(2)~三十路男のお迎え~
私立晴玉学園は、武蔵玉川市の西側にそこそこ広大な敷地を有する、小学校から高校までの一貫教育校だ。
南城瑛花はその晴玉学園初等部に通う6年生。クラスはB組である。
11月下旬の金曜日。
初等部校舎の3階にある6年B組の教室は、帰りのHRも終わり、児童たちのざわめきで溢れていた。クラブ活動にそそくさと赴く者もいれば、楽しげにじゃれあっている男子の集団も、様々な話題に花を咲かせている女子のグループもある。
そんなクラスの空気の中で、瑛花は窓際の自席に座り、気も漫ろといった趣きで外を眺めていた。開け放たれた窓から入るそよ風に、腰まで伸びた髪がサラサラと靡いている。
「なぁ~にボーッとしちゃってんのっ」
明るい声とともに、瑛花の頭頂部に後ろからチョップが振り下ろされた。
「……ったいわね!」
「ひひひっ。ボーッとしてる方が悪い」
「そうだね。うん。そうそう」
振り向く先には、ニヤニヤと笑っている活発そうなショートヘアの女のコと、その隣でしきりに肯いているおっとりした感じのセミロングの髪の少女。前者は智絵で、後者が恋歌。どちらも瑛花の親友である。
「ちょっとくらいボーッとしてたっていいじゃない。まったくもう」
溜息混じりに頭をさすりながら、瑛花は立ち上がった。智絵と恋歌の顔を順に眺めて、
「二人とも部活は?」
と問うや否や。
「ンなことより! 今日も来てますぜぇ~。例のカレ」
「うんうん。そうそう。校門のところに居るみたいだよ?」
「あー。それは知ってる」
瑛花は再び溜息をついた。窓を指差し、
「だって見えてるもの。ここから」
「だったら早く行ってあげなよぉ~。このこの! ニクイね、こんちきしょーめっ。今日もこれからラブラブデートかい? ひひひっ」
「いいよねぇ~。うんうん。うらやましい。ほとんど毎日お迎えなんて」
「……どう考えてもおかしいのよ。こんな時間に来られるなんて」
───どうやら冷やかされているらしい。そう感じた瑛花は、わざと素っ気無く答えた。
「ホント、しょうがないヒト。少しでも長くわたしと居たいって言って……まったく」
三度目の溜息をつき、両手をうなじへと回す。髪を左右に分け、片方ずつ緩く編み込み始めた。
「あ~。やっぱり髪型変えるんだね? いいなぁ……」
何故だかわからないが、恋歌が感動したような口調で言ってきた。なんだか頬を朱に染め、瞳まで潤ませている。それに若干の戸惑いを覚えつつ、瑛花は髪を手早く編み込んでいく。
「ん……。あのヒトが好きなのよ。三つ編み」
「ひひひっ。やっぱアレ? 好きな人の好みに合わせたい乙女ゴコロってやつ? あぁ~ん、アナタ色に染めてぇ~んっ」
「…うっさい」
「照れるな照れるなっ。ひひひっ」
ほんの少し顔を赤くした瑛花は、机に出しておいた紫のリボンに手を伸ばそうとした。だが、それより先に恋歌がリボンを手にとる。
「おリボン結んであげる」
「ん、ありがと」
されるがままに、三つ編みの先端付近にリボンが結えられていくのを見つめる。
「でも本当にうらやましいなぁ……。うんうん。うらやましいよ。フィアンセさんがお迎えに来てくれるなんて……なんだかお姫様みたい」
うっとりとした表情で、恋歌が窓へと視線を向けた。つられて智絵もそちらを向く。
「あ~ぁ。あたしもカレシ作ろっかな~。年上のカレってさ、ちょっと憧れちゃうじゃん? 頼り甲斐がありそうでさ」
「……そんないいもんじゃないわよ。特にウチのは、ね。なにしろ20歳も上なんだから。はっきり言って、おっさんよ。しかも甲斐性なし」
「またまたぁ~。照れ隠しもいい加減聞き飽きたぞっ」
「そうそう。そうだよぉ~。優しそうだし、甘えさせてくれるんでしょ? うんうん」
「あのシケた顔が…そう見えるんだ。ちょっと意外」
「今度ちゃんと紹介しろよなっ。まだ一度挨拶したくらいなんだぞ?」
「うんうん。私たち親友なんだから、未来の旦那さま…ちゃ~んと紹介してほしいな♡」
詰め寄ってくる二人を左手で制す。その薬指には、キラリと光を反射する細身のリングが嵌められていた。
「その内…ね」
言って瑛花はダークブラウンのランドセルを背負う。細い楕円形のフレームレス眼鏡のブリッジを指先で押し上げて、
