(3)~三十路男と相手の実家~
それまで、南城家は父・母・長女・次女=瑛花の4人構成だった。
父・英隆は苦学の末に司法試験を突破し、今では八面六臂の活躍をみせる名うての弁護士。
母・理緒は学生時代に4年連続でミス・キャンパスに選ばれたという伝説持ちの美人で、しかも良妻賢母のお手本のような女性。
長女・瑛実は瑛花の2つ年上の姉で、晴玉学園中等部でも抜きん出た才媛として注目を集めており、2年生になった今年の春には中等部生徒会長に就任していた。
そんな家族に囲まれて、瑛花は過ごしてきた。
瑛花自身も顔立ちは整っているし、学業も優秀な成績を修めている。スポーツもそこそこ熟すし、人付き合いもいい。自立心も強く、何事にも積極的に向かっていく。平均以下で本人も割と気にしている胸の大きさを除けば、小学六年生としては申し分のない女のコであった。
だが、家族に対して密かに思うところがあった。
父親は娘たちを溺愛しており、ある意味過保護な面がある。特に末っ子の瑛花には「学校はどうだ。困り事はないか」と毎晩のように訊いてくる。
また姉の瑛実も妹・瑛花に対して必要以上に心配性な───というかまあシスコンなところがあり、なにかにつけては初等部校舎に顔を出し瑛花の世話を焼こうとするのだ。「私はお姉ちゃんなんだから」と。
持ち前の強い自立心が故にそれらを疎ましく感じることがあり、そんな風に家族を疎む気持ちがあること自体、瑛花にとって悩みの種であった。
───早く一人前になりたい。自分のことは自分に任せて欲しい。
何年も前から、常々そういう想いを抱いてきた。
家族の干渉がない、友だちと一緒にあれこれしている時間が、一番の楽しみであった。その頃は。
「学校帰りに市役所で住民票を取ってきてくれるかしら」
時臣が『運命の日』と呼ぶ、5月中頃のあの日の朝。
母親からそう頼まれた瑛花は、放課後一人で普段まったく使うことのなかった路線のバスに乗り込んだ。瑛花の通う晴玉学園からだと市の中心部に位置する市役所よりも、西部住民サービスセンターの方が近い。そこでも住民票を取得できるということは、後に時臣から教えられるまで知らなかった。小学生がそんなことを知らなかったとして、何の不都合もないのだから。
まあとにかく。
母親の依頼通りに市役所へ着いたはいいものの、住民票なるものはどこに行けばもらえるのかが皆目見当がつかない。さらに運の悪いことに、入口脇の案内カウンターが無人だった。
困って視線を巡らしていたところ、近くの自販機で緑茶のペットボトルを買い終わった様子の職員を見つけ、声をかけたのだ。
「あ、あのっ。住民票ってどこでもらえるんでしょうか?」
その相手こそ、今の彼女の婚約者であった。まさか直後に「結婚してください!」などと言われるとは思いもよらなかったが。
衝撃的な───或いは笑劇的な突然のプロポーズを受け入れた理由の中に、『結婚すれば───婚約者ができれば、家族も自分を一人前として扱ってくれるのでは』という想いがあったのは確かだ。
なにはともあれ、その後紆余曲折を経て、現在に至る。
武蔵玉川市の東端に位置する桜玉川駅から徒歩3分ほどの場所に、見るからに高級そうな巨大高層マンションが建っている。
近場のコインパーキングにクルマを停めた時臣と瑛花は、その5階にある南城家の玄関前にたどり着いていた。時刻は午後6時56分。
瑛花がインターホンに手を伸ばそうとすると、
「あー。ちょいタンマ」
渋面の時臣がそれを制した。
「なんかイヤな予感が───」
「ここまで来て、まだそんなこと言うんですか? まったくもう。さっさと済ませちゃった方がいいでしょ?」
「でも…」
「うるさいです」
渋る時臣にピシャリと言い放ち、瑛花は改めてインターホンを押した。
次の瞬間、
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっ!!!!」
突如ドアが内側から開け放たれ、金属バットが飛び出してきた。
続いてそれを握りしめた白いセーラー服の少女の姿。
「このロリコン野郎!死んで瑛花を返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
ブンブン振り回される金属バットの先端が時臣の頭や顔面を掠る。
慌てて瑛花が叫んだ。
「ちょっとお姉ちゃん!」
「おぉ、おかえり瑛花♡ 先に中入ってて? 私は───」
ニッコリ微笑みを瑛花に向けたのは、姉の瑛実であった。手にした金属バットを再度ギュッと握り締め、
