「あの子はまだ子どもなんだ、大目に見てやってくれ」と仰るので、子どもとして扱って差し上げました
「この子はまだ子どもなんだ。大目に見てやってくれ」
婚約者はそう言って、腕にぶら下がった令嬢の頭を撫でた。
令嬢は十七歳である。
「……承知いたしました」
「助かるよ、クラリス。君は話が分かる」
分かっている。この方が本気でそう思っていることが、分かっているから困るのだ。
侯爵家の庭。秋の茶会。寄子のロシェ男爵家のポレット嬢は、さっきから私の婚約者エドガー様の左腕を両手で抱えて離さない。
私が婚約者としてこの家で過ごすようになって、一年になる。ポレット様はそれより前からいた。男爵家から行儀見習いとして預けられ、週の半分をこの屋敷で過ごしている。エドガー様とは、ポレット様が十歳のころからの付き合いだそうだ。
十歳の子どもが腕にぶら下がるのは、かわいい。
それから七年経っても同じことをしているのは、別の話だ。
「エド様ぁ、クラリス様が怖い顔してる」
「怖くないよ。クラリスは優しい人だ」
「じゃあ、もっとくっついていい?」
「はいはい」
(はいはい、ではない)
私は扇を閉じた。
「ポレット様」
「はあい」
「お客様の目のある場所では、殿方の腕は放すものですわ」
「えー。だって、エド様は家族みたいなものだもん」
「家族みたいなもの、ですか」
「そう。だから、いいの」
エドガー様が、困った顔で私を見た。その顔のまま、さっきの台詞が出たのだ。あの子はまだ子どもなんだ、と。
庭の向こうで、侯爵夫人がこちらを見ていた。
(お義母様も、見ていらしたのね)
子ども。
昼の庭には場違いな夜会用のドレスを着て、紅を引いて、人の婚約者の腕に絡みついている子ども。
(そう。子どもなのね)
それなら、話は早い。
「承知いたしました」
私はもう一度言った。今度は、自分に向けて。
子どもは、子どもとして扱うべきである。
◆
「お義母様。お願いがございます」
「なあに、クラリス」
侯爵夫人――未来のお義母様は、刺繍の手を止めずに答えた。
「ポレット様のことですが。エドガー様が、あの方はまだ子どもだと仰いました」
「言いそうね、あの子は」
「ですので、子どもとして扱おうと思います。お屋敷の催しは、お義母様のお名前で出ますので、お許しをいただきたく」
針が止まった。
「具体的には」
「来月の夜会。それまでにポレット様が改まらなければ、招待状は夜会ではなく、同じ日の子ども部屋のお茶会にいたします。三時から。付き添いは乳母のベルタ。お帰りは日暮れまで」
「…………」
「以後ポレット様がいらした際は、大人の席ではなく、子ども用の椅子を。お茶は薄く、お菓子は甘く。殿方の腕に触れたときは、ベルタが手を拭いて離します。子どもは、食べたあとの手で人に触れてはいけませんので」
お義母様は針を置いて、私を見た。
「あら。子どもなら、私が躾けますわ」
「お義母様」
「息子が子どもだと言ったのでしょう。この家で子どもの躾をするのは、女主人の仕事です。あなたの仕事でもあるわ、クラリス」
「お義母様は、これまで」
「できなかったのよ。大人の令嬢として叱れば、あの娘に傷がつく。寄子の小さな家の娘に、侯爵家の女主人が傷をつけるわけにはいかないの。……息子が子どもだと言ってくれたから、やっと躾の名目が立ちました」
七年、この方は見ているしかなかったのだ。
私は深く頭を下げた。
この方の息子に嫁ぐ。それだけで、この縁談は正解だった。
乳母のベルタは、話を聞いて一度だけ眉を上げた。
「あのお嬢様を、でございますか」
「若様が、子どもだと仰ったの」
「若様が」
「ええ」
「……かしこまりました。子どもは、何歳でも子どもでございます」
ベルタは私の乳母だった。婚約と同時に、この家へ連れてきた者である。手拭いの絞り方は、私がいちばんよく知っている。
◆
最初の実践は、その週の昼食だった。
「エド様ぁ、お隣いい?」
ポレット様が食堂に入ってきて、エドガー様の隣の椅子を引こうとした。