「んじゃ、わたしはそろそろ帰るから」
「えー! 瑛花ちょっと冷たいぞ~」
「うんうん。バイバイ。また明日」
瑛花はそれぞれの反応に右手を振って応えつつ、教室を後にした。
晴玉学園の正門前には広めの駐車スペースが設けられている。
そこには我が子を迎えに来ている親たちの車が数台停められていた。高級国産車や日本人に大人気のドイツ車に混じって、1台の英国車がある。
フロントマスクにはメッシュグリルを挟んで、やや楕円のヘッドライトが左右2つずつ並んでいる。そう、それはジャガーであった。『本物のジャガーオーナーたち』からは「罰ゲーム」だの「にゃがー」だのと蔑まれている、ジャガーのエントリーカーであったX-TYPEの最終モデルだ(現在は生産されていない)。ボディはシルバー。ボンネットの先端には「これでもジャガーなんです!」とでも言いたげに、ネコ科のマスコットが鎮座している(オプションで5万円する)。
そのクルマの脇に、一人の男が立っていた。
タバコをふかせつつ、なにやらそわそわしているこの男こそ、瀬上時臣である。黒のスーツに薄いグレーのシャツ。そして黒地に白い水玉模様のネクタイ。オールバックの髪型と相俟って、パッと見チンピラに見えなくもない。本人はビシッとキメてるつもりなのだが。
先程から数分おきに腕時計をチラチラ見やり、タバコを何本も吸っていてとにかく落ち着きがなかった。
「遅いなぁ。まだかなぁ。あー、早く来ないかなぁ……」
独りブチブチと零している。待ちきれない様子が滲み出ていた。正門から児童や生徒が出てくる度に顔を上げては落胆の繰り返し。まるで親を待つコドモか飼い主を待つ忠犬のような有様だった。
ある意味で、彼は忠犬なのかもしれない。飼い主はもちろん───
「お待たせしました」
可愛らしくも凛とした声を耳にした途端、時臣の表情がパッと明るくなった。
タバコを携帯灰皿に押しつけつつ見上げた視線の先には、漆黒のワンピース型のセーラー服を着た瑛花の姿。その幼さが色濃く残った胸許で揺れる純白のスカーフと、一歩進む度にヒラヒラ舞い踊る膝丈のプリーツスカートの裾をじっくりと凝視する様は、変質者のそれに近い。
「瑛花さんッ」
20歳年下の女のコに「さん付け」で呼びかけ、時臣は瑛花の傍に駆け寄った。そのままぎゅーっと抱き締める。
「あぁ…瑛花さん。瑛花さん。瑛花さん……」
夢見心地の顔つきで、瑛花の頭に頬擦りを始めた。すーはーすーはーと髪の匂いを嗅ぎ、さり気なく右手は瑛花の腰の辺りを撫で回してたりもする。
「ちょ、時臣さん…あぁもう鬱陶しい! いきなり抱きつかないッ」
「だってぇ~」
両手で突き放された時臣は、世にも情けない声をあげた。
しゅんとするその顔を見上げた瑛花はこめかみに指を当てつつ、地面に向けて、はぁ~っと深く溜息をつく。
「はいはい。お待たせしました」
「すっっごく待ったんだよ? なんでこんなに時間かかったの? ハッ……まさか放置プレイ?」
「そんなワケないです。ちょっと友だちと話し込んでただけ。気になるんなら電話くれればいいじゃないですか」
「……だって、やたら電話すると『鬱陶しい』って怒るじゃん。メールも返信くれないこと多いし。瑛花さんに嫌われたくないし」
「はいはい、わかりました。まったくもう。どうしたあなたはそう──────ん、もういいです」
眼鏡のブリッジを指で押し上げると、瑛花は再び顔を上げた。
「もう行きましょう。周りの人が見てて恥ずかしいですから」
確かに警備員や下校中の生徒たちが、二人の様子を見ながら苦笑していた。そんな視線を振り払うように、瑛花はジャガーに向けてすたすた歩きだす。その背中を慌てて時臣が追った。手を伸ばして華奢な肩を掴み、
「瑛花さん瑛花さん。ただいまのちゅーは?」
「ここでしろと?」
問うが早いか、振り向きざまにひどく冷たい目で射抜かれる。
「いやだって……ただいまの、ちゅー…………」
「そんなの後ですッ」
瑛花は肩に乗せられた手をパッと振り払い、ジャガーの後部座席にランドセルを放り込むと素早く助手席に乗り込んだ。アイボリーの総革張りシートに腰を落とす。
