第一章 ラプラスの悪魔
99.98パーセント。 その数字は、神の不在を証明するのに十分な精度だったはずだ。 残り0.02パーセントの隙間に、悪魔が潜り込む余地などないはずだった。 だが、男は飛んだ。
*
東京都港区、地上45階。 国内最大手のコングロマリット企業「ゼノ・データ」の役員会議室は、窒息しそうなほど無機質な静寂に包まれていた。空調の微かなハム音だけが、ここが真空の宇宙空間ではないことを辛うじて証明している。
強化ガラスのテーブルの向こう側で、白髪のCFO(最高財務責任者)が眉間の皺を深くした。手元のタブレット端末には、私が提示した人事評価予測モデルのグラフが表示されている。
「相馬くん。君の作ったこの『プロビデンス』とかいうAIは、我々の人事部を無能だと断じるのかね?」
相馬レンは、仕立てのいいスーツの袖口をわずかに正した。 心拍数は毎分68。平常値だ。 焦る必要はない。数字は常に、感情よりも雄弁だ。
「断じているのではありません、常務。事実を提示しているだけです」
レンは空中に浮かぶホログラム・ディスプレイを指先でスライドさせた。青白い光の粒子が、複雑な散布図を描き出す。
「過去10年分の社員データ、メールの送信履歴、社内チャットの言語解析、そして生体センサーによるストレス値の推移。これらを統合解析した結果、来期の人事部長候補として最も適性が高いのは、現職の部長ではありません」
「では誰だと言うんだ。入社5年目の若造か?」
「入社6年目、経営企画部の葛城カイトです」
会議室にざわめきが走る。 当然だ。葛城カイトはまだ28歳。この硬直した巨大企業において、部長職に就くには若すぎる。
「馬鹿な。彼は優秀だが、リーダーシップの実績がない」
「実績は過去のデータです。プロビデンスが示しているのは未来の蓋然性です」
レンは冷徹に言葉を紡いだ。
「葛城氏の意思決定プロセス、危機管理能力、そして何より『組織へのロイヤリティ』は、現社員3万人の中でトップスコアを記録しています。彼を抜擢することで、部署の生産性は15パーセント向上する。これは希望的観測ではなく、計算結果です」
CFOは鼻を鳴らし、しかし反論の言葉を持たずに沈黙した。 数字の前では、老練な経営者の勘など、古い占い師の水晶玉と同レベルの信頼性しか持たない。 レンは知っていた。 この世界は巨大な数式だ。 人間という変数は確かに複雑だが、十分なデータさえあれば、その行動は予測可能だ。 18世紀の数学者ピエール=シモン・ラプラスは言った。 『ある瞬間のすべての物質の力学的状態と力を知ることができれば、未来は過去と同様に全て見通せる』と。
現代において、その「知る者」こそがデータサイエンティストであり、レン自身だった。
「よろしい」
沈黙を破ったのは、テーブルの最奥に座るCEOだった。
「プロビデンスの推奨通りにしよう。葛城カイトを次期リーダー候補として、特別プロジェクトの全権限を与える。相馬、君のモデルが正しいことを証明してみせたまえ」
「ご期待に添えるかと」
レンは恭しく一礼した。 勝利の快感が、微かなドーパミンの放出として脳内を駆け巡る。 会議が散会し、重厚なドアが開く。 レンは廊下に出た瞬間、小さく息を吐いた。 完璧だ。 すべては予測通り。 ポケットの中でスマートフォンが振動するまでは。
着信画面には、セキュリティ部門のアラートが表示されていた。 レンは眉をひそめ、通話ボタンをタップした。
「相馬だ。どうした?」
『相馬さん、異常事態です』
部下の声が震えている。 背景でけたたましい警報音が鳴り響いていた。
『プロビデンスのサーバーから、最高機密レベルのデータが消失しました。バックアップごと、完全に』
「なんだと? 外部からのハッキングか?」
『いいえ、内部アクセスです。正規のIDとパスワードが使われています』
レンは早足で歩き出した。革靴が磨き上げられた廊下を叩く音が、心臓の鼓動と重なる。
「誰のIDだ」
部下は一瞬、言葉を詰まらせた。 その沈黙が、レンの背筋に冷たいものを走らせる。
『……葛城カイトです』
レンの足が止まった。
「ありえない」
『事実です。彼は今朝、認証ゲートを通過してサーバー室に入り、手動でデータを物理削除しました。そして……』
「そして?」
『そのまま行方不明です。GPSも切られています。まるで煙のように消えました』
レンは呆然とスマートフォンを握りしめた。 葛城カイト。 ロイヤリティ・スコア99.98。 裏切りの可能性が、統計的にゼロに等しい男。 もっとも安全で、もっとも合理的で、もっとも会社に忠実なはずの「完璧な社員」。
その彼が、会社の心臓部をえぐり取って消えた?
レンの脳裏に、先ほどの会議で見せた散布図が浮かび上がった。 あの美しい青い光の粒子たち。 完璧な回帰直線。 それが今、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「計算間違いだ……」
レンは誰にともなく呟いた。 だが、彼の知る限り、数字は決して嘘をつかない。 嘘をつくのは、いつだって人間だ。