「このロリコン野郎を血祭りにあげてから戻るか…らッ!」
「のぉぅわッ?!」
時臣の顔面目掛けて一気に突き出した。紙一重で避けられたのが悔しいらしく、キッと睨みつける。
「憎きロリコン変態野郎ッ! 今すぐ死ねッ! 死ねッ! 死ねってのッ!」
「ちょ…お、お義姉さん落ち着いて」
「お義姉さんとか呼ぶなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
瑛花を少し大人びさせたような非常に整った顔立ちは鬼の形相。肩口でキレイに切り揃えられた髪を振り乱して、
「こうなったら二刀流じゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
どこからか取り出した金属バットをもう1本。両手それぞれに構えるや、次々と繰り出していく。中二女子の腕力とは思えない凄まじい攻撃。時臣はひーひー言いながら、なんとかそれを避けていた。
「早く死ねッ! 一秒でも早く死ねッ! とにかく死になさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっっ!!!!」
「のぁ?! ぅひーっ?! え、瑛花さんタスケテ!」
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっ!!!!!!」
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死んじゃう────────────っ?!」
「お姉ちゃんってば!」
たまらず瑛花が二人の間に割って入ろうとしたその時。
「それぐらいにしとくんだ」
いやに野太い声とともにヌッと現れた巨漢が、瑛実の金属バットを鷲掴みにした。
「玄関前で何を騒いでおるのかと思えば。瑛実、はしたないぞ?」
「……お父さん」
三人分の視線を受けたその漢は、瑛実の手から金属バットを取り上げると、瑛花を見据えてニカっと笑う。
「瑛花。一月ぶりだな。相変わらず可愛いのぅ」
「お、お久しぶりです…お父さん」
瑛花は少し緊張した面持ちでペコリと頭を下げる。
その後ろで肩で息をしている時臣は、青ざめた顔を巨漢に向けた。
「た、助かりました…南城先輩。危うく娘さんに殺されるところでしたよ」
「ぬははははっ! お前も元気そうでなによりだな、瀬上よ」
「きょ、恐縮です」
「まぁ立ち話もなんだ。さっさと上がらんか」
巨漢───南城英隆は、ぬはははは!と笑いながら、ゴツい手で瑛花の頭を撫でた。
南城宅のリビングには、背の低いテーブルを囲うように大きな皮張りのソファが3つ置かれていた。
その真ん中のソファに英隆の巨体がどっしりと座り、彼の右手側に瑛実が、左手側に瑛花と時臣が座っている。
「母さん! 早ぉせんか!」
野太い声が轟くのと同時に、
「はいはい、ただいまぁ~」
という返事とともに、妙齢の女性が大きな盆を抱えてやって来た。盆の上にはポットに急須、人数分の湯飲み茶碗が載っている。
「は~い、お待たせ」
どう見ても女子大生くらいにしか見えない若々しい女性は、こう見えても二児の母。南城英隆の妻・理緒である。
彼女はさも当然のように英隆の太い膝の上に腰を下ろし、お茶の準備を始めた。淀みない手つきの合間に顔を左手へと向ける。
「お久しぶりですガミ先輩。それに瑛花ちゃん」
「理緒ちゃんも元気そうで」
「はい、お母さん」
英隆34歳と理緒31歳の夫妻、そして時臣は、彼らの母校・命路大学で同じサークルの先輩後輩の間柄であった。
それもあってか、瑛花に連れられて時臣が始めてここを訪れた際も、邪険にされることはなかった。来訪目的が非常にアレであるにも関わらず。
瑛花との結婚を前提とした交際───というかもう結婚するための婚約を申し出た時臣に対し、理緒は諸手を挙げて賛成。英隆の方は暫し熟考した後、「承諾してもいいが条件がある」と告げた。その条件というのが、
一、毎月必ず二人揃って南城家に顔を出すこと。
一、瑛花を決して泣かせぬこと。
一、瑛花が16歳になるその日まで決して肉体関係に及ばぬこと。
というものであった。
婚約する以上半端なことは許さんから、瑛花は時臣と同居すべしという付帯条件まで出された。
但し「この条件を遵守できなかった場合、ワシは被告人席に立つことも辞さぬ」=貴様をブチ殺す、と真剣な表情で約束させられたのだ。
今日ここへ来ているのも、この約束のためであった。
