「胡蝶の夢」
十歳ぐらいの女の子の姿をした、懐かしい、おまえは親友。
事故で、昏睡から目覚めなかった、僕。眠り続けていた僕に、「感情」を――そして「笑うこと」を取り戻してくれたのは、おまえだった。
僕と同じ、決して覚めない眠りの中で夢を見続けているのだと、おまえは言った。ひとりぼっちは寂しいから、せめて夢の中で一緒に居ようと。
僕は、おまえを「みゆ」と呼んでいた。「美しい夢」と書いて「美夢」。僕の好きなように呼べば良いと言われたので、そう呼んだ。
ベッドサイドで、泣き続けていた母親。見舞いに来ようともしなくなった、父親。僕のことなど忘れてしまった、学校の友人達。美夢だけが、いつも僕を楽しい世界に連れ出してくれた。
いろんな冒険をしたね。クローズ後の遊園地で、遊びまくった。二人だけのメリーゴーランド、闇の中に浮かび上がる観覧車、そして星空に飛び込むジェットコースター。
いつまでも、二人で遊んでいたかった。
美夢が側にいるせいで、僕は目覚める事が出来ないのだと、知らされるまでは。
(醒めない夢なんか、ないんだよ)
告知の天使は、初めて会った時にそう告げた。
その言葉を、信じたわけではない。でも、もしも目覚める事が叶うなら、母親がベッドサイドで泣く事はなくなるだろう。
毎日、僕の枕元で自分を責めていた、母。彼女に対し、「ほおっておけば良いのよ」と美夢は言った。
「白兎の事を心配なんかしていない母親なんか、ほっておけば良いの」
「でも、泣いてるのに。お母さん」
「自分が代わってやれたらって? そんなの、自分を哀れんでるだけじゃない。馬鹿みたい」
そんなことより、楽しめば良いと美夢は言った。「どうせ見るなら、楽しい夢が良いじゃない」と。
でも、母さんは泣くのだ。毎朝、目覚めない僕に会いに来て、泣くのだ。
天使の言葉を信じたわけではない。でも、美夢が本当に友達なら、夢の中でまた会える筈。
最後の、かくれんぼ。
おまえは僕を見失った。
「やっと見つけた。白兎」
少女の姿を持つ者は、最後に別れたあの時と同じ姿で僕に抱きついて来た。
「掴まえた」
十年前と同じ顔。
昏睡から蘇り、十年が経った。僕はもう夢を見るだけの「少年」ではない。
「今度は白兎がオニだよ」
「もう、おまえとは遊ばない」
はじかれたように僕を見る、おまえ。そう。僕はとっくに知っている。おまえが「ナイトメア」だと言うことを。
「僕は、『夢喰らい』になったんだ。だから、おまえを見逃すわけにはいかない」
かつて、ジェシカによって封じられた「ナイトメア」。それが再び具現化したのならば、今度こそ消滅させなければならない。
僕だけの力では、無理かもしれない。でも、ジェシカは言ってくれた。「フォローはする」と。
きっと全て解っていて、ジェシカは僕に任せたのだ。
僕のかつての親友。それが関わっていることを知り、僕に後始末をさせようとした。今度こそ、あいつをきちんと「消滅」させる為に。
そろそろ、日付も代わった頃。だったら、どこかでフォローが入るんだろうなと。
僕が、お釈迦様の掌の上の孫悟空であることを、改めて自覚する。
「と、言うわけだから。おまえは僕が……喰う」
力を貸せと、彼女は言った。
だから、今こそ、その時だと。
「白兎って、もしかして馬鹿?」
ナイトメアが、そう答えるまでは、僕は勝利を確信していた。
「ジェシカ。ジェシカっていうんだ。そいつがずっと白兎を隠していたのね」
意地の悪い笑みを浮かべ、ナイトメアは僕を見た。
「十年? どうして十年も経ったと思うの? ちゃんと見てよ。私は変わった?」
ナイトメア――美夢は確かに十年前と同じ姿でそこに居る。でも、僕は首を振った。
「それは、おまえが人間ではない証だろう?」
「だったら、あなたはどうなのよ? 白兎」
おかしそうに笑う、ナイトメア。
「あなたは、どう変わったの?」
ナイトメアが指をさす、その先。見てはならないと心のどこかで思いながら、視線を向ける事を止められない。
そこには、病室で眠り続ける少年の姿。
まぎれもない、十年前の僕が居た。
