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診断書を提出してください。

作者:

「お手をどうぞ」

 セドリックはそう言って手を差し出した。

「……」

 婚約者であるカテリーナは無言でその手を取り、馬車から降りる。こちらを見もしないことにはもう慣れた。

 そのまま出来うる限り丁寧にエスコートする。

 そして会場に着いた途端に、するり、とその腕は解かれた。カテリーナは足早に友人の令嬢の元へと向かっていく。

「ごきげんよう、ブリジット様」

「ええ、ごきげんよう、カテリーナ様。……トリエ様をおひとりにして大丈夫なの?」

「あの人なら平気よ。それよりも……」

 そのまま歓談に興じるカテリーナを、遠くから見つめることにももう慣れた。

 今日もまた壁の花ならぬ『壁の染み』だ。

 セドリックは使用人が差し出したトレイからグラスを受け取り「ありがとう」と礼を言った。

 

 

 トリエ男爵家は、所謂成金貴族である。まず領地内に貴重な鉱石が豊富に採れる鉱山があったこと、それを元手に商才のあった祖父が多額の資産を築き、また彼が人格者でもあったため慈善事業に力を入れたことにより、陛下から特別に爵位を得るに至ったのである。祖父は「自分には勿体ない」と固辞したのだが、当時の陛下から直々に「爵位とは相応しいものにあるべきだ」と言われては断り切れなかったらしい。

 しかしながら貴族の世界は色々と難しく、祖父が亡くなってからは「成金の偽善者」と陰口を叩く者も少なからずいた。もちろん全ての貴族がそうではないが、人の口に戸は立てられない。不本意な二つ名が貴族全体に広がってしまっては、交流も商売も成り立たなくなってしまう。

 そこで現当主であるクレマンは、一人息子のセドリックに爵位が上の令嬢を婚約者にと考えた。そうすることで上流階級との繋がりを知らしめ、そこからまたさらに新しい繋がりを作ろうと考えたのだ。要するに打算まみれの政略結婚である。

 そして当の本人であるセドリックは「父上が選んでくださった方なら間違いないでしょう」とあっさりと承諾した。格下の男爵家に嫁いでくださる奇特な令嬢がいるのなら、その恩に報いて精一杯大切にしたい。時間はかかるだろうけれど、互いに信頼して支え合える関係になれれば、とそう思っていた。

 クレマンは息子の承諾を受け、祖父の代から繋がりがあるラドゥメグ伯爵家に婚約の打診をした。そうして長女であるカテリーナがセドリックの婚約者となったのだが……。


 当時まだ幼かったカテリーナはこの婚約の意味が理解できず、セドリックとの顔合わせの時から不機嫌さを隠そうともしなかった。家はラドゥメグ家長男のミッシェルが継ぐことが決定しており、女である自分はいずれどこかの家に嫁がなければいけない、ということは分かっていたようだが、「成金の偽善者」と呼ばれ、尚且つ下位の男爵家に嫁ぐことになるなんて、と思っているのは誰の目から見ても明らかだった。

 それでもセドリックは決心した通り、自分なりに心を砕いてカテリーナへ接した。手紙を書き、ドレスやアクセサリー、珍しいお菓子や茶葉を贈り、夜会でのエスコートは丁寧に。

 だが、カテリーナの態度は変わることはなく、むしろ悪化していく一方だった。会話をしようと話をふっても無視をされるか、素っ気ない一言を返されるだけ。お茶や観劇に誘っても「気分が乗らないので」と断れるか酷い時にはドタキャンされる。夜会のエスコートも同様でドタキャンは当たり前、来てくれたと思いきや会場に着いた途端に先程のように腕を解き、一人で他の令嬢、子息たちと談笑する始末だ。

