第三章 不可知の来訪者
相馬レンにとって、世界は整理整頓された巨大なデータベースであるべきだった。 すべての事象には原因があり、すべての結果には理由がある。 相関関係があり、因果関係がある。 それが見えないのは、単にデータが不足しているか、計算能力が足りないかのどちらかだ。
しかし、深見ヨルという存在は、そのどちらでも説明がつかなかった。
「……それで、まずは現場を見たいと?」
レンは努めて冷静な声を維持しようとしたが、歩く速度は無意識のうちに速くなっていた。 エレベーターホールから、葛城カイトが所属していた経営企画部のフロアへ向かう廊下。 ヨルはレンの早足など気にする様子もなく、むしろ興味深そうにオフィスの天井や床を観察しながらついてくる。
「ええ。現場には『世界』が凝縮されていますから」
「警察も鑑識も入りましたよ。指紋もDNAも採取済みです。今さら我々が行って、何か新しい物理的証拠が見つかるとは思えません」
「物理的証拠を探すわけじゃありません。探すのは『認識の歪み』です」
ヨルは大きなあくびを噛み殺した。 この緊迫した状況で、あくびだと?
「昨夜、よく眠れなくて。カントの『純粋理性批判』を読み返していたら、アンチノミーの章で止まらなくなってしまって」
「……仕事に私情を持ち込まないでいただけますか」
「哲学は私情ではありませんよ。生きるためのOSです」
経営企画部のフロアに到着すると、そこは異様な静けさに包まれていた。 葛城カイトの同僚たちは、自身のデスクに向かい、キーボードを叩いている。 だが、その背中からは明白な緊張感が漂っていた。 「次は自分が疑われるのではないか」「余計なことを話して評価を下げたくない」 そんな打算と恐怖が、空気中の粒子として浮遊しているようだ。
レンは無意識に、彼らの頭上に「ストレス値」や「離職リスク」といった数値を幻視する。 職業病だ。 だが、ヨルには別のものが見えているらしい。
「ふうん。……空気が、澱んでいますね」
彼女は誰にともなく呟き、フロアの入り口で立ち止まった。
「空調の設定温度は24度。CO2濃度も基準値内です」
レンが即座に数値を返すと、ヨルは呆れたように肩をすくめた。
「相馬さん、あなたはレストランに行って『美味しいですね』と言われたら、『糖度と塩分濃度が適正値です』って答えるんですか?」
「……味覚は主観ですから、定義が曖昧です」
「その『主観』こそが、人間を動かしているんですよ」
ヨルはスタスタと歩き出し、迷うことなくフロアの奥にある葛城カイトのデスクへと向かった。 なぜ場所がわかる? レンは一瞬訝しんだが、すぐに気づいた。 そこだけが、不自然なほど綺麗に片付けられていたからだ。 鑑識作業の後で、私物はすべて証拠品として押収されている。 残っているのは、支給されたモニターと、空っぽのペン立て、そして――
さっきの写真にあった、コースターだ。
ヨルはデスクの前にしゃがみ込み、そのコースターをじっと見つめた。 コルク製の、何の変哲もない円盤。 それが、デスクの端から正確に3センチメートル、斜め45度の角度にはみ出して置かれている。
「これがどうかしましたか」
レンは彼女の背後から尋ねた。
「葛城さんという人は、几帳面な性格でしたか?」
「データによれば、そうです。タスク管理能力は極めて高く、デスクの整理整頓スコアも常に上位5パーセントに入っていました」
「なら、変だと思いませんか?」
ヨルは指差した。
「几帳面な人間が、なぜコースターをこんな『落ちそうな位置』に置くのか。しかも、マグカップはここにはなかった。鑑識の写真では、マグカップはコースターの上ではなく、デスクの中央に置かれていました」
レンは眉を寄せた。 些細なことだ。 急いでいたのかもしれない。 あるいは、誰かがぶつかってずれたのかもしれない。
