16
俺は、とんでもないことをしてしまった。
傾斜のある地面、足場は前の日の夕立でぬかるんでいたというのもあった。
だから弥生の撫子を模した浴衣が、泥で汚れていた。
青ざめた顔の俺、それでも弥生は無表情で立ち上がった。
「ほんとうに、ごめん」
「ううん、いいの……」
すかさず俺は、持っていた手拭いで汚れた浴衣を一生懸命拭いていた。
青ざめた顔の俺は、完全にテンパっていた。
でも、弥生の顔は全く動じない。落ち着き払った顔が、とても怖かった。
だけど、俺はそれでも平謝りするしかない。
「本当に、本当にごめん」
弥生の浴衣が汚れてしまい、ただただ謝った。
てぬぐいで一生懸命拭いて、それでも汚れは全部落ちない。
俺は申し訳ない気持ちと後悔で頭の中がいっぱいになっていた。
「弥生……、後で洗って返す」
「なんで、勇太は私に優しくしてくれるの?」
そんな時も弥生は、いつも通りの声と顔で立ち上がっていた。
俺の青ざめた顔を見て、淡々と前を向いた。
「そ、それは……」
またあの質問か、答えをうまく言葉にできない。
俺の胸が、ものすごくドキドキしていたから。
落ち着いていれば、言葉にできるのだろうけれどそれさえも許さない。
「や、弥生。それより、何を流したんだ?」
恥ずかしいのか、俺はとっさに話題を変えて前を向く。
少し前を向いて見える光を見つけた。先行するする俺は、手を伸ばす。
小さな弥生の体を、今度は落とさないように大事に引き上げた。
それでも、すぐに弥生は答えてくれない。間もなくして見える前の光が大きくなった。
「ここは、秘密の場所だ」
断崖絶壁、大きく広い海と傾く夕日が赤と青のコントラストを描く。
その海には、小さな舟がいくつも大海原に流れていた。
それは、俺がこの島で一番きれいな景色が見える秘密の場所。
俺の隣で弥生は、立ち尽くして泣いていながら海を眺めていた。
「私は、はじめての恋を流したの……」
そこまで表情を変えなかった弥生は、急に泣いていた。
涙声の弥生は、俺に対して二度の泣き顔を見せていた。
気づくと俺は、弥生の泣き顔を手で拭っていた。
「弥生……」
「勇太が、勇太が持ってきてくれた……あの子を流した……あの話を聞いて……」
「大丈夫か、弥生」
「私に触らないで!勇太を、傷つけてしまう」
俺は何とかしたかったけど、弥生は泣いていた。泣いた涙をぬぐうことなく海を見ていた。
それはとても悲しそうで、哀愁さえ漂っていた。
「ごめんなさい。私は、恋を忘れないといけない。二度と恋なんてしてはいけないの、それを知ったから!」
「弥生、普通の七夕の話は知っているよな」
「当たり前でしょ、織姫と彦星が……」
「織姫もさ、彦星もさ、初めから恋がうまくいったのかな?」
俺の問いに、弥生は泣くのをやめて困惑気味に俺を見ていた。
綺麗な夕日と星舟流れる海を眺めた俺は、弥生の方を見ていた。
「どういうこと?」
「織姫も、彦星もいっぱい恋をしたんじゃないかな。
初めから、運命の人に出会えるわけないし、織姫も彦星も若かったんだよ。
恋をして失敗して、また恋をして、うまくいかず、ようやく二人は出会えたんじゃないかな?」
「勇太……うん」
「きっとそれが、天の川だと思う。恋愛を失敗した人たちの涙の川。
でも涙でできた天の川の先には、きっと幸せが待っていると思う。
やまない嵐はない、これ俺の座右の銘」
笑顔を作った俺。弥生は、手で涙をぬぐって遠い目で海を見ていた。
弥生と二人で海を見る、舟はどんどん沖に流れていく。
弥生は、いつしかいつも通りの無表情に戻っていく。
それが、弥生の普段の姿。
「そうね、勇太……一つ約束してもいい?」
「弥生?」
「私、あなたと星が見たい」
その言葉に、俺の胸はすごく熱くなっていた。
激しく、熱く、苦しく、俺の胸はおかしい。だから弥生から目をそむけてしまう。
「うん……」
あいまいな返事をして胸を抑えた。
胸が、いまだにドキドキしている。これはなんだ?俺はまだ戸惑っていた。
でもそれは心地よいものでもあった。