 夜会で婚約者がいるというのに一人きりでいるということは、恥を晒すにも等しいことだ。現にトリエ男爵家はますます他家の貴族から冷笑され、軽んじられている。


「よう、相変わらず『壁の染み』か?」

 気安い調子で声をかけてきたのは、シモン・ベルナール公爵令息。彼の家もまた祖父の代から付き合いがあり、尚且つ幼馴染ということもあり、家柄の差はあれど気安い調子で話しても良い間柄を築いている。

「ああ、そうだな」

 セドリックは困ったように微笑んで、グラスに口を付けた。それにシモンは少し複雑そうな顔をして、カテリーナの方を見やった。彼女は相変わらずこちらに顔を向けることもせず、他家の令嬢や令息たちとの会話に興じている。

「あのドレスとアクセサリーは、お前が贈ったのか?」

「そうだよ」

 セドリックの瞳と同じ、青色のドレスとサファイアを嵌め込んだアクセサリー。カテリーナの白銀の髪に、それはよく映えており、彼女の神秘的な美しさをより一層際立たせている。

 そう、彼女はセドリックが贈ったドレスやアクセサリーは突っ返すこともなく受け取り、こうして身に着けているのだ。


『贈ったドレスとアクセサリー、着けてくれたんですね。ありがとうございます、とてもよくお似合いですよ』

『……そう』


 馬車での会話を思い返しながら、セドリックはグラスに口を付ける。

「おい、大丈夫か?」

「え、何が?」

「酷い顔してたぞ」

 そんなにか? とセドリックは思わず頬に手をあてた。シモンは軽く息を吐き、口を開く。

「早い内に手を打った方がいい。お前の家の悪評が広がってるのは、ラドゥメグ嬢が一因だ」

 予想はしていたが、友人の口から改めて言われると結構堪える。気付かない内に、己の神経も相当すり減っていたようだ。

 グラスをぐい、と煽ると、タイミング良く使用人が声をかけてきた。

「グラスをお下げいたします。新しいものをすぐにお持ちいたしますね」

「ああ、ありがとう」

「ありがとう」

 セドリック、そしてシモンは礼を言って差し出したトレイにグラスを預ける。

 そしてカテリーナに目を向ければ、彼女はこちらを見つめていた。そうして周りの令嬢たちと共に、くすくすと笑っている。

 あからさまに嘲笑と分かるそれに、セドリックは内心で溜息を吐いた。シモンの心配そうな視線を、痛い程感じながら。



 数日後。

 ラドゥメグ伯爵令嬢、カテリーナは上機嫌で廊下を歩いていた。

 父であるテオに「トリエ殿がお前の婚約について話があるそうだ」と前日に言われていたからだ。「くれぐれも失礼のないように」とも言われていた気がするが、そんなものはどうでも良いことだ。

 遂に『成金の偽善者』も身の程を弁えたか、と嗤いを必死に堪える。そもそも伯爵令嬢たる自分が、下位の男爵家に嫁ぐなんてあり得ない。そして祖父の代から付き合いがあるとか、その関係もあり多額の援助も得ているとか、そんなことは自分には関係ない。婚約を解消されたとしても痛くも痒くもない、それどころか向こうから言い出してくれるのなら万々歳だ、とカテリーナは思っていた。

 銀糸の髪に、少し釣り目がちの金色の瞳に、綺麗に通った鼻筋の下にある、薄い唇。凛とした立ち振る舞いは、『水仙のよう』と評される。この美貌と知性を持ち合わせた自分の婚約者になりたい殿方など、引く手あまただ。だというのに幼い頃に無理やり結ばされた婚約で台無しに……いや、今からでも遅くはないだろう。

 ああそうだ、確かベルナール公爵家子息のシモン様がセドリックと不相応にも親交が深いようだから……とそこまで考えている内に、客室へと辿り着いた。

 使用人がドアを開けるのに合わせ、室内へと足を踏み出す。テオ、そして、クレマン・トリエ男爵とセドリックは既にソファにかけて待っていた。クレマン男爵とセドリックがこちらを見て軽く会釈したのを合図にするかのように、テオが「座りなさい」と促す。カテリーナはそれを受けて無言のままソファへと座った。

