(1)~三十路男のプロポーズ~
「結婚してください!」
気がついた時にはそう叫んでいた。
何故いきなりそんなことを口走ってしまったのか───瀬上時臣自身にも訳がわからなかった。
頭の中が沸騰していた。暴走といってもいい。とにかく、口にせずにはいられなかった。屈んだ目の前でビクッと震えた華奢な両肩をギュッと掴み、相手を見つめる視線にありったけの情熱を注いで大声で懇願する。
「結婚してください! 俺の…いや僕の、お嫁さんになってください!」
相手は呆然としていた。それはそうだろう。こんな場所で、こんな風に、こんな言葉を向けられるなんて、夢にも思わなかったはずだから。
「僕と結婚して! お嫁さんになって!」
無我夢中で投げかける。なんの捻りもない、直截な求婚。
今この時、この相手に向かって言うべきかどうかなどということは一切考えていない。まさしく衝動。脊髄反射的に、行動に出てしまったのだ。
それほどまでに衝撃的な出会いだった───少なくとも時臣にとっては。その姿を一目見た瞬間、身体中を電撃のような言いし得ぬ感情の昂りが駆け巡り、脳は完全に熱暴走している。視界が一度ぐるりと回ったかと思ったら、既に口と手が動いていた。
相手はどうだろうか。一度身体を震わせてからこっち、微動だにしていない。
周囲の空気も凍りついている。
端から見ると、なにもかもがオカシイ状況だった。時も場所も場合も弁えない、突然の異常事態。
───時は、午後5時ちょっと前。
───場所は、市役所1階のロビー。
───場合は、当時者の片方がとにかくヤバい。どうヤバいのかというと、具体的には年齢が。
二人の周りには、終業前の時間をあたふたと、或いはのんびりと過ごしていた職員たちや、用事を済ませて帰ろうとしていた来庁者が数名。皆一様にその場で動きを止めていた。
「…あ」
ほんの少しの静寂の後、ようやく脳味噌が自分のしでかしている状況を把握し始めたのか、
「ご、ゴメンね? いきなり、こんな」
時臣は項垂れた。───なにをやってるんだ自分は。もうアホかと。バカかと。なにコイツ。一度死んだ方がいいんじゃね?
自虐で心がいっぱいになりはじめる。そこへ、
「───ん、いいですよ」
少し緊張したような震えを帯びてはいるものの、凛とした涼しげな、それでいて可愛らしい声。
耳にした言葉の───望んでいた意味合いではあるものの───その真意が瞬時には解りかねて、時臣は顔を上げた。
「は?」
「だから、いいですよって言ったんです。……お嫁さん、なってあげます」
未だ両肩を掴まれたままの相手は、緊張からか頬を紅潮させつつも微笑んでいた。その小振りの唇が再度開く。
「なって、欲しいんですよね? お嫁さんに」
「……え、あ、うん。だけど───」
いきなり自分から言いだしておいて逆に戸惑う時臣の顔をしっかりと見据え、相手はちょこんと小首を傾げた。
「それで? あなたのお名前は?」
* * *
瀬上時臣32歳。
職業、武蔵玉川市役所住民課職員。
中肉中背。理知的ではあるがパッとしない顔立ち。Ray・Banのメガネをかけて粋がっているものの、オールバックにした髪の生え際が割と哀しいことになっている、どこにでも居そうなアラサー独身男。
そんな彼の冴えない人生に、最近になって光明が差した。
───幼い婚約者ができたことで。
婚約者の名前は、南城瑛花。12歳の小学6年生。
ああ、そう。そうなのだ。
割と犯罪チックなこの状況を、世間様がどう見るのか。彼も、彼女も、気にはしている。してはいるけれど、事実として婚約したのだ。
───何か文句がある?
二人はそう割り切って毎日を過ごしている。
これは、冴えないアラサー男と、その婚約者となった女のコの、割とありふれた残念な日常のお話である。