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草薙と入れ替わるように兄の駿さんが、部屋に入ってくる。
「できないことはしないで、なんかこっちまで緊張しちゃうから!」
顔を赤くした草薙は、ムキになった声で駿さんを叱っていた。
草薙は何かを理解したようだけど、俺には分からない。きっと、兄妹で何か通じているんだろう。
「ははは、ごめん」と苦笑いの駿さんの横を草薙は、通り過ぎて部屋を駆け足で出ていく。
代わって入って来たのは金髪の男性の駿さん。俺の方を見ていた。
背が高く、俺の方を見下ろす姿はやっぱり大学生だな。
俺も、あんなふうに大きくなるのかな。
「な、何があったんですか?」
「おもてなしの、クッキーを作ろうと思ってね。
よく考えたら、ボクは料理したことなかった」
駿さんははにかんでいた。大学生の割にはだらしないなぁ。
「えっと、駿さんはどうしてここに?」
「君には、とーっても感謝している。志田君」
不意に駿さんはなぜか俺の手を握って、何度も頷いていた。
「えっ、そんなに大事なんですか、あのテディベア?」
「テディベアじゃない、弥生のことだよ」
駿さんは、そういいながら写真立てを見ていた。さっき草薙が話した、三人組が写った写真立て。
遠くを見るような目で駿さんは、穏やかな顔へと変わる。
「何を隠そう、ボクはハイパーシスコンなんだ。神に誓ってもいい」
「はっ?」眉間にしわを寄せた俺は思わず聞き返す。
なんなんだ、この人いきなり何を言い出すんだ。
それでも胸を張った駿さんは、満足げな顔で頷いていた。
「アイラブシスター、弥生。
弥生のことを考えると、食事ものどを通らない……こともない。
弥生のことを想うと、心配で心配で夜も眠れない……こともない。
弥生がいなくなると、不安で不安で卒検も手につかない……わけだ」
駿さん、なんか目がいってるよ。怖いなぁ。
「つまり、ボクは妹『弥生』への海よりも深く、山よりも高い愛があるんだよ」
はっはっは、と高らかに笑うがちょっと変だ。
「そ、そうですか……」
「兄はね、妹の幸せを祈らないと兄として失格なんだよ。
でもそんなボクら家族でも、弥生を助けることに限界があるんだ。
だから、君には期待している。弥生を助けてくれ」
言葉と同時に俺の頭の中に出てくる、黒髪の少女草薙の顔。
かわいらしい顔が見えると、俺の顔が赤くなってしまう。なぜだ。
「どういうことですか?」
「弥生は、失恋して友達が怖くなった。
だからね、ずっと友達がウチに来ることはなかった。
きっと弥生は、学校の中では孤立しているだろう。
家以外では、感情を絶対表に出さないようにしているみたいだね」
「はい」と返事した。それには、思い当たる節があった。
四月に同じクラスになった草薙は、友達と喋っているのを見たことはない。
喋っていても、仕事を押しつけられているだけでまともな会話をしていない。
いつも、一人ぼっちで表情変えずにただいるだけの存在。
草薙には友達がいないのだろう。友達と話しているのを見たことない。
だとしたら、駿さんが嬉しそうな顔をしたのも納得できた。
「失恋は立ち直ることで強くなれる。それを人は『成長』という。
若い時は、長くてその密度の濃い時間はいろんなものを解決させてくれた。
でも弥生の場合は立ち直るきっかけ以前に、『あの事件』が影を落として成長を妨げている」
「『あの事件』?」
「そう、『あの事件』」
そういいながら、駿さんは右手人差し指を一本立てて口元に近づけた。
「これから言うこの話は、とても重要で悲しい話だ。
もちろん、誰にも言わないと約束できるかな?」
「ええっ、なんすか?気になるじゃないでスか!」
「君になら、もしかしたら弥生の笑顔を取り戻せるかもしれないから。
ボクはやっぱり志田君に期待しているんだよ。
希望の光であり、救世主であり、恋人候補だから」
「ええっ、それは……」
最後の言葉を言われた俺は、ものすごく恥ずかしかった。
生まれて、まともな恋愛をした事のない俺が恋人?しかもこんなにかわいい、草薙なんかと。
