちょうど、屋台のそばでビールを片手に熱のこもった話をしていそうなお兄さんたちを見ていた時、見覚えのある影が横切った気がした。サキじゃない。

「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、ちょっと見て行きなよ」

 すぐ近くの石を撃っているおじさんが私に話しかける。さっき話しかけられていたら、すぐに反応しただろう。でも今は、さっき見た人影を探すのに必死だった。

「お嬢ちゃん、これなんかどうだい? キレイだろう? 君にぴったりだよ」

 いた! その人影はちょうど広場を出るところだった。やっぱり、見間違いじゃなかった。あれは、拓ちゃんだ。

「お嬢ちゃんってば!」

「私、お嬢ちゃんなんて名前じゃないわ」

 私は、拓ちゃんの後を追うことにした。なんで、こんなところに拓ちゃんがいるんだろう? じゃあ、もしかしたら里美もここにきているのだろうか?

「すみません」

 人がいっぱいいるせいで、思うように前に進めなかった。拓ちゃんの小さな影を何度も見失いそうになったし、何度も人とぶつかった。それでもやっとの思いで私は、広場を出ることができた。

「あれ……?」

 辺りを必死で見回す。けれどもすでに、どこにも拓ちゃんの姿を見つけることは出来なかった。方向は間違っていないはずだけれど……。

その時、肩を強くつかまれた。

「こんなところにいた! もう、勝手に出歩かないでよ? 帰れなくなったらどうする気?」

 一瞬、拓ちゃんかと期待してしまったが、この声はサキだった。

「何よ? 誰かいた?」

 それが思わず表情に表れてしまったのか、私の顔をみるなりサキは、眉をひそめた。

「うん、いまね、拓ちゃんを見たの」

「あぁー、それね、多分ってか絶対、さきの知るたくちゃんじゃないわよ」

 何か含みのある言い方だ。

「どういうこと?」

 私が尋ねると、サキは何かを決心したような表情で、溜息をひとつはいた。

「ちょっと、歩こうか」

 そう言ってサキは目の前の道をまっすぐ歩きだした。私もその少し後をついて行く。

「ここはね、もうわかってるだろうけど、さき、あなたの居た世界とは違うの。だから、あなたの見たたくちゃんは、さきの知ってるたくちゃんじゃないってこと」

 なんとなくそれはもう、わかっていた。この街を見れば、私の生きていた現実世界じゃないってことくらいわかる。現実世界はこんなにもキレイであふれていない。

「ここの世界は見た目はキレイだわ。みんながみんな仲よさそうにして、助け合っているように見える。でも」

「お嬢ちゃんたち! 寄ってかない?」

 八百屋の若いお兄さんが私たちに向かって声を投げかけてきた。サキは言われるとおりにその八百屋で立ち止まった。

「今日は何が安いのかしら、お兄さん?」

「おっ、誰かと思いきや、いつも来てくれるお嬢ちゃんじゃないか。今日はだね…」

 お兄さんとサキは知り合いのようだった。けれど、なんだかサキの様子がおかしい気がする。どこかよそよそしいような、バリアを作っているような。

「ねぇ、お兄さん、そろそろ私の名前を覚えて下さらない?」

 サキがその一言を発した瞬間、八百屋のお兄さんはあからさまに嫌な顔をした。はやくどっかいってくれ、と言わんばかりに態度を急変させる。

「おかしなことを言う女だ。早く消えてくれないか、ウチに悪い評判がついちまう!」

 サキは厭味たっぷりにそのお兄さんに微笑みかけて、手を振った。私はそのお兄さんがつかみかかってくるんじゃないかと思ってどきどきしていた。けれどそんなことはなかった。むしろそのお兄さんは、私たちに触りたくない上に見たくもないような感じだった。

「どういうこと?」

 私は訳が分からなくて質問した。たかだか名前を覚えてくれって言っただけじゃないか。

「ここの世界の人たちはね、名前がないの」

 風が吹いた。道はいつのまにか下り坂になっていて、頬をなでるちょうどいい風が下から昇ってくる。

「名前はもってるんだけどね。ここの人たちは他人の名前を覚えようとしないの」

「何で?」

 私が尋ねるとサキは肩をすくめて首をかしげた。

「さぁね。きっと、そっちのほうが楽だからじゃないかしら。うわべだけで付き合ってる方が楽なのよ」

 坂を下って行った先は波止場のようだ。潮の匂いを風が運んでくる。もうすぐ日も暮れると、空が告げていた。

「名前を覚えるとその人と深い付き合いをしなきゃいけなくなる。そうすると、色々な対立や面倒なことが増える。だから、ここの人たちは互いの名前を呼ばないの。あ、ファラさんと私は別よ? ファラさんは魔女だし、私はその見習いみたいなものだから」