「早速本題に入らせていただきます」

 セドリックが口を開く。

「カテリーナ嬢との婚約を解消させていただきたい」

 やはりね、とカテリーナはさも当然とばかりに目を細めてみせた。その反応になんら興味を示すことなく、今度はクレマン男爵が口を開く。

「同時に、ラドゥメグ家との関係も見直す必要があると感じました。よって、貴家に対する投資……いえ援助を減額させていただきます」

「そ、それは困るっ! 貴家の援助が無ければ我が家は……!」

 テオ……ラドゥメグ伯爵の顔がざあっと青ざめた。それに、すう、と静かに目を狭め、トリエ男爵は答える。

「別に困ることはないでしょう? 見たところ酷く豪華な調度品が並べられているようですし、使用人の数もかなり多い。それらを『どうにかすれば』当面は大丈夫でしょう」

 暗に『身の丈にあった生活をしろ』と言われ、ラドゥメグ伯爵は愕然とした。そしてカテリーナを睨みつける。

「カテリーナ、お前には常々言っていた筈だ。この結婚がどのような意味を持つかも、その上でセドリック様を尊重し、決して御心を傷つけることはしないようにと。なのにお前は……!」

 父に睨まれて一瞬怯むも、カテリーナは目を狭めてみせた。

「お父様は、私が幸せになることを望んではいらっしゃらないの? 『成金の偽善者』なんかと結婚したって、不幸になるだけですわ!」

 その言葉にラドゥメグ伯爵は再び愕然と目を見開く。

「お前は……お前は本当に何も聞こえてはいなかったのだな、いや、聞こうともしなかったというべきか。ああ、私の教育が悪かったのか……」

 情けない、と目を手の平で覆うラドゥメグ伯爵に、カテリーナは息を飲む。

「そんな、『成金の偽善者』なんかに」

「『偽善者』ですか」

 セドリックがそう繰り返すと、カテリーナは彼に顔を向けてギッと睨みつけた。

「本当のことを言ったまでですわ」

「ええ、祖父のしてきたこと、そしてそれを受け継いだ我々の行動は確かに『偽善』と捉えられても仕方がありません」

 ですが、とセドリックは言葉を続ける。


「何かと理由を付けて『行動しない』よりは余程良いことではありませんか?」


 ぐっ、と言葉に詰まるカテリーナの前に、書類を差し出す。

「ではこちらにサインを。我々のサインはしてありますから、あなた方のサインがあれば婚約は解消されます」

「……セドリック殿、どうか考え直してはくれないか? カテリーナにはよく言い聞かせるから」

「何を仰いますの、お父様!? ようやく『成金の偽善者』と縁が切れますのに」

「お前は黙っていろ!」

 ラドゥメグ伯爵に怒鳴られ、ビクッと身体を震わせるカテリーナ。

 その様子を見つめていたセドリックは、静かに口を開いた。

「では1つ、条件があります。それが出来たら、婚約は継続いたしましょう」

「ほ、本当かね? 私に出来ることなら何でも……!」

「お父様!」

「だから黙っていろ! それで、条件とは」

 藁にも縋る思いでラドゥメグ伯爵が尋ねれば、セドリックは答えた。


「診断書を提出してください」


「診断書……?」

「ええ、そうです」

 ラドゥメグ伯爵が繰り返すのに、セドリックは静かに頷いてみせる。

「一体誰の診断書を?」

「カテリーナ様の診断書ですよ」

 ちら、と視線をやりながら答えられ、馬鹿にされたと感じたカテリーナの顔が真っ赤に染まった。

「わ、私が病人だとおっしゃるの!? 失礼にも程がありますわ!」

「カテリーナは立派な健康体だ、病気など患ってはいない。診断書など出せる筈がない!」

 ラドゥメグ伯爵もそう反論するのに、セドリックは少しばかり首を傾げてみせる。

「そうなのですか? てっきりカテリーナ様は」


「『お礼を言うと死ぬ病気』を患っているものだと」


 沈黙が落ちた。

 絶句するカテリーナとラドゥメグ伯爵を他所に、セドリックは言葉を続けた。