椅子がなかった。
代わりに、食卓の端に、小さな椅子がひとつ置いてある。背もたれに刺繍入りの布。前には薄い紅茶と、蜂蜜菓子。
「ポレット様のお席は、こちらでございます」
「え?」
「ベルタ」
「はい。お嬢様、こちらへ」
ベルタがポレット様の肩に手を置いて、小さな椅子まで導いた。ポレット様は座った。座ってから、自分がどこに座ったのか気づいた顔をした。
「あの、クラリス様。これ、子ども用の――」
「ええ」
「私、十七ですけど」
「存じております」
「じゃあ、なんで」
「エドガー様が、ポレット様はまだ子どもだと仰いましたので」
ポレット様は、エドガー様を見た。
エドガー様は、スープを見ていた。
「エド様?」
「……言った、かな」
「言いましたわ。大目に見てやってくれ、と。ですので、大目に見ております」
私はスープを一口飲んだ。今日の塩加減は良い。
「子どもですので」
これが最初の一回だった。
二回目は、数日後の書斎。
ポレット様がエドガー様の背中に抱きついたところへ、ベルタが手拭いを持って入った。
「お嬢様、お手を」
「え、なに」
「お菓子を召し上がったあとでございましょう。手が甘うございます。若様のお召し物が汚れますので」
ベルタはポレット様の両手を取って、指を一本ずつ拭いた。それはもう、丁寧に。
ポレット様は手を拭かれながら、エドガー様の背中から離された。
「エド様ぁ」
「……ポレット、手を拭いてもらいなさい」
その次は庭、その次は玄関。
五回目のとき、ポレット様はもう、エドガー様に触れる前にベルタを探すようになっていた。
(学習なさったのね。子どもは覚えが早い)
五回目の翌日、贈り物を届けさせた。夜会まで、まだ三週間ある。十項目を読んで覚えるには十分な時間で、覚えれば、招待状は夜会のものになる。
飴は王都の菓子店の、子ども向けの缶入り。絵本は『よい子のおやくそく』。扉を叩くこと、人の物に触らないこと、ごはんのあとは手を洗うこと。見開きで十項目。
ベルタには、一言添えさせた。十項目を覚えたら、夜会にお呼びします、と。
ベルタが包みを届けに行って、戻ってきた。
「お伝えしました。お嬢様は、包みを開けて、しばらく黙っておいででした」
「それから?」
「若様のところへ走っていかれました。『クラリス様がこんな意地悪を』と」
「エドガー様は」
「絵本の表紙を見て、『いい本じゃないか』と仰って、お嬢様に返されました」
ベルタは真顔だった。私も真顔で聞いた。
(本当に、分かっていないのね)
ロシェ男爵がいらしたのは、その二日後だった。小さな椅子と手拭いの話が、娘の口から届いたのだろう。
応接間には、お義母様が出た。私は隣に座って、口を挟まずにいた。
「娘が、その……子どものように扱われていると聞きまして」
「ええ。息子が、お嬢様はまだ子どもだと申しましたので」
「……若様が、そのように」
「お嬢様を庇って、そう仰ったのです。大目に見てやってくれ、と」
男爵は、すぐには答えなかった。
「それは……ありがたいお言葉で」
「でしょう。大人の令嬢が、婚約者のいる殿方にあの振る舞いをしたなら、庇いようがありませんもの。子どもで、よろしゅうございましたわね」
「…………はい」
男爵は、それ以上何も言わずに帰った。帰り際、玄関で私に一礼した。深い礼だった。
この方は分かっている。分かっていて、動けないのだ。
寄子の小さな家が、侯爵家に預けた娘を、今さら自分から引き取りますとは言えない。言えば、娘に何かあったと噂になる。
私には、まだお義母様のあの言い方はできない。
その週のうちに、ポレット様は直談判に行った。
庭の東屋で、私は本を読んでいた。生垣の向こうから、声が聞こえた。
「エド様、私、子どもじゃないよね?」
「……まあ、子どもだろう」
「違うってば! クラリス様に言ってよ、ポレットは大人だって!」
「言ってどうする」
「そしたら、またエド様の隣に座れるもん」
「……分かった。言っておく」
その夜、エドガー様が私のところへ来た。
