第四章 客観性の罠
「アブダクション?」
レンは眉をひそめながら、ヨルの言葉を反芻した。 二人は社内のカフェテリアに場所を移していた。 周囲にはランチタイムを終えた社員たちがまばらに残っているが、誰もがタブレットやスマートフォンに目を落とし、会話はない。 この会社の「効率至上主義」が生んだ風景だ。
ヨルは売店で買ったサンドイッチを齧りながら、またしても分厚い本を開いていた。 行儀が悪い。 レンはブラックコーヒーを一口飲み、苛立ちを鎮める。
「ええ。パースという哲学者が提唱した推論方法です」
ヨルは口元のパン屑を指で払いながら説明した。
「演繹法は『ルールと前提から必然的な結論を導く』。あなたの得意なやつですね。『人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。ゆえにソクラテスは死ぬ』」
「帰納法は『多くの事例からルールを導く』。AIの学習プロセスです。『今まで見た白鳥は白い。だから次の白鳥も白いだろう』」
「正解。優等生ですね」
ヨルは皮肉っぽく微笑んだ。
「でも、探偵に必要なのはそのどちらでもない。アブダクションです。『驚くべき事実Cがある。もし仮説Hが真であれば、Cは当然のこととして説明される。よって、Hであると考える理由がある』」
「……つまり、当て推量ということですか」
「いいえ。『最良の説明への推論』です」
ヨルは本を閉じ、身を乗り出した。
「葛城カイトは、フィボナッチ数列を残した。これが驚くべき事実Cです。では、どんな仮説Hがあれば、これを説明できる?」
「パスワードの一部。あるいは、犯行時刻の指定」
「ありきたりですね。プロビデンス君の回答みたい」
「……あなたの仮説は?」
「彼が『自然回帰』を望んでいた、という説はどう?」
ヨルは窓の外の人工的な植栽を指差した。
「フィボナッチ数列は自然界の成長パターンを表す数です。ひまわりの種の配列、松ぼっくりの鱗模様、台風の渦。彼は、この四角くてデジタルな会社の中で、唯一『有機的な法則』を求めていたんじゃないかしら」
「詩的すぎますね。動機としては弱すぎる」
「動機なんて、本人にしか分かりませんよ。私たちはただ、彼の残した『記号』を解釈しようとしているだけ」
その時、レンのスマートフォンが振動した。 セキュリティ部門からの解析レポートだ。 レンは画面をスワイプし、急速に目を通す。
「……出ました」
レンの声が低くなる。
「葛城が削除したデータの詳細が判明しました。彼が消したのは、開発中の新プロジェクト『プロジェクト・ミネルヴァ』のコア・アルゴリズムです」
「ミネルヴァ? 知恵の女神の名前ですね」
「ええ。次世代の感情解析エンジンです。人間の表情、声のトーン、脈拍から、その人が『嘘をついている確率』をリアルタイムで判定するシステム」
ヨルが一瞬、真顔になった。
「……それは、なんて悪趣味なシステム」
「ビジネスにおいては強力な武器になります。商談、採用面接、社内査定。相手の腹の内が数値化できるんですから」
「つまり、人間から『秘密』を奪う機械ってわけね」
ヨルは冷ややかに言った。
「それで、そのデータを消して、彼は何をしたんです?」
「バックアップサーバーへのアクセスログを解析した結果、彼はデータを外部に送信していません。ただ『消去』し、さらに『上書き』しています。復元不可能なレベルで」
「持ち出したのではなく、葬り去った?」
「そうです。金銭目的の産業スパイなら、データを持ち出して競合他社に売るはずです。消去するメリットがない。これでは一銭にもなりません」
「やはり」
ヨルは満足げに頷いた。
「金銭トラブルというあなたの当初の演繹は外れましたね。彼は利益のためにやったんじゃない。思想のためにやったんだわ」
「思想?」
「『嘘をつく権利』を守るため、とかね」
ヨルは残りのサンドイッチを口に放り込み、立ち上がった。
「行きましょう、相馬さん。彼が消したのはデータだけじゃない。彼自身の『過去』も消そうとしているはず。彼のアパートへ」
「住所は把握していますが、警察が張り込んでいるはずです」
「ええ。でも、警察は『犯人』を探している。私たちは『人間』を探しに行くんです。見る場所が違う」
レンはため息をつき、飲みかけのコーヒーを置いた。 この女のペースに巻き込まれるのは不本意だ。 だが、彼女の「当て推量」が、少しずつ的を射始めているような感覚もあった。 「嘘をつく権利」。 そんな非合理なもののために、エリートコースを捨て、犯罪者になる人間がいるのか?
レンの頭の中の計算機が、エラーメッセージを吐き出し続けていた。 人間の心というブラックボックス。 そこには、ゼロ除算のような無限の闇が広がっている。 そして今、自分たちはその闇の縁に立っているのだ。