続いてあたふたと運転席に回り込んだ時臣は、シートに身を沈めドアを閉めるとすぐさま頬を瑛花に差し出す。
「ただいまのちゅー、ちょうだい?」
「………………ったくもう」
してあげないと、延々求め続けてくることは百も承知だったので、瑛花は少し渋った様子を見せつつも眼鏡を外した。
「ホント仕方ないヒト。───ん」
ちゅっ、と軽く頬にキス。
途端に時臣はデレデレと相好を崩した。
「ぬふふ♡ あー、幸せぇ~。瑛花さん好き好き♡ んー」
調子にのって唇まで突き出してきた。瑛花はジト眼になるとキスしてやった頬をペシペシと叩く。咳払いひとつ、
「ん、おふざけが過ぎると怒りますよ?」
「はぁ~い」
顔を引っ込め肩を竦めた時臣は、ふと気がついたようにボソッと呟く。
「そういえばなんでいちいち眼鏡外すの?」
「三十路男の顔脂がレンズについたらイヤだからです」
眼鏡を掛け直した瑛花が静かにそう断言した。時臣の肩がガックリと落ちる。
「酷いや…」
「ほっぺにちゅーしてあげたんだから、文句言わない」
「……スミマセン。ありがとうございます」
「お仕事はどうしたんですか?」
「時間休をもらって早退しました」
「…まったくもう。そんなことでお仕事は大丈夫なんですか」
「理解ある上司と同僚に助けられております」
「あまり周りの人に迷惑かけないでください。わたしのせいで───なんて思われたらとっても心外です」
「ごめんなさい。でもでも、やっぱり瑛花さんと少しでも長く一緒に居たいし」
「それでお仕事に差し障りがあるようなら、わたしにも考えがありますよ?」
「え、あ、いやいや……その、あの、ほら、公務員はそうそうクビにならないし」
「そんなことに甘えない」
「うぅ…ごめんなさい」
「まったく……あなたってホントに───ん、もういいです」
「え、瑛花さん?」
「で? まだ出発しないんですか?」
「スミマセン。すぐ出します」
若干呆れ顔の瑛花は深く座り直すと、シートベルトを装着する。同じくシートベルトをセットした時臣が、しゅんとなって前を向いた。「じゃあ出発しまーす」と独り言ちる。
V6気筒・2,000ccのエンジンが静かに唸りをあげ、二人を乗せたジャガーはゆるゆると走り始めた。
「んでさ。今日はどうする?」
市道と都道の大きな交差点での信号待ち。
ステアリングを右手だけで握った時臣は、左手を瑛花のふとももに伸ばしながらそう訊いた。───余談だが、このクルマは右ハンドル車である。
「20号を流す? それともいっそ高速乗っちゃう?」
時臣の趣味はドライブ。学生時代からクルマを乗り回し、暇があればあちこちと流す。大抵はこれといった目的地を決めず、気の向くままに走るのだった。「クルマを乗り回すこと自体が楽しい」とは本人の弁。最近は専ら放課後の瑛花を隣に、都下を流すのが日課となっている。
「何言ってるんですか。今日は『あの日』ですよ? 高速道路で遠出なんてしたら間に合わなくなります」
伸ばされたいやらしい手の甲をパシッと叩きながら、瑛花は視線を右に向ける。
「───まさか忘れてた、とか」
「あー。あー、そっか……」
時臣は叩かれた左手を軽く振りながら引っ込め、ガックリと肩を落とした。表情が曇る。
「そっかぁ……今月分は今日だったっけ。あー。あー。面倒だなぁ」
「約束はきちんと守らないと」
「そーだよねぇ。わかってるケド…さ」
「それとも───婚約解消します? そうすれば」
「絶対イヤ! 瑛花さんと別れるなんて死んでもイヤだね!」
「だったらブチブチ文句言わない」
「はぁ~い」
信号が青に変わる。
時臣はアクセルを踏み込み、クルマを発進させた。その顔にはあからさまな「ちょーめんどくさ」という表情が浮かんでいる。
「まだちょっと時間余裕あるし、適当に流しながらでいいよね?」
「お好きにどうぞ」
「あーあ。瑛花さんがちゅーしてくれたら、ヤル気も出るんだけどなー」
チラリと向けられた視線を完全に無視して、瑛花は車窓を流れる夕暮れの街並みをボンヤリと眺めていた。
───気が重いのはわたしだって同じなんです。まったくもう。
なおもあれこれと理由を付けつつキスを要求してくる声を聞き流し、瑛花は小さく息を吐く。ウインドーに映るその顔は、眉根に皺を寄せていた。