「婚約した幼い頃より十数年が経ち、そして今この時まで、カテリーナ様からお礼の言葉を聞いたことがありません。ああ、お礼を言うまでのことを私がしなかった、という理由は聞きませんよ。贈ったドレスやアクセサリーは返されることなく、しっかりと身に着けていらっしゃいましたよね? もしかして『身に着けているのだから感謝なさい』と暗に仰っておられたのでしょうか? しかし私はそれに対しては礼を言いましたよね?」

 そう言われ、カテリーナは思い出す。

 プレゼントされたものを身に着けた時、それがどんなに小さなものでも、彼はいつも言っていた。


 「ありがとうございます」と。


「それから、口に出してはいなくても感謝はしていた、という理由も聞きません。私は人の心が読めませんので、そういった言葉は口に出していただかないと伝わりませんよ」

「それは……っ!」

 口ごもるカテリーナに、セドリックは畳みかける。

「当家では祖父の教えに倣い、常に感謝の気持ちを忘れないよう、心がけております。何かをしてもらって当たり前、しかもしてもらった事に対してお礼の言葉もない。そのような祖父の教えに反する方との婚約の継続など不可能です。……しかし、『お礼を言うと死ぬ病気』を患っているのであれば仕方がないと判断いたします」

 なので、とセドリックの目が狭められた。


「診断書の提出をお願いします」


「そ、そんな病気、存在する訳がないでしょう!?」

 耐えかねたカテリーナが叫ぶように言うと、今度はトリエ男爵が口を開く。

「では、余計に貴家との関係を考え直す必要がありそうですな。そもそも何かしてもらったら礼を言うことは一般常識です。そこに身分は関係ありません。そう、平民の幼子でさえも」

 『伯爵令嬢ともあろう方が平民の幼子でも出来る当たり前のことができないのか?』と暗に言われ、カテリーナの顔が屈辱に歪んだ。

「何ともご立派な教育を施されたようですね。伯爵家の教育というのは、我々男爵家には理解できない程に高度なものなのですな」

 トリエ男爵は笑みを浮かべているが、その目は決して笑ってはいない。それは隣のセドリックも同じだ。

 それに底知れない恐ろしさを感じたラドゥメグ伯爵はぞっ、と背筋を震わせた。

「そ、それは本当に申し訳ない。カテリーナには再度教育を施す。だから、その、どうか……」

 その表情は必死という他はない。援助が減額されるかどうかの瀬戸際なのだから無理もない、が。

(娘のことよりも『家』が大切、か。やはり親子だな)

 そう思った心中を秘め、トリエ男爵は重々しく口を開いた。

「では、診断書の提出は結構です」

 あからさまに安堵の表情を浮かべるラドゥメグ伯爵に切り込むように、言葉が続けられる。

「しかし、婚約は解消させていただきます。こちらにサインを」

「だ、だが、それでは!」

 また青ざめたラドゥメグ伯爵に「忙しいことだ」と思いつつ、トリエ男爵は目を細めてみせる。

「サインをしていただけるのであれば、貴家への援助の減額を考え直しましょう」

「ただし、書類はよく読んでくださいね」

 セドリックが丁寧に言葉を添えた。

 そんなセドリックをキッと睨みつけ、カテリーナはペンを取った。

「お望み通り、サインして差し上げるわ!」

「待て、よく読んでから……!」

 止めるラドゥメグ伯爵に構わず、カテリーナはさらさらとペンを走らせ、サインをする。

「こちらにも。当家の控えとさせていただきますので」

「分かってるわよっ……!」

 2枚目の書類にもさっさとサインをするカテリーナを横目に、ラドゥメグ伯爵は紙面に目を滑らせた。そしてある一文に目を止め、思わず顔を上げてトリエ男爵たちを見た。

 が、それは想定内とばかりの表情をされるだけで、無言のまま。それどころか「早くサインしろ」と無言の圧力をかけられる始末。

(仕方ない、これも家のためだ……)

