テレフォン
外が暗くなって来た頃、突然、室内に電話の着信音が鳴り響いた。現在かったるさ百倍と銘打っている俺の心情を無視して、電話はけたたましく騒いでいる。それはもう大変好ましくない感情が芽生えてさぁ大変だ。
嫌に重力を感じる体を無理矢理動かして、台所カウンターに所在している子機の方へ向かう。そして、やや乱暴に取り上げた。
「……はーい、どちら様ですか?」
『あー、ゆーくん? ママだけどー』
うわー、出たー。
『ねぇねぇゆーくん? ちょっとだけお願いがあるんだけどー』
「はっはっは、人違いですよきっと。この家にゆーなる者は存在しないので」
『あら、嘘つきはダメだぞー? ママはゆーくんの声くらいすぐにわかっちゃうんだからー。ゆーくんほど美しい声なんてそういないんだもん』
「息子の声に恋心とは危ないですね。たぶんあなた、ジャパネットに弱いタイプですよ」
『あら、よくわかったわねー。……それでね、ゆーくん。ママちょっとお願いがあるんだけどー』
「なんでしょうか?」
『ちょっとねー、お金が足りないのよー。ゆーくん貸してくれないかなー』
「うーん、貸してあげないかなー」
『えー、なんでかなー? なんでなのかなー?』
「なんでかなー。てゆーか察しがつかないのはなんでかなー」
『まったくー、ゆーくんったら親不孝者だぞー?』
「もう三回に渡って百万ほど貸してるんですけどね。個人的には立派に親孝行のレッテルを誇示してますが」
『もー、こうなったらおしおきしにいっちゃうからねー?』
「是非いらしてください。金属バットを構えて受け入れ態勢は万全ですので」
『あら、ゆーくんったらエッチなんだからー』
「そうですね、頭蓋骨を砕かれればそういう気分になるかもしれません。毎日フルスイングを積み重ねてますので、その手の快楽には自信があります。一時の快感を得たければどうぞ」
『うーん、じゃーあー、今度ママと一緒にデートしよっかー』
「丁重にお断りします。五十路の隣をそれらしく歩いたら社会的な廃棄物になりそうなので」
『もー、つれないんだからー。それじゃあ、一緒にお食事なんかどおー?』
「濫悪にお断りします。野性動物に餌付けはしてはいけないと幼稚園のときに教育されてますので」
『まったくー、いいからさっさと金よこせゴルァ!』
「まったくあなたも苦労者ですね。あなたの人生、せめて初月くらいはクリアしたら?」
『もー、だったら強行作戦にでちゃうぞー? 無理矢理押し掛けて泣き喚いてやるんだからー』
「近所の住民全員を敵に回してもいいなら止めはしません」
『この作戦に失敗はないんだからー。香川真司なみの得点率なのよー?』
「そうですか。それでしたらこちらはカーンと川島とALSOKで対抗しましょう」
『あら、三人なんてルール違反じゃなーい』
「ルールブレイクはゲーム攻略の基本ですので。ホームセキュリティにも抜かりはありません」
『まったくー、お堅いんだからー。お尻の穴が小さいんじゃないのー?』
「そうですかね。おそらく人並みだと思いますけど」
『ママは広いのよー? 離婚する前にパパから調教され……』
「訊いてません」
『もーう、おねがいー! ゆーくんおねがいー! 家族でしょー?』
「俺の記憶が正しければ育児放棄の末に勘当を食らってるので戸籍上はもう家族ではないはずですが」
『いーじゃん減るもんじゃないんだしー』
「俺の私財が減ってます。初等教育の再履修を強くお勧めしておきましょう」
『ゆーくんひどい! こんな不肖に育っちゃって、ママは食事も喉を通らないわ!』
「人聞きの悪い冗談はやめてください。単に食べる物がないだけの話でしょう」
『あら、わかっちゃった? もう冷蔵庫スッカラカンなの』
「情報公開制度に反してますよ。冷蔵庫に限らず貯金もスッカラカンじゃないですか」
『すごーい、ゆーくんママのことならなんでもわかるのねー! えらいえらい!』
「褒めればチップが出るなんてのはアメリカの文化です。下手な期待は即刻廃棄を願います」
『じゃあじゃあゆーくん! ママをお嫁さんにどーお?』
「あはは、いやだな。どんなに罷り間違っても今の妻をワイフと言い張りますよ、俺は」
『あらゆーくん。結婚なんてしてたの?』
「えぇ。先月の五日に」
『おめでたいじゃなーい! ………待って、確か結婚したら式に来た人にお金をいくらか渡すんじゃなかったっけ!?』
「逆ですね、それ。新郎新婦が参列者から微細ながら金銭を頂戴するんです。第一あなたは式に来てないでしょう」
『うーん、じゃあじゃあ、ゆーくんママと不倫なんてどう?』
「一応俺は誠実だと自負してます。他の女性と肌を重ねるつもりは毛頭ありません」
『だったらゆーくんが一夫多妻制をぶち壊してママに尽くしてくれればいいじゃなーい!』
「尽くすつもりも覆すつもりもないですよー?」
『もう! こんなにお願いしてるのに! ゆーくんの分からず屋!』
「何度もお断りしてるのに! 元母上の分からず屋!」
『わかった! ゆーくんわかった! じゃあ最後に一つだけ聞いて!』
「聞きません。どうせロクなことじゃないので。それでは」
子機を戻す直前まで喚き声が聞こえたがもちろん無視。口うるさい母親にはイグノアハートがベストな処方だと相場が決まっている。
「……ねぇ、随分長かったけど……今の誰?」
妻が恐る恐る顔を覗かせた。心なしか、心配そうに表情を歪ませているようにも見える。
見ると、妻はエプロン姿で手にはお玉という、何とも感涙に値する主婦スタイルだ。自分のために手料理を作ってくれる……これぞまさに夫の特権だろう。
「気にしなくていいよ。つーか気にしたら負けだと思う、うん。……今日の夕飯なに?」
「あ、今日は鶏肉のマリネ炒めだよ。こないだ好きだって言ってたから」
「マジすか? ありがとう、愛してる」
「ん! 私も!」
やっべー、いまちょーしあわせー。たぶん人生でいちばんしあわせだー。
しばらくすると、妻が出来立ての料理を食卓に並べ始めた。
「はい一樹、出来たよー!」
「おーう」
すっげぇ今更だけどさ……
さっきの電話、誰?
〈了〉
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