「クラリス。ポレットのことなんだが」
「はい」
「もう少し、大目に見てやってくれないか」
「大目に見ております」
「いや、だから」
「エドガー様が子どもだと仰ったので、子どもとして、大目に見ております。子どもですので」
エドガー様は反論しかけて、やめた。
「……そうだな」
そう言って、帰っていった。
(この人、自分の言ったことが、まだ分かっていないのね)
それでいい。分かる日は、近い。
そして、招待状が届いた。
夜会の三日前だった。
「クラリス様! これ、なんですか!」
ポレット様が、紙を握って、扉も叩かずに私の部屋へ飛び込んできた。
叩いてから入ってこられたら、書き直すつもりでいた。
「お茶会のご案内です」
「子ども部屋のお茶会って書いてある! 三時から! 夜会は?」
「夜会は、大人の催しですので」
「私は――」
「ポレット様」
私は立ち上がって、ポレット様の手から、そっと紙を取った。皺を伸ばした。
「お部屋に入るときは、扉を叩くものですわ。お返事を待ってから、入るものです。それができるようになったら、大人の席にお呼びしますので」
「…………」
「それまでは、子どもですので」
ポレット様は泣いた。大きな声で。
泣く子には、ベルタが飴をやった。
◆
夜会の前夜、ベルタが髪を梳いてくれながら、訊いた。
「クラリス様は、楽しんでおられますか」
「いいえ」
「では、なぜ」
私は鏡の中のベルタを見た。
「誰も教えなかったからよ。七年。男爵様も、エドガー様も、この家の人も。かわいいからと、大目に見て、そのまま十七にした」
「クラリス様が教えなくても」
「教えなければ、あの子は人の夫の腕にぶら下がって笑われる大人になる。笑われていることにも気づかずに」
ベルタの手は、止まらなかった。
「厳しゅうございますね」
「あなたに習ったのよ」
「左様でございました」
明日、あの方は招待状どおりには来ないだろう。それも分かっている。来なければ、それはそれでよかった。
来た場合のことだけ、考えておけばいい。
夜会の当日、ポレット様は来た。
子ども部屋ではなく、大広間に。
真紅のドレスで、髪を結い上げて、紅を引いて。
お義母様の隣に立っていた私は、扇を広げた。
ポレット様は、まっすぐエドガー様のところへ行った。その腕に、手を伸ばした。
ベルタが手拭いを持って間に入った。
「お嬢様。お部屋はあちらでございます」
「どいて」
「お手を」
「触らないで!」
広間が静かになった。楽団も手を止めた。
ポレット様はベルタを押しのけて、エドガー様の腕を掴み、広間を振り返って叫んだ。
「私は子どもじゃない! 大人よ! もう十七なの! エド様だって、本当は分かってるでしょ!」
エドガー様の顔から、色が消えた。
百人の客が見ていた。
私は扇を閉じて、ポレット様の前まで歩いた。
「ポレット様」
「なによ」
「大人、と仰いましたね」
「そうよ」
「では、大人として伺います」
叫びは広間じゅうに届いた。答えも、同じところまで届かせなければならない。
私は声を落とさなかった。
「大人の令嬢が、婚約者のいる殿方の腕を、人前で抱えておりました。何度も。注意されても。その責任は、どなたがお取りになるのでしょう」
「…………」
「子どもなら、大目に見ます。エドガー様がそう仰いましたし、私もそういたしました。ですが、大人なら話は別です。ロシェ男爵家のご令嬢が、侯爵家の嫡男に対して、婚約者の目の前で――ここから先は、私ではなく、男爵様とお義母様がお話しになることですわ」
ポレット様の手が、エドガー様の腕から落ちた。
広間の奥で、ロシェ男爵が顔を覆った。
子どもを選んでも、大人を選んでも、ポレット様の居場所は、この広間にはなかった。
「わ、私は……」
「ベルタ」
「はい」
「ポレット様を、お部屋へ。お茶は薄く、お菓子は甘く」
「…………子どもで、いいです」
小さな声だった。
ベルタは手拭いでポレット様の手を取って、広間を出ていった。
私はお義母様の隣に戻った。