 下位貴族などの言うことを聞くなど屈辱にも程があるが、己の教育の所為でもある。みっちりと躾けてやらねば、と鋭い視線でカテリーナを見やった後、ラドゥメグ伯爵はさらさらとペンを走らせた。

「はい、確かにいただきました」

 すかさずセドリックが書類を丁寧に回収する。

「では、書類に明記されていたことは必ず守ってくださいね」

「ああ、分かっているとも。よく言い聞かせるから」

 ラドゥメグ伯爵は顔を顰めながら頷いた。そこでようやくカテリーナがこの書類に書かれていたことに自分が関係があると気付いたらしく、声をあげた。

「待って、どういうことよ?」

「おや、読んでいらっしゃらなかったのですか?」

 『大切な書類を読まずにサインとか正気か?』とまた暗に言われているのを感じたが、己の進退がかかっているとなれば話は別だ。

「い、いいから教えなさいよ!」

 すう、とセドリックの瞳が狭められる。

「では口頭で失礼いたします」


「カテリーナ・ラドゥメグ伯爵令嬢には、トリエ家について流した悪評を払拭していただきます」


「は……」

 カテリーナの目が見開かれ、口からは間の抜けた声が零れた。それを他所にセドリックは言葉を続ける。

「元から我が家は貴族の間でも軽んじられる傾向にありましたが、さらにそれが酷くなっております。このままでは築き上げた折角の繋がり、そして商売にも多大な影響を及ぼしかねません」

 トリエ男爵が後を引き継ぐかのように口を開いた。

「なので我が家独自の人脈を使い、悪評を流している人物を特定いたしました。その中にラドゥメグ伯爵令嬢がいたとは、いやいや驚きです。まさか己の婚約者を貶めるようなことをするとは」

 やはり高位貴族の教育は理解できませんな、と口角を吊り上げてみせる。顔を真っ赤に染めてわなわなと震えるカテリーナを真っすぐに見据え、セドリックは告げた。

「『成金の偽善者』と言われることは承知でしたが……ありもしない悪評をでっちあげるとは恐れ入ります。よって、責任は取ってくださいね」

「なっ、こ、この私になにをやれとっ……!?」

「簡単なことです」


「『嘘を吐いてごめんなさい』と方々に謝罪すれば済みますよ」


 最早言葉も出ないのか、震えながら顔を歪ませるカテリーナにセドリックは微笑む。

「いやあ、どうなるかと思いましたが良かったです」


「『謝ると死ぬ病気』を患っていらっしゃらなくて」


「新たな診断書の提出を求めるところでしたよ」

「ああ、全くだ。謝ることも出来ないなど、人間として底辺も良いところだからな。……では、我々はこれで失礼いたします」

 お見送りは結構ですので、と2人は素早く客間を後にした。

 ドアを閉めた瞬間、怒号と奇声、そして何かが壊れる鋭い音が聞こえてきたが、もうどうでもいいことだ。使用人たちが慌ただしく客間に向かっていくのにすれ違いながら早足で館を後にし、待たせておいた馬車へ乗り込む。

