「夢魔」という名の…
少女の名は、大和田彩乃と言った。
高校二年生で、バドミントン部に所属。成績は良い方だが、飛び抜けてというわけでもない。外見も普通に可愛いらしい顔立ち。イマドキの高校生にしては、あまり化粧荒れはしていない。
熱しやすくて冷めやすいというのが、大方の印象。
「眠り姫症候群」だと診断されたのは、一週間ほど前。症状も軽度。
だが、今では「眠る」事にストレスと、それ以上の恐怖を感じている。
保護者の許可を得て、眠りに落ちた彼女の手を僕は取る。
記録係として同席している先輩の北上氏が、時計を確認しながらモバイルPCを開くのが視界の隅に入った。
ゆるやかに流れ込んで来る、彼女の意識。彼女の見る夢。
夢の中の彼女は、やはり普通の女の子だった。毎朝、時間をかけて髪型を整え、食事の時にはいつもカロリーを気にしているくせに、好物は結局食べる。
制服の胸ポケットに指した愛用のシャーペンは、去年の夏に友達と一緒に出かけた、名古屋限定シャチホコキティのマスコットつき。気がついたら裏返っているキティを、ちゃんと正面に向けるのが癖になってしまった。
友人と話すのは、昨日のテレビの内容か。それとも、お気に入りアイドルグループのコンサート情報か。
彼女の夢を追い、僕は知った。
とても明るい少女が、いつからか眠る事を拒むようになった。それ以来、彼女は彼女らしさを無くしつつある。
目覚めることのない眠りに、浸りたい気持ち。このまま目覚めなければ、どうなるのだろうという不安。そのせめぎ合いに苦しんでいる。許されない事だと、僕は思った。
遡る。「あいつ」が関与しているならば、その答えは夢の中にある。
三日ほど遡ると、あいつの残り香――いや、移り香のようなものを感じた。
このあたりから、少女の意識は夢と現を行き来している状態になっている。
六日前。移り香が強くなってきた。かなり慎重に、彼女の精神に入り込む。なにひとつ、取りこぼす事は許されない。
――そして、八日前。
私は、絶好調だった。
『INC』のライブに当選したのだ。やっと、生の塁くんに会えるんだ。
「なに着て行こうかな」
そんな相談を、一緒に行く友人に持ちかけた。
「塁くん、どんな服が好きだと思う? イメージカラーが赤だから、やっぱり赤かなぁ」
「ええ? アヤって羽曳野のファンだっけ?」
意外そうな声を上げたのは、由美。
「この前までは、たいちゃんたいちゃんって言っていたよね?」
呆れたように言うのは、麻衣子。
「だから、塁くん至上主義の泰三ファン」
由美と麻衣子は同時に、「なんじゃそりゃ」と言う。
もう、二人ともわかってない。泰三は憧れ。塁くんは心の恋人。
この間のバラエティ番組を見て、もう、この子はって。私がついてないと駄目ねって。本当に心にずどんと響いてしまった。
「極端から極端に走る子だね」
「まあ、そこはアヤだから」
ふたりとも。聞こえてるよ。
どうせ、私のこと「熱しやすくて冷めやすい」とか思ってるんでしょ。いいよ、別に。解って貰えなくてもいい。
だって、私の言うこと、ちゃんと解ってくれる人はいーっぱい居るんだから。
今日も、塁くんの夢を見たいな。見られると良いな……。
何て言うか。
何と、言うべきか。
いや、言葉を飾る必要はない。つまるところ僕は、「無理」だと思った。だから、同調を解いた。
普通の、女の子。アイドルに憧れ、疑似恋愛をしている幼い女の子。これ以上、彼女の心に踏み込む事は、僕には無理だった。彼女の感情に直接触れる事に、ものすごい犯罪を犯しているような気分になった。
だから、考える。もしもここにジェシカがいれば、女性ならではの意見を出してくれるのかと。
自分で勝手に出した結論は、否だ。
何故ならば、彼女は僕の中では「女」ではない。もちろん「男」でもないが。
ジェシカは、天使。僕に「最後の審判」を告げる、美しく、残酷で無慈悲な天使。
きっと彼女がここに居たら、こう言うだろう。
(無理? 甘えた事を言う口は、この口か? ぺーぺーが簡単に無理とか言うな。そもそも、やると最初に言い出したのは、誰だった?)