お義母様は扇で口元を隠して、広間に向かって仰った。
「お騒がせいたしました。子どもは、もう寝る時間ですので。……大人のほうは、あとで私が叱ります」
扇の先が、エドガー様を指していた。
客は笑った。楽団が音を戻した。エドガー様だけが、笑わなかった。
お義母様は、私の手を一度だけ握った。
◆
エドガー様が私の居間に来たのは、夜会が終わって、客が全員帰ってからだった。お義母様の部屋から出てきたばかりだと、肩の落ち方で分かった。ベルタは隅に控えている。
扉を叩いた。返事を待った。
「入ってよろしいですわ」
「……ありがとう」
エドガー様は、入ってきて、座らなかった。
「僕は、何を言ったんだ」
「あの子はまだ子どもなんだ、大目に見てやってくれ、と」
「それを、君は」
「そのとおりにいたしました」
「あれは、そういう意味じゃなかった」
「存じております。でも、そう仰いました」
エドガー様は、しばらく黙った。
「……十歳だったんだ」
「はい」
「初めて会ったとき。男爵の後ろに隠れていて、僕が手を出したら、袖を掴んで離さなかった。それから、ずっと同じ子だと思っていた。背が伸びても、ドレスが変わっても、僕の中では袖を掴んでいた子のままだった」
「ええ。だから、仰ったのです。子どもだと」
「僕だけが、あの子を十歳のままにしていた」
「周りの全員です。あなたが、いちばん近くで」
エドガー様は、天井を見て、床を見た。
「……ポレットは、泣いていた。僕のせいだ」
「ええ」
「君も、いやな役を引き受けた。僕のせいだ」
「ええ」
「すまなかった」
私は答えなかった。
代わりに、立ち上がって、エドガー様の前まで行った。
「エドガー様」
「はい」
「あなたは、あの方を子どもだと言いながら、子どもとしても扱わなかった。十歳のまま止めて、何も教えなかった。ポレット様に悪いのは、そこです。大目に見られているあいだ、自分が何をしているか、一度も知らされなかった。教えるのが、大人の仕事です」
「……そうだな」
「私は教えました。乳母と、飴と、小さな椅子で」
「厳しいな」
「それが躾ですわ」
エドガー様が、初めて笑った。情けない笑い方だった。
「君は、怖いな」
「お義母様に似てまいりました」
「それは、困る」
「困ってください」
私は、エドガー様の左腕を取った。あの令嬢が抱えていた腕である。
「ここは、私の席ですので」
「……ああ」
「今後、どなたかがここに触れたら、あなたが自分で手を拭かせてくださいね。ベルタは私の乳母で、あなたの乳母ではございませんので」
「分かった」
「分かっておられない顔ですわ」
「……分かった、クラリス」
二度言わせた。
まあ、いい。この人は、二度目には分かる。
(三度目はないけど)
私は腕を離さずに続けた。
「エドガー様」
「うん」
「あなたも、まだ子どもですので」
「え」
「大目に見て差し上げます。今回だけ」
エドガー様は、口を開けて、閉じた。
そして笑った。今度は、情けなくない笑い方だった。
◆
――それからのことを、少し。
ポレット様は、翌週、男爵領に帰った。お義母様が男爵夫人に手紙を書いたからだ。中身は私も読んでいない。読まなくてよいと、お義母様が仰った。
春に、男爵領から便りが来た。縁談が決まったそうだ。相手は隣領の騎士で、少し年上。「子ども扱いしない人がいい」と、ポレット様が自分で選んだらしい。
便りには、私宛の一枚も入っていた。
――『絵本、読みました。十項目のうち、八つはできるようになりました。残りの二つは、結婚してから覚えます』
どの二つかは、書いていなかった。
飴は、まだ好きだそうである。
エドガー様は、あれ以来、私の右側を歩く。
理由を訊いたら、こう言った。
「右腕は空けておく。誰かに取られたら、自分で拭く」
「手拭いはお持ちですの?」
「……持ってない」
「子どもですので」
私はベルタを呼んだ。
(了)
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