 馬車が静かに動き出したのを合図にするかのように、ふ、とトリエ男爵……クレマンが息を吐いた。

「やれやれ、これでラドゥメグ家を切り捨てられる」

「おや、考え直すのでは?」

 セドリックがワザと尋ねてやれば、クレマンは肩を竦めてみせる。

「『減額を考え直す』んだ。『打ち切る』という方向にな」

「人が悪いですね」

「父上からの縁を無碍に出来ないのを良いことに、好き放題しおって。無駄に搾取されて良しとする者などおらぬわ」

 ことある事に祖父の名前を出して『援助』を求められ、無茶な投資やら商売やらに使われていた父の気苦労を知っているセドリックは苦笑するだけに留めておいた。

 しかし。

「私を利用するとは本当に人が悪いですね」

「……使えるものは親でも使えという言葉があってだな」

「私は息子です」

「言葉のアヤだ。しかし、お前には気苦労をかけさせてしまったな。申し訳ない」

 深々と頭を下げるクレマン。その行動には一切の迷いなどない。

 だからこそ祖父だけでなく、父も尊敬して止まないのだとセドリックは思う。

「もう大丈夫ですよ。婚約者への接し方の『勉強』にもなりましたからね」

 『勉強』ときたか、とクレマンは苦笑する。やはり血は争えん、と。

「だが、ラドゥメグ伯爵令嬢が『水仙の令嬢』という二つ名を持ち、本人がそれを良しとするとはな」

「水仙には毒があるということをご存知ないのでしょう」

 要するに暗に『外見は綺麗だが毒持ちの令嬢』だと影で揶揄されているのだが、本人はそれに気付こうともしないどころか、綺麗な部分だけ見てご満悦だ。それはこれからも変わらないだろうが、教えてやる義理などない。

 それよりもこの先、カテリーナが噂を払拭するための行動を取るのかどうかが鍵だ。行動すれば良し、しなければ契約違反としてどちらにしろ援助を打ち切る方向に持っていける。さらに婚約解消した経緯をこちらがこと細かに説明してやれば良いだけだ。

 貴族たちは噂話に目が無い。あっという間に今度はカテリーナの悪評が広まることだろう。彼女がどれだけ否定しても無駄に終わるだろう、真実の話なのだから。

「しばらくは事後処理に追われるでしょうから、当分の間婚約は……」

「それなんだが、ベルナール家公爵令嬢のクラリスはどうかと話が来ているが」

 クラリスはシモンの二つ下の妹だ。彼女も同じく幼馴染で、シモンを交えて3人で遊んだりお茶会を開いたことは楽しく、幸せな記憶として残っている。茶色のふわふわとした癖毛に大きな紫の瞳を持つ可愛らしい顔をしたクラリスは、幼い頃は「セドリックおにいさま」と呼んで慕ってくれた。成長し「おにいさま」ではなく「セドリック様」と呼ばれた時は、少しだけ寂しかったのを覚えている。

 確かに彼女であれば気心が知れているし、『本当』に大切にしたいと思える。ただクラリスが自分をどう思っているかが問題なのだが。

「その点に関しては大丈夫だ。話を持っていった時、クラリスは喜んでいたぞ」

「そうなのですか? ……それは、嬉しいですね」

 頬を染めて嬉しそうに微笑むセドリック。

 ああ、これは上手くいきそうだとクレマンは頷いた。

「近い内に顔合わせをするから、準備をしておくように」

「はい」

 しっかりと頷くセドリックに、クレマンは目を自然と細める。

 馬車は、そんな2人の会話を邪魔しないよう、あくまでも静かに走り続けた。


(終)

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「お礼を言うと死ぬ病気」に「謝ると死ぬ病気」プラス「水仙の令嬢」、これもう人としてダメダメちゃんです。この子にしてこの親ありって感じのラドゥメグ伯爵家でした。 ストーリーは最初から最後まで良い流れで、…
淡々とスマートにかつ毒を忍ばせてやり返すセドリックと父親の方がよほど貴族らしいよなぁ…。 面白かったです。
後日談が読みたいです!!可愛い幼馴染の婚約者とのエピソードや、水仙(笑)のその後も… さっくりと読みやすく、とても面白かったです!
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