「誤差の範囲でしょう。犯行直前の心理的動揺が、行動の乱れとして現れた」
「逆です」
ヨルは立ち上がり、レンの方を振り返った。 その瞳の奥に、奇妙な光が宿っている。
「これは乱れじゃない。配置です。彼は『意図的に』ここへ置いた。まるで、何かを指し示す矢印のように」
「矢印?」
「ええ。この角度。デスクの端に対して45度。この延長線上に何があるか」
ヨルは視線をコースターの角度に沿って、フロアの窓際へと向けた。 そこには、観葉植物のパキラが置かれているだけだ。 枯れかけた葉が数枚、力なく垂れ下がっている。
「ただの植物です」
「行ってみましょう」
ヨルはパキラの方へと歩き出した。 レンはため息をつきたい衝動を抑え、彼女に従う。 時間の無駄だ。 こんなことをしている間に、サーバーのログ解析を進めるべきなのに。 だが、社長命令である以上、この「魔女」の儀式に付き合わなければならない。
パキラの鉢植えの前で、ヨルは再びしゃがみ込んだ。 そして、土の表面をじっと観察する。
「……ビンゴ」
彼女はポケットからハンカチを取り出し、土の中から何かをつまみ上げた。 それは、小さく丸められた銀紙だった。 ガムの包み紙のように見える。
「ゴミですね」
レンが言うと、ヨルは首を振った。
「相馬さん、あなたは『ゴミ』というラベルを貼って、それ以上考えることを止めている。これは『現象』です。まだ意味が確定していない」
ヨルは慎重に銀紙を広げた。 そこには、極細のボールペンで、一列の数列が走り書きされていた。
『011235813...』
レンの目が釘付けになった。
「フィボナッチ数列……?」
「おや、さすがに計算は速いですね」
「基本中の基本です。黄金比に関わる数列。自然界の螺旋構造や、株式市場のテクニカル分析にも現れる」
レンの脳が高速で回転を始める。 なぜ葛城カイトは、こんなものを残した? パスワードのヒントか? それとも、ハッキングのアルゴリズムに関連する鍵か?
「彼はこれを、あえて『見つけにくい場所』に隠した。でも、絶対に見つかるように『コースター』という標識を残した」
ヨルは銀紙を光にかざしながら言った。
「これはメッセージです。でも、誰に向けたものか? 警察? 会社? それとも……」
彼女は意味ありげにレンを見た。
「『数字しか信じない人間』への挑戦状かも」
レンは背筋が粟立つのを感じた。 挑戦状。 もしそうだとしたら、葛城カイトは自分の存在を――「プロビデンス」を作った相馬レンという人間を意識して、この犯行に及んだことになる。 単なる裏切りではない。 これは、思想的なテロルだ。
「……この数列には続きがあります」
レンは数列の先を暗算した。
「21、34、55。……しかし、これだけでは情報量が少なすぎる。何を意味しているのか特定できません」
「意味なら、これから考えるんです。演繹ではなく、アブダクション(仮説形成)で」
ヨルは銀紙を丁寧にハンカチに包み直すと、にっこりと笑った。
「面白くなってきましたね、相馬さん。あなたの『確定した世界』に、綻びが見えてきましたよ」
レンは認めざるを得なかった。 自分の完璧だった方程式の中に、未知の変数Xが放り込まれたことを。 そしてそのXは、隣で楽しそうに笑うこの女哲学者の顔をしているような気がしてならなかった。
「……鑑識に回します。指紋が出るかもしれない」
「ええ、そうしてください。でも、覚えておいて。指紋は『誰が』を教えてくれるけど、『なぜ』は教えてくれない」
ヨルは歩き出した。 その足取りは、先ほどよりも軽やかだった。 レンはその背中を見つめながら、拳を強く握りしめた。 必ず解いてみせる。 数字で説明できないものなど、この世には存在しないことを証明するために。