「魔女って……ほんとに?」

 坂を下り終える。道は左右に別れていて、右に続く波止場には船が何艘か、肩を並べて泊まっていた。私たちは左の何もない方に向かって海沿いに歩く。サキはただただ笑みを浮かべるだけで、私の問いには答えようとしない。答えてくれることはないだろう、と思って私は代わりにつぶやいた。

「さみしいね」

 さみしい。ここの世界の人たちは、皆さみしい。あれだけ楽しそうに笑い合い、語り合っていても心の底からその楽しさを分かち合っていないなんて。私には何でそんな事をするのか分からなかった。これは私がまだ子供だから? あの小さな狭い村で、拓ちゃんや里美、貴幸君、そのほかの上級生や下の小さい子たちしか知らないから? 今度、引っ越して外の大きな町で暮らすようになればわかるのかな?

 でも、ただわかることがひとつあった。私はここの世界の人たちのようなさみしい人間にはなりたくないってことだ。

「ほら、見て! キレイ」

 サキが私の肩を叩いて注意を引き寄せる。サキの指さす水平線に、ちょうどオレンジ色の夕日が沈みかかっている。その夕日は、青く段々と暗くなっていく空にグラデーションをつくり、たなびく雲をシルエットにする。この空は、私の住んでいた村でも良く見ていた光景だった。ただ、いつもと違うのは、海だった。

 私の住んでいたところ近くに海はなかったし、海に沈んでいく夕陽を見るのは初めてだった。太陽の光が水平線をも黄金色に染めていく。私はただ言葉もなくそこに立ちつくしてしまった。


「さ、そろそろ帰ろっか」

 夕日が完全に海の向こう側に沈んでしまってから、サキが言った。

「うん」

 いろいろ沢山見て回ったせいか、少し疲れていた。お腹もすいてる気がする。

「さき、有難う。私、あなたに会えてよかったわ。楽しかったし」

「……え? 何、突然」

 サキが突然しおらしく言う。それは今までのサキらしくなく、違和感のあるものだったから、思わず笑ってしまった。

「さきは、帰らなきゃ」

「…………そっか」

 元いた場所に帰らなきゃなんだった。そうだ、きっと里美が心配してる。早く戻らないと。

「でも、どうやって……?」

 その時だった。ひと際大きな風が私に向かって吹いた。それは突然だったこともあるし、今まで会ったことのないような強い風で、私の体は押し戻され、海に落ちた。


「これだけは、忘れないでいてほしい。いつまでも、夢とか友達とか。そういう大切なものをなくさないでいてほしいって……。あと、出来ればお母さんとお父さんにもよろしく伝えといてよね」



 冷たい、最初にそう思った。一瞬の出来事だったからまだ、頭がついて行ってなくて、私が海に落ちたことにまだ気づいていなかった。周りを見回してやっと、ここが水の中だと分かった。それから、息ができていることに気付いた。

 私はそのことに大した疑問も持たず、ただ水の流れに流されるままだった。自分で動こうにも、波のちからのせいで自分で前に進むことは出来ない。しかし、この水の流れがどこかに向かおうとしているのは何となくわかった。きっと、このまま何もしないでいれば、何処かに……元いた場所に戻れるのだろう、そんな予感がした。

 海の中はキレイだった。さっき地上で見た夕日もキレイだったけれど、水の中で見る夕日もまた格別にキレイだった。きらきらとした光のカーテンが差し込んできていて、色とりどりの魚たちをより一層輝かせる。にじいろのさかなたちが私の周りを取り囲み、ぐるぐるとダンスを踊った。

突然、下から銀色の泡が一斉に立ち上り私の視界を遮る。さかなたちも散り散りに何処かへ泳いで行ってしまった。その泡たちが渦を作り、私を前へ前へと導く。太陽の光の温かさと泡のベッドに包みこまれて、段々と私の意識は私の手元から離れて行った。









「ちょっと、さっちゃん、どうしたの? そんなに慌てて! 泣いてちゃ分からないわ」

 さきちゃんのお母さんがわたしを落ち着かせようとしてわたしと目線を合わせてくれる。それでもわたしはあふれる涙を止めることができなかった。段々と、わたしのお母さんや、拓也君のお母さんも家の中から出て来て集まって来た。