「しかしまあ、みなさんお元気そうでなによりです。ははは…」
時臣が乾いた笑い声をあげる。場の空気が重いのだ。
主な原因は、対面でこちらを睨みまくっている瑛実である。彼女は時臣を「可愛い妹を奪い去ったロリコン変態野郎」として敵視しており、両親の手前大人しく座ってはいるが、少しでも時臣が瑛花と仲睦まじい様子を見せようものなら殺すぞ───と鋭い眼差しでそう主張していた。ちなみに空手二段の武闘派だったりする。先程金属バットを用いたのは、おそらく怒りで我を失っていたからだろう。それが逆に幸いだったのだが。
さらに場を硬直させているのが、南城家の主のぎこちない状態だ。色々と言いたいことや訊きたいことはあるのだろうが、英隆は「むう…」とか「ぬ…っ」などと口走っては黙り込んでいた。その視線の先には緊張気味に堅くなり俯いてしまっている瑛花。愛娘のこのような状態に、どう言葉をかけたものかと迷っている様子であった。
英隆の膝に乗っている理緒は、ただただニコニコ微笑むばかりで、助け舟ひとつ出してくれそうにもない。夫を立てて、自分が出しゃばるつもりはないのだろう。
必然、この場では『婿殿』であるところの時臣が気を利かせて動かなくてはならない状況だ。だが隣で堅くなっている瑛花が気になって気になって、市役所勤めで培ったハッタリ対人友好モードも発動できずにいた。
(あー、なんなのこれは。瑛花さんどうしちゃったんだろ? まさか生理か…っていやいやまだ何日か先のはずだし。ってか今日は金曜だぞ金曜。金曜の夜ってのは明日明後日の休みに向けて、瑛花さんとイチャイチャして気分を盛り上げるべきだろうが。なんだってこんなトコでこんな。なになになんなのこの空気。あー、早く瑛花さんとの愛の巣に帰りてぇ……)
時臣の頭の中はこんな具合であった。
5分だろうか、10分だろうか。しばらくの沈黙の後、不意に英隆が体を揺すった。顔をズイっと瑛花の方へ向け、
「瑛花」
と重く呼びかける。
肩をビクッと震わせた瑛花は、俯いていた顔を上げて応えた。
「はい、お父さん」
「最近はどうだ? 瀬上とは上手くやっておるのか?」
「……はい」
「むぅ。セックスはしとらんだろうな?」
英隆が腕組みをしてそう問うた刹那、
「な───っ?!」
顔を真っ赤にした瑛花が急に立ち上がった。
「そ、そんなこと! そんなのお父さんには関係ありません! わたしと時臣さんが、え、え、えっちなことしてるかどうかなんて、答える必要ありません!」
「な…んだ…と」
壮絶なるショックを受けたのか、英隆は固まってピクリともしなくなった。
鼻息を荒くした瑛花は時臣の手を取り、
「帰りましょう!」
「え、え、でも…」
「いいから!」
もの凄い剣幕でグイグイ手を引っ張る。こうなっては逆らうこともできず、時臣も立ち上がった。
と、そこへ───
「ちょっっっっっっと待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
鋭い雄叫びと同時に金属バットが飛んで来て、あろうことかソファに突き刺さった。
「あ、あ、あ、あんたたち! まさか…ッ!」
再び鬼の形相となった瑛実が仁王立ちしている。身体中から怒りのオーラが立ち昇っていた。
「ふっっっざけんじゃないわよッ! やっぱりアンタ……殺す!」
「いやいやいや、お義姉さん落ち着いて」
「誰がお義姉さんじゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!!!!!!」
完全にブチ切れた様子の瑛実が腕捲りしつつ一歩踏み出した矢先、
「お姉ちゃんうるさいッ!」
瑛花がキッと睨みつける。
「お姉ちゃんにも関係ないでしょ! こ、こういうのは夫婦の問題なんだから!」
「ふふふ、夫婦ですってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ?! むっきゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ?!!」
精神に多大な影響を及ぼしたのか、瑛実は両手で頭を抱えるやその場でグルグルと回転し始めた。
「もう帰ります! さようなら!」
時臣の腕を引っ張りながら、瑛花はそう吐き捨てる。
「あらあらまあまあ」
終始にこやかな表情の理緒は右手を振って二人を見送っていた。
瑛実はグルグル回り続けている。
そして、英隆は白眼をむいて気絶していた。