はい。僕です。
「で、斉藤くん。どうする?」
僕が同調を解いてからも、ずっと黙っていた記録係の北上が、少し焦れたように聞いてきたので、僕は溜息をつきながら「続けます」と答えた。
そうだ。投げ出すわけにはいかない。これは、仕事なのだ。
「続けます。けど」
北上が、眉を上げる。
「北上さん。もちろん『INC』って知ってますよね」
僕は「インク」と発音して、これだけでは解りにくいなと自覚し、「アイドルグループの」と付け加えた。北上は、今度は軽く笑った。
「まあ、会ったことがあるかっていう意味だったら、ないな」
一日に数時間でもテレビを見ていたら、必ずどこかに出てくる人気グループだ。まぁ、知らないわけはないだろう。僕も、興味はないが一応は知っている。
「大和田彩乃は、そのメンバーの羽曳野 塁のファンなんですけど。で、ライブの日を今か今かと待っているんですね。その、オンナノコ全開の精神状況に、再び入る勇気が……」
「それは、美味しいなぁ」
北上がにやにやと笑っている。人の気も知らないで――というか、想像がつくから笑っているのだろうが。だから僕は「ですよねぇ」と遠い気分になりながら答えた。
「可愛いオンナノコ。ちゃんと救ってやらないと男がすたるってものだし」
「ですよねぇ」
僕が無駄にあがいている間に、かちゃかちゃとモバイルPCを操っていた北上が、不意に「へぇ」と呟いた。
「斉藤くん、ちょっとこれ見てみ」
モバイルPCには、有名すぎるWEB情報サイトが表示されている。「INC」「男性アイドルグループ」で検索した結果だ。
『「INC」。定岡 泰三をリーダーとするアイドルグループで(中略)グループ名の「INC」は、デビュー当時のグループ名「インキュバス(Incubus) 」(リンク付き)が元になっている。デビュー二年後にグループ名を『INC』に変えてからバラエティ番組をはじめCMなどのテレビ出演が増え、いわゆる「国民的アイドル」の地位が定着した。(後略)』
「うわぁ」
念のために『Incubus』の文字に貼られたリンクを辿り、出した僕の第一声がそれだった。
「ディープなファン多そうだなぁ」
「今は、そうでもないだろうけど……なんだかな」
今をときめく国民的アイドルグループの前身が「淫魔」というのは、どんなものなのだろう。
「というわけで、斉藤くんは全力で可愛い女の子をインキュバスから守らないと」
「解ってますよ。てゆか、インキュバスじゃなくて、ナイトメアですってば」
そんな軽口を叩きながら、僕はなんとなく引っかかるものを感じた。一瞬、閃きかけたそれは、追おうとすればするっと離れていく。
とても大事なヒントだったような気がするのだが……。
何だった? そう、国民的男性アイドルグループ。当然、女性ファンが多い。
そうだ。
「眠り姫症候群」の感染者の七割は、女性。中でも、十代後半から二十代前半、三十代後半から四十代の女性が特に多い。
その年代は『INC』のファン層とよく似ていた。勿論、子供から老人にまで人気があるのだが、棒グラフで見るとその部分は特に長い。
ナイトメアの宿主が『INC』のメンバーに居る、などという短絡なものではないだろうが――少し、近づいたのかも知れない。
「北上さん」
僕はきっと、笑っていただろう。
「もしかしたら、ナイトメアの尻尾を掴まえたかも知れませんよ」
再び、同調する。
大和田彩乃は、帰宅後、いつものようにPCを起動した。