「里美? どうしたの、一体、何があったの!」

 わたしのお母さんが強く、わたしに言う。それでなんとか落ち着くことができた。

「あの、あのね、さきちゃんが……居なくなっちゃった」

 わたしは半分泣きながら、さっきあったことを最初から話した。さきちゃんと二人で裏庭の物置小屋に内緒で遊びに行ったこと。屋根裏に行ったはずのさきちゃんがいつの間にか姿を消していたこと。何処かに隠れているのかと思って探しても、見つからなかったこと。

「あの小屋に? 入ったのね?」

 さきちゃんのお母さんは目を丸くして驚いていた。幼いころからあそこで遊んでいたと聞いてびっくりしたのだろう。その顔をみて、罪悪感が生まれた。

「とにかく、みんなで探しましょう……? あら、拓也くん」

 後ろを振り返ると拓也君がいた。さっき、貴幸君と遊んでいたボールを手に持っている。

「なぁおい、さとみ! 今、なんて言った……?」

「え? 拓也君、あのね、さきちゃんがね、居なくなっちゃったの!」

 白くてところどころ泥で汚れているボールが地面に当たって跳ねた。拓ちゃんはわたしの言葉を聞き終えることなく走り出していた。きっと拓也君はあの場所に行くつもりだ。わたしもそのあとを一生懸命追いかけた。

「おい、お前ら待てよ! 俺も!」

 わたしのうしろから貴幸君の声がして、走るのがわかった。

「ちょっと! 危ないわよ、子供だけじゃ!」



 拓也君の足は早かった。昔は、さきちゃんの方が早いくらいだったのに、いつのまにか拓也君は足の速さも、身長もぬかしていた。それと一緒に四人で遊ぶ回数も減った気がする。

 さきちゃんがいなくなったことを伝えたときの拓也君の顔を思い出した。いままでに見たことのない、悲しいようなでも違う、大人がすっごく心配する時の顔に似ていた。そうか、


 拓也君は、さきちゃんのことが好きなんだ。


 そんなことを考えながら、途中伸びきった草に足を取られながら必死で拓也君の背中を追いかけた。途中で拓也君が躓いて転んでしまった。

「大丈夫?」

 わたしの言葉も聞こえないのか、拓也君はすぐに立ち上がってまた走り出した。だんだんと目に見えてその背が小さく、先に行ってしまうのがわかる。それでも私は一生懸命走った。後ろから追いついてきた貴幸君が私に合わせて走ってくれる。

 やっとのところで、あの小屋が見えた。わたしと貴幸君は立ち止まって膝に手をついて息を整える。

「さき!」

 拓也君の大きな声が辺り一帯に響いて林の中でこだまする。彼は小屋に一目散に走って行った。みると、小屋の前に誰かいるようだった。わたしたちも小屋へと駆け寄る。近づくにつれわかる。その人影はさきちゃんだった。小屋の扉にもたれかかるようにして座っている。いや……大きな口を空けて気持ちよさそうに寝ていた。

「おい」

 拓也君が跪いて、さきちゃんの頬を叩く。それでもさきは起きない。

「里美ちゃん、さきはずっとここに居た訳じゃないよね?」

「うん、だって、わたしここでずっと待ってたもん。でもやっぱり戻ってこないから、大人たちにいったんだ」

 私が大人たちを呼びに行こうとしたときにはこんなところにさきちゃんはいなかった。ってことは、私が呼びに行ってる間にどこかから戻ってきて、ここで寝ちゃったのだろうか?

「おい!」

 拓也君が今度は、頬を思いっきりつねる。これにはさすがのさきちゃんも起きたようだった。それを見て拓也君が立ち上がる。

「あれ……ここは……? みんな? どうしたの?」

 わたしたち三人は同時に呆れた溜息をついた。

「ったく……心配かけんなよ」

拓也君が悪態をつき、

「まぁ、何もなくてよかった」

貴幸君が静かに頷く。

「さきちゃん、どこにいってたの? みんな心配したんだよ?」

「あぁ、」

 さきちゃんは起き上がって振り返り、小屋を見上げた。


「とっても、キレイなところ」


(ここの仕組みがいまいちよくわかっていないが)

何か些細なことでも思う所がありましたら、感想・コメントをいただけると嬉しいです。宜しくお願いします。

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