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データサイエンティストが認識論を駆使したら_クオリアの誤算:認識論的探偵のアルゴリズム  作者: もしものべりすと


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第二章 黒い白鳥(ブラックスワン)


データセンターの空気は、いつもより冷たく感じられた。 サーバーラックの列が墓標のように並んでいる。 その最深部、物理層のコンソール前には、警察の鑑識官たちが群がっていた。 青いビニールシート。 指紋採取の粉末。 それらが、この聖域のような場所を汚している光景に、レンは軽い眩暈を覚えた。


「相馬室長」


声をかけてきたのは、人事部の担当役員だった。 今朝の会議で、レンが完膚なきまでに論破した相手の部下だ。 その顔には、隠しきれない侮蔑と、微かな安堵の色が混じっている。 他人の失敗は蜜の味。 それが、データ化できない人間の本質の一つだ。


「社長がお呼びだ。最上階の特別応接室へ」


「……状況の把握が先です。ログの解析がまだ終わっていません」


「解析など後でいい。これはもはや、君の数字遊びの問題ではないんだ」


役員は冷ややかに言い放った。


「『なぜ』起きたのか。社長が知りたいのはそれだ。君の完璧なAIが見抜けなかった動機をね」


レンは唇を噛み、コンソールに視線を落とした。 画面には、削除されたデータのディレクトリ構造が残骸として表示されている。 葛城カイトは、迷いなく、最短の手順で、最も価値のあるデータを消していた。 まるで、呼吸をするように自然に。 ためらいの痕跡タイムラグは、0.1秒も存在しない。 これは発作的な犯行ではない。 計算され尽くした行動だ。 だが、その行動原理が、レンのモデルには存在しない。


外れ値。 統計学において、全体の傾向から極端に外れた値。 通常、分析の過程ではノイズとして棄却されるデータ。 葛城カイトは、ノイズだったのか? 3万人の社員データの中から選び抜かれた彼が?


「……わかりました。行きます」


レンは重い足取りで役員に従った。


        *


最上階の特別応接室は、下界の喧騒とは無縁の場所だった。 窓の外には東京のスカイラインが広がっているが、防弾ガラスによって隔てられた景色は、どこか作り物のジオラマのように見える。


部屋の中央、イタリア製の革張りソファには、CEOともう一人の人物が座っていた。 CEOの表情は硬い。 だが、レンの視線は、その隣にいる「異物」に釘付けになった。


女性だ。 年齢はレンと同じか、少し若いくらいだろうか。 だが、彼女の纏う空気は、このオフィスビルの誰とも違っていた。


きっちりと糊のきいたシャツを着た役員たちの中で、彼女はルーズな黒のタートルネックに、使い古されたカーディガンを羽織っている。 膝の上にはノートPCではなく、分厚いハードカバーの洋書。 そして何より、手元のサイドテーブルには、この部屋には似つかわしくないコンビニのコーヒーカップが置かれていた。


「来たか、相馬」


CEOが重々しく口を開く。


「紹介しよう。今回の件で、外部コンサルタントとして入ってもらうことになった」


コンサルタント? この身なりで?


「深見ヨル(ふかみ・よる)さんだ。専門は……」


CEOが一瞬言葉に詰まる。 女性――深見ヨルは、読んでいた本をゆっくりと閉じ、レンを見上げた。 その瞳は、深い夜のような黒色をしていた。 観察するような、けれど値踏みするような鋭さはなく、ただ静かにそこに在るものを映す鏡のような目。


認識論エピステモロジーです」


彼女の声は、低く、ハスキーだった。


「ニンシキロン?」


レンは思わず聞き返していた。 ビジネスの現場で、最も聞かない単語の一つだ。


「哲学の一分野ですよ」


ヨルは事もなげに言った。 立ち上がりもせず、握手を求めるわけでもない。


「人間がどうやって『何かを知っている』と確信できるのか。その知識の正当性や限界を考える学問です」


「……哲学者が、データ消失事件になんの役に立つんです?」


レンの声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。 今は一刻を争う緊急事態だ。 哲学談義に興じている暇はない。


「役に立つかどうかは、あなたの『役に立つ』の定義によりますね」


ヨルは淡々と返した。


「あなたはデータサイエンティストでしょう? 相馬レンさん」


「ええ。この会社のデータ戦略を統括しています」


「なら、聞きますけど」


彼女は細い指先で、自分のこめかみをトントンと叩いた。


「あなたのAIは、葛城カイトという人間の『データ』を見ていましたか? それとも、葛城カイトという『人間』を見ていましたか?」


「言葉遊びなら他所でやってください。データは人間の写像です。そこに乖離はない」


レンは即答した。 これは彼が何千回も繰り返してきた議論だ。 アナログ信奉者たちの、感情論に対する反論。


「データは客観的事実の集積です。彼の行動履歴、生体反応、発言内容。それらすべてが、彼が裏切る確率の低さを示していた。これは事実です」


「事実、ね」


ヨルは少しだけ口角を上げた。 それは冷笑ではなく、迷路の入り口を見つけた子供のような、無邪気な笑みだった。


「その『事実』というやつが、実はあなたの色眼鏡パラダイムを通しただけの『解釈』に過ぎないとしたら?」


「どういう意味だ」


「葛城カイトはデータを消した。これは観測された現象です。でも、あなたのAIはそれを予測できなかった。なぜか?」


ヨルはソファから立ち上がり、レンの目の前まで歩み寄った。 ふわりと、古い紙と、微かなカフェインの香りがした。


「あなたの集めたデータには、『意味コンテクスト』が欠けていたからよ。あなたは数字という言語で世界を翻訳しようとした。でも、翻訳できない言葉があったとしたら?」


彼女はレンの胸元、社員証のあたりを指差した。


「帰納法の限界ね。白い白鳥を100万羽見つけたとしても、次の1羽が黒くないという証明にはならない。あなたは10年分の白い白鳥データを集めて安心していた。でも、今日、黒い白鳥ブラックスワンが現れた」


レンは拳を握りしめた。 反論したい。 確率論の話をしているのだと。 100パーセントの保証など求めていない、蓋然性の問題だと。 だが、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。 現実に、事件は起きている。 そして自分は、その理由を説明できていない。


「……それで? 哲学者はどうやって犯人を見つけるんですか。机上の空論で?」


「いいえ」


ヨルはポケットから一枚の写真を取り出した。 それは、葛城カイトのデスクを撮影したものだった。 警察も、レンも見向きもしなかった何気ない写真。


「私は問いかけるだけです。あなたのデータが見落とした、『人間の認識のバグ』について」


ヨルは写真の中の、ある一点を指差した。 そこには、デスクの隅に置かれたマグカップと、その横にあるコースターが写っていた。 コースターは、奇妙な位置にずれていた。


「このズレ。……相馬さん、あなたにはこれがノイズに見えるでしょうね」


「ただの乱雑さです。意味はない」


「いいえ。ここには強烈な『意図インテンション』がある。言語化できない、クオリアの痕跡が」


ヨルはレンの目を真っ直ぐに見つめた。


「彼を探しましょう、相馬さん。数字の檻から抜け出した、一人の不合理な人間を」


それが、水と油、あるいは0と1の間にある無限の小数、 相馬レンと深見ヨルとの出会いだった。

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