「やはり」と思ってしまう自分が、確かに居た。
やっぱり、夢は醒めなかったじゃないか。醒めない夢なんてないって、言ったのに。
僕が必要だって、言ったのに。その力があるって、言ってくれたのに。
きっと、この数時間後には母さんがベッドサイドで語りかけ、そして泣くのだろう。
そう、昨日と同じように。
それは、初めてジェシカと接触した時に想像した未来。
だから、違うと言える。
母さんは、もう泣かない。
今日だって、苦笑しながら僕に……。
そこまで考え、僕は絶句する。母さんは僕に、何を言った? 思い出せない。泣き顔以外、全く思い出せない。
「おまえ!」
ナイトメアを睨み付ける。
絡まり合う、視線。ナイトメアは、先ほどまでとは全然違う、今にも泣き出しそうな目で僕を見ている。
かつて、涙声で「もういいかい?」と叫んでいた、おまえ。
僕の、親友。
駄目だ、飲まれるな。
「ジェシカさん!」
叫ぶ。フォローはしてくれると、彼女は言ったのだ。
「ジェシカ……」
無理に声を張り上げたせいで、咳き込む。
闇が、更に深まった気がした。
(戦う力がないのなら、眠って居れば良い。でも、お前にはそれがある)
何が出来るんだよ。僕に。このまま、心地よい夢の中に、どうして置いておいてくれないのか。
(お前も同じ。守る力があるもの)
守る? 何を?
(質問は、許さない。私に力を貸せ。我が同朋と共に戦え)
僕にそう告げたのは――誰だったのだろう? 激しい、銀色の光明の中に降り立った――。
「ナイトメア」
美夢の指が、僕の頬に触れた。がっくりと項垂れた僕を支え、立ち上がらせてくれる。
「白兎はずっと、ナイトメアに捕らえられていたのね」
少し冷たい、美夢の指。それがかえって心地よく感じられた。
「あの女が眠りについて、やっと白兎と出会う事が出来た。そうでしょう?」
空に浮かぶ、二つの月。
そこに突然湧いたように現れた、黒猫。
それは記憶に新しい。目覚めた状態で誰かの夢の中に迷い込んだ、あの時。
「違う」
かすれた声で、僕が言う。
「違わない」
美夢が耳元で囁く。
「全部、夢なの。私たち、ずっと夢を見ているの」
それは、夢の中で初めて出会った時に告げられた、美夢の言葉。
「ひとりぼっちじゃ寂しいから、せめて夢の中では――」
一緒に居よう。
言いかけて、首を振る。
認めるわけにはいかない。
でも、もう解らない。
夢でないのなら、どうして、僕の前に出てこない? どうして、もう名前すら思い出す事が出来ないのか。
貴女がここに居ないから、解らない。
これは夢だ。僕は夢を見ている。
だが、夢を見ている僕の、一体何がほんとうなのかが。
――故事でね。
不意に、そんな言葉が閃いた。
――夢の中で男は胡蝶になっていた。そよ風にあおられ、気持ちよく飛んでいたらさ、目が覚めた。
――男は思ったんだ。自分は本当は自分という人間なのか。それともこれは胡蝶が見ている夢なのか、と。
それは、『胡蝶の夢』といわれる。あまりに有名な故事。
自分が人間の男であろうが、胡蝶であろうが本当は関係がない。人間の時は人間として、胡蝶の時は胡蝶として在るのなら、それはどちらも――。
僕の中に、いつまでも残る声がある。
(醒めない夢など、あってはならない)
(ひとりぼっちは、寂しいよ)
答えは、既に出した筈。
その答えが正しいのかどうかは、解らない。
(目を覚まさなければ、いつかお前が悪夢になる事が、解らないのか?)
(お前が悪夢になる事を選ぶなら、私がお前を喰う)
告知の天使だと思っていたそれが、もっとも無慈悲な言葉を吐き捨てた。
銀色の光明が、僕の目の前に突き刺さる。
それは、まるで翼を広げた天使のように見えた。
「笑わせてくれる」
光の塊。純粋な力の具現。
それが、たまたま翼を広げた天使に見えてから、彼女は僕にとって「最後告知」を告げる天使のイメージを纏わせることになったのだ。
「何が夢か解らなくなったのなら、教えてやろう。私が存在しない世界など、有り得ないと言うことを!」
天使は、そうして最後の審判を下した。