恥ずかしいに決まっているじゃないか、もじもじしている俺を温かい目で見ている駿さん。
「ははは、それだけ赤くなったら、弥生のことを本当に想ってくれたんだね。
君になら話せるよ、弥生の秘められた過去を」
そういいながら、一つ咳払いをしてみせた駿さん。
じらされたようで、俺はなんだか不愉快な顔に変わっていた。
「で、なんですか?」
「今から五年前、弥生の父は母を殺した。唯一家にいた弥生は、それを目撃して通報した」
「えっ、なんて……殺したって?」
いろんなことが出てきて俺は、混乱していた。つまりは、どういうことだ。
「五年前の冬、引っ越しで広島の新しい町に住みこんだ俺たち家族。
でも、その町は父が望んだ転勤だった。なぜなら、父の浮気相手がそこにいたから」
「浮気相手がいる町に、引っ越すって……」
「父がなぜそうしたのか理由は知らないけれど、愛人の方が父を求めてみたい。
そんなある日、母と弥生は偶然帰りが一緒になって家に帰った。そして、父の浮気現場を目撃した。
ベッドで、父と見知らぬ女性が裸で一緒に寝ていて……なかなかムラムラするだろ」
「それって、修羅場じゃないですか」
「そうだね~。当然小学生の弥生を二階に追いやって、怒った母と父は喧嘩を始める。
だけど錯乱した父はそこで持っていた包丁で、母を刺し殺してしまう」
包丁で刺すしぐさを見せた駿さんの顔は、どこか悲しそうだ。
「それって、やばいんじゃ……」
「もちろん殺人犯だね。だから父は、このことをもみ消すために家にいた弥生を探す。
しかし探し回ったけど、弥生は見つからなかった。
弥生はね父が母を刺したのを二階で見た後、すぐさま近所の家に逃げ込んでいたんだ。
そこで弥生は近所の家から警察に通報もした。
殺害のシーンを弥生は、最後まで残ってしっかり録音していたんだ。
ボクだったら、あまりのショックでおののいちゃうけれどね」
はにかむ駿さん、俺もそうかもしれない。
ましてや小さい小学生なら、なおさら立ち回れないだろう。そう考えると、弥生がすごいと思えた。
「でね、そんな光景を見た弥生は、当然のことながらそのショックを引きずってしまう。
弥生は両親が大好きだったから。父は犯罪者、母は死亡したことを素直に受け入れられなかった。
そのあとからだよ、弥生は笑わなくなった。人を極端に避けるようになったから。
最近は、ようやく新しい家族に話しかけるようになったけれど……まだまだ、学校じゃあ話せそうにもないね」
「そうだったんですか……」
草薙のことを知って、俺は頭の中をめぐらせた。
今までの草薙は、おとなしいだけのちょっとかわいい女子。
でも失恋して傷ついて、親の殺人を目の当たりにして、あんな草薙になったこと。
ただ漠然と可哀そうとかじゃなく、重いものを背負って生きているんだって、それが分かっただけでも草薙に少し近づけたように思えた。
何より弥生に対して俺は新しい感情が芽生えた。
「弥生って見た目はおとなしそうだけど、よく考えていていつも冷静に動ける子なんだ」
窓から見える海を見ながら、駿さんはそうつぶやいていた。
「そうですか。今まで草薙の事、いろいろ知らなかったし、分からなかった。
ただ、何となく一人ぼっちで可哀そうなイメージしかなかったけれど、違うんだよな」
「そうそうよく気づいてくれた。
やはり、ボクの目には狂いはなかったようだ」
するとしんみりした顔から、一転はにかむ笑顔に変わる駿さん。
「君は、弥生の笑顔を見たくないかい?
あの事件から忘れてしまった、弥生の姿を見たくないかい?」
駿さんは俺の肩に手をかけた。俺は駿さんの顔を見上げた。
(草薙の笑顔か……)
いつも無表情で、孤独で、浜辺では泣いていた草薙。
でも、この家で少しとんがった顔を見せたときの草薙の顔は、とてもかわいかった。
もし草薙が笑顔になったら、どんな顔を見せてくれるんだろう。
きっとその顔は、俺が今まで見たことのない素敵な顔だろう。
すぐさまドアが開いた。
「とりあえず、できたよ。これ……」
出てきた草薙の顔はいつも見せる無表情だった。
そして少し焦げたクッキーをお